綿箆雑記帳

日常で思ったことの雑記、メンヘラとオタク考察、書評、創作

雑記 さよならはハードモード

 挨拶が苦手だ。

 特に、別れ際の挨拶が苦手だ。

 相手を違和感を与えることなく、さよならをこなすのは、僕にとってなかなか難しい。

 

 友達と二人で帰るとき、別れる交差点が近づくとソワソワする。

 どのタイミングで「お疲れ様」と言おう。

 いつから相手の顔を見て、どんな表情で別れを告げればいいんだろう。

 やっぱり相手が進路を変更してからがいいだろうか、それとも先手をとって声をかけたほうがよいだろうか。

 その時が近づくほど僕は緊張する。

 一瞬の大仕事に取り掛かるのだ。

 相手と会話しつつも、言葉は頭を素通りしていく。

 身体全体が交感神経支配に傾いていく。

 コンビニを過ぎて、後10m。

 別れの挨拶の時が来る。

 7m、5m、3m……

 

「おつか……ぁ」

 

 なんてこった、相手が気を遣って遠回りしてくれた。

 あと交差点3つ分は一緒にいる時間がある。

 気を利かせてくれた向こうに対して、こっちはもう別れを告げる気マンマンだったのだ。

 もうなんて顔したらいいか、分からない。

 小声で「あっ、ありがと」なんて情けない声をあげて、出しかけた自転車のスピードを落とす。

 なんとも言えない空気感が二人の間についてまわる。

 

 結局、確実に友人と道を違えるところまで一緒に行く。

 途中なんとなく界隈をしながら時間を潰す。

 そして、別れる瞬間、何食わぬ顔をして「お疲れ様~」を発す。

 任務完了だ。

 ミスもあったが、最終的にそこそこ綺麗な締めを出来たのではないだろうか。またこの経験を次回に活かそう。

 なんて考えても、また次回は次回で、さよならを言うのに滅茶苦茶緊張するのだ。

 

 しかし、冷静に考えて、挨拶はコミュニケーションだ。自分よりは相手の為にするものだ。

 相手との関係を円滑にする為のものであって、

 自分が社会に適応する為の試練ではない。

 相手のことを自分より先に考えられるなら、上のような悩みを起こらないだろう。

 自分がどう思われるかに固執するから、無駄に緊張するのだ。

 

 

 挨拶は相手の為、忘れずにいたい。忘れずにね。

赤木リツコ「キモオタクのジレンマ」

 オタクは自分がキモいことを認めるべきなのか。
 
 
ここ最近の僕の悩みである。
 
意味不明な悩みだと思われるかもしれない。
 
しかし、これがなかなか深刻な悩みなのだ。自分をキモいと認めるも一苦労、認めないもまた一苦労なのである。
 
そして人生に苦労するオタクたち全てに通じる悩みでもあると思う。
 
なぜキモさの自認が問題になるのかを書いていきたい。

 

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なぜキモいのか、キモいとどうなるか


 
まず前提条件として、オタクはキモい。
 
と言うと、
 
「俺オタクだけど彼女いるし、キモいとか言われたことないんだがw
 
などとイキる輩が出てくる。
 
なので、ここではオタクを『他人の気持ちを汲み取ることが出来ず、不快にさせる人』と、定義したい。
 
『何か一つのジャンルに精通してる人』とは、全く別の概念だ。

 

 『他人の気持ちを汲み取ることが出来ず、不快にさせる人』は大体キモい。

 不快にさせるというのは、気持ち悪いと思われるのに等しい。
 
オドオドするオタク。会話が不安なのは結構だが、キョドられる方も面倒だ。自分が何か悪いことでもした気分になる。そこを理解していないであろう。
 
小汚い身なりをするオタク。自分には見えないからか平気で人前に出る。しかし、会う人全てに不快感を抱かせている。
 
不潔な身なりでビクビクしてるような奴は、自分が第一で他人にどんな思いをさせようが構わないと主張しているようなものだ。
 
オタクは、『他人の気持ちを汲み取る』ことができないために、気持ち悪い格好や言動をしてしまうのだ。
 
オタクはキモい。
 
 
つぎに、キモいオタクは人間関係に難を抱えることが予想される。

 臭いがキツい人。すぐ不機嫌になる人。自分の都合ばかり優先する人。これらの人種と積極的には仲良くしたい人はいないだろう。

 キモいオタクは友人との間に軋轢も予想されるし、そもそも友人などできないかもしれない。恋人なんて夢のまた夢、異性との距離感が掴めずにトラブルを起こすのが関の山だ。
 
そして、人間関係の失敗がオタクを更に卑屈にさせる。結果、余計に気持ち悪さが増しさえする。


 
オタクはそのキモさゆえに、人間関係を上手く築くことができない。

 

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自己認識は諸刃の剣
 
 
話をキモさの自己認識に戻す。

 対人スキルがなくて苦労しても、それで平気なら自己認識は問題にならない。
 
自己認識が悩みの種となるのは、自分の気持ち悪さをなくそうとするとき、すなわち『脱オタク』するときである。
 
脱オタクは以下のように行われる。自分の欠点を改めて、コミュニケーション能力を向上させ、周りからの評価を改善する。そして、自分の気持ち悪さ、対人関係の問題から抜け出す。
 
脱オタクできれば、自分と周囲の人ともにいい影響がある。自分は様々な問題が立ち消え生きやすくなるし、周囲の人も不快にされないので済む。
 
脱オタクが可能ならば、するに越したことはないだろう。
 
がしかし、その脱オタクの道を厳しく辛いものにしているのが、オタクの自己認識なのだ。
 (
ここでの自己認識: 自分の気持ち悪さを認めること)
 
 
ではなぜ、自己認識が脱オタクの道を厳しくしているのか。
 
 
そもそも、自己認識がなければ、脱オタクの道を歩き始めることができない。
 
脱オタクするには、自分の欠点がトラブルの原因だと、理解する必要がある。
 
そのためには当然、自分に欠点があるという認識がなければならない。
 
欠点があることを知らなければ、改善しようという決意すら抱けないのだ。
 
その点で、自己認識は脱オタクに必要不可欠なのだ。
 
 
しかし、自己認識をすることは、それ自体が大いに精神に負担を強いる。
 自分をキモいと認めることは、おおいに自尊心を傷つける。メンタル版の自傷行為だ。
 
更に、脱オタクはすぐには終わらない。つまり、自己認識は相当長い間負担になる。

 急に気配りができる人間に変われはしない。振る舞い方は人間関係のなかで失敗しながら学ぶしかないのだ。その期間は決して短くないだろう。
 
また、身なりも服装だけならすぐ直せる。しかし、体形や体質はそう簡単に変わるものではない。脱オタクの期間中、鏡に映るキモオタクを見るたびにガッカリしなければならない。
 
脱オタクは時間がかかり、その間中、自己認識によるダメージを受けることになる。
 
 
自己認識が脱オタクを辛いものにしているのは、それ自体が精神にダメージを与え、なおかつ長い脱オタク期間に必要不可欠であるからである。

 

 

結局キモいと認めるべきなの?
 
  
自己認識をしなければいつまでも人間関係でトラブり続ける。
 
しかし、自己認識をすると長い期間自分を傷つけることになる。
 
オタクは自分が気持ち悪いことを認めるべきなのか。
 
それとも自分の欠点から目を逸らして、他人に迷惑をかけ続けるべきか。

 キモオタクのジレンマである。


 
社会で生きるという観点から考えれば、自分の欠点をしっかり認めるべきなのだろう。他人を不快にさせて平気なようでは、社会で相手にされない。
 
心に傷を負いつつも、何処が悪いのか理解し、欠点と向き合い、改善する努力が必要なのだ。
 
ニートで一生終えるか、凄腕の株ディーラーにでもならない限り、我々は社会システムのなかで生きていかなければならない。
 
すなわち、社会に出るオタクは自らをキモいと認めるべきなのだ……。

 
世のオタク諸兄。
 
我々の前には茨の道、我々の後ろには底なしの沼。
 
茨の向こうに何があるかは分からない、しかし沼の底には何にもない。
 
どうやら、前に進むしかないらしい……。

 

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追記

 本質的には似たようなことを書いた記事を以前メンヘラ.jpさんに載せていただきました。

 宣伝もかねてリンクを貼っておきます。

 

menhera.jp

 

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雑記 JKとトランシーバー

JKガールズバーの嬢が駅前でキャッチをしていた。

制服というよりAKBの衣装に似た格好で、通り過ぎる人を睨んでいた。

僕は憤った。

衣装が安っぽかったからでも、嬢がJK既卒にしか見えなかったからでもない。

店との連絡用のトランシーバーを腰につけていたからだ。

もう全てが台無しだ。

JKはトランシ―バーで店に連絡しない!!

JKガールズバーというからには、「JKと話ができて酒が飲める」という幻想を売っているはずだ。

勿論客だって、その幻想は嘘だと分かっている。自分を酒と性欲で騙して楽しむのだ。

だが、そこにトランシーバーなんてあっては自分を騙しきれない!!

トランシーバーは、JKの背後にある「店」の象徴なのだ。

普通のJKのバックには怖いお兄さんはいない。

トランシーバーひとつで、JKは水商売の女に変貌してしまった。

 

雑記 感情ルール

 最近、幾つか成功体験があった。

 兼ねてからの目標を達成することができた。

 数年越しの念願も叶った。 

 

 メンヘラ.jpに記事を載せていただいたのも、その一つだ。

 さすがに数年越しの願いではないが、それでも時間をかけて自分なりに文を書いた。

 結果、思っていたよりも多くの人に読んでもらえて、嬉しかった。なかには、リプやDMで、共感したと感想を送ってくださる方もいた。

 まとまりない自分の文章でも、読み物として誰かの心を動かせたと思うと、幸せだ。

 

 ……

 …………と思うはずなのに、

 意外と自分自身の心が動かなくて、それにガッカリしてしまった。

 

 滲みるような幸福感はある。

 しかし、「もっと喜ばなきゃいけないはずだ」という考えが、それを超えて強く主張してくる。

 「喜ぶべき状況で喜べないダメな自分」という認識が、少しずつ膨らんでいく。

 

 昔、高校の学祭でも似たようなことがあった。

 「あんなに努力したから、この瞬間もっと俺は感動してなきゃダメなんだ」

 クライマックスで泣けなかった自分に、失望していた。

 事実に感情が追い付かないことが、凄くもったいないと思えて、悲しかった。

 そして、今もそうだ。

 

 いったい何に強迫されているのだろう?

 自分から自由になりたい。

『数学文章作法 基礎編』 紹介

 

 

 自分の文章に読みにくさを感じたこと、あなたはないだろうか。 

 

「ゴチャゴチャして読みにくいし、なにが言いたいのか分からない……」

 

 僕のことだが、よくある話でもあるだろう。

 

 

 読みにくい文章しか書けないと、困ることは多い。

 文章を書く行為が、我々の日常生活に浸透しているからだ。

 社会人は、業務用の書類やメールを書かなければならない。

 大学生は、レポートやプレゼン用のパワーポイントで文章を書く。

 プライベートでも、メールやLINE、TwitterfacebookなどのSNSに文字を打ち込む。

 好むと好まざるに関わらず、我々は文章を書かなければ生活できない。

 それゆえ、読みにくい文章しか書けないと、様々なひっかかりが生じる。  

 

 

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「毎日文章を書くのに、読みやすい文章を書く技術がない」

「分かりやすい文章が書けたら、色んな部分で楽になるのに……」

 

 そんな方にオススメしたいのが、今回紹介する『数学文章作法 基礎編』である。

 作者は、『数学ガール』シリーズの結城浩だ。  

 

数学文章作法 基礎編 (ちくま学芸文庫)
 

 

 

本の概要    

 

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「数学?」

「別に数学の論文を書く気はサラサラないですけど……」

「数学が出てくると分かりにくそう……」

 

 のように思う人もいると思う。

 しかし、心配しないでほしい。

 この本は、別に数学科の学生の教科書ではないのだ。  

 

 

 では、一体なんの本なのか。

 この本は、正確で読みやすい文章を書くための原則を紹介する本である。

 そのために、数式まじりの文章を題材として用いている。

 この本では、数式まじりの文章を読みやすくするためのポイントを、一冊かけて紹介していく。

 そのポイントは、数学系の文章だけでなく、全ての文章に通じるものだ。

 数式は具体例というだけである。 

 実際は、普遍的に使用出来る文章作法を教えてくれる本なのだ。

 

 また、数学が出てくると分かりにくいのでは、という心配も杞憂である。  

 この本は、数学が苦手な読者のことも考えた説明がされている。  

 積分が解けなくても、方程式が解けなくても、この本の内容は理解できる。    

 

 

内容の例    

 

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 ひとつ、文中の内容の例として、「例についての解説」を一部要約しよう。

 

 

 さて、以下の2つの文章のうち、どちらが分かりやすいだろうか。

 詳しく言えば、どちらが自然数を理解するのに良い例示だろうか。  

 

「1,2,3,…のような,1以上の整数を自然数と呼びます.」  

 

「1,2,3,…のような,1以上の整数を自然数と呼びます. 0や-1は自然数ではありません.」  

 

 当然後者である。  

 0や-1という当てはまらない例を提示することで、自然数の概念の輪郭をハッキリ捉えることができる。

  以上の例を用いて、

「文章中の例示では、典型例だけでなく、当てはまらない例も導入すると、より分かりやすい」

 ということを示している。

 

 

 このような調子で、数式まじりの説明文を用いて、文章を書くのに必要な原則を教えてくれる。    

 

 

お勧めポイント    

 

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 これだけではこの本の魅力が伝わらないと思う。

 そこで、お勧めポイントを挙げていく。

 以下の4つである。  

 

・読者の重要性を叩きこまれる

・具体的なルールを紹介してある

・単純に分かりやすい

・この本自体が壮大な一つの例である

 

 

・読者の重要性を叩き込まれる

 

 この本では、終始一貫「読者のことを考える」をメインテーマとして主張している。

 これが、『数学文章作法 基礎編』の最大の特長、売りである。

 ではなぜ、読者を重視していることが、この本の長所となるのか。

 以下に説明する。

 我々は、読みやすい文章を書くために、この本を読む。

 では、読みやすい文章とは、「誰にとって」読みやすいのだろうか。

 当然、読者である。読みやすいかどうかを決める人は、読者だ。

 すなわち、「読みやすい文章を書く」という目的において、読者は最重要ポイントなのだ。

 よって、「読者のことを考える」ことは、読みやすい文章への最短ルートとなる。

 それを徹底的に主張しているから、この本は優れているのだ。

 

 

・具体的なルールを説明してある

 

 この本では、読みやすい文章のための原則を、具体的に示してある。

 たとえば、二重否定を使わない、列挙には個数も併記する、など。

 よって、自分が文章を書くときに、そのまま流用できる。内容を自分で噛み砕く手間が必要ない。

 文章教則本のなかには、観念や意識的な教えが多いものがある。

 そういう本を一通り読んで分かったつもりになっても、いざ書くとなると、手助けにはならない場合も多い。

 しかし、この本では、具体的な指示のみが載っている。

 一度読めば、書きながらそのまま適用できる。

 また、推敲時のチェックリストとして用いることもできる。

 

 

・単純に分かりやすい

 

 当たり前だが、この本自体が読みやすい。

 読者が理解という壁を越えやすいように、図、例、まとめを順序よく配置してある。ちょうど階段を作るような具合だ。

 そのため、読者が内容に置いていかれることはない。

 また、ページが視覚的に整理されている。そのため、内容が頭に入ってきやすい。

 難しすぎて本を放り投げることはないだろう。  

 

 

・この本自体が壮大な例示である。

 

 また当たり前であるが、この本自体が「数学的文章作法」に基づいて書かれている。    

 よって、2回、3回と読んでいくと、「読みやすい文章のための技術」が、文章の随所に使われていることが分かる。

 語句、形式、順序と階層など、作者が自分で教えている通りに文章が整えられている。

 つまり、この本自体が一つの大きな例なのである。

 注意深く読むことで、我々はさらに理解を深めることができるのだ。

 

 

 以上の4つが、僕がこの本をおすすめするポイントだ。

 

 

まとめ
 

 日常で文章を書くことは多い。

 しかし、読みやすい文が書けなくて困っている。

 そんな人は、是非一度読んでみてほしい。

 また、どうやって数学を用いて文章術を教えるのだろうと、興味がある人にも読んでみてほしい。

 どちらだとしても、十分に満足することができるだろう。

 

数学文章作法 基礎編 (ちくま学芸文庫)
 

 

 最後に、僕はこの本を以下の動画で知った。

 観ると、数式まじりの文章作法に、より興味を持てると思う。

 別に、出てくるキャラクターを知らなくても平気なので、チェックしてみてほしい。

 

 

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ラピスラズリ、紹介

 山尾悠子さん(以下敬称略)のラピスラズリという小説を読んだ。今まで読んだことのない種類の小説で、なおかつ読み応えがあったので、紹介したいと思う。

 

ラピスラズリ (ちくま文庫)

ラピスラズリ (ちくま文庫)

 

 

 分かる(wikipediaの)範囲で作家を紹介したい。

 山尾悠子幻想文学作家で、硬派で緻密な表現で幻想世界を描いた、難解かつ詩的な作品が評価されている(らしい)。

 もともとSF畑でデビューし、結婚子育てで十数年休業したのちに、99年から創作活動を再開した。ラピスラズリは2003年の作品である。

 

 

 このラピスラズリのあらすじだが……、

 

冬のあいだ眠り続ける宿命を持つ〈冬眠者〉たち。一人眠りから目覚めてしまった少女が出会ったのは、「定め」を忘れたゴーストで――『閑日』

秋、冬眠者の冬の館の棟開きの日。人形を届けにきた荷運びと使用人、冬眠者、ゴーストが絡み合い、引き起こされた騒動の顛末――『竈の秋』(裏表紙より引用)

 

 個人的には「冬眠者」「目覚めてしまった少女」「人形を届けにきた荷運び」など幻想的なワードが散らばっていてワクワクする。

 しかし、正直これではどういう話なのか全然掴めない。一、二章については、つぎにまとめてみたので、読んでほしい。

 

 一章「銅板」は、”わたし”が深夜営業の画廊で三枚の腐食銅版画を眺めているシーンから始まる。

 銅版画には冬眠者のものがたりが描かれていると、“睡眠不足で赤い目をした画廊の店主”は言った。

 特権階級の冬眠者、使用人の反乱、人形、落ち葉枯れ葉。

 わたしと画廊の店主は、銅版画の世界について考察を交わしていく……。

 

 二章「閑日」、三章「竈の秋」は、一章の銅版画の世界での物語である。

 

 二章「閑日」。冬眠者の少女が年の終わりに目を覚ましてしまう。

 少女はいま、冬眠者が冬を越すための搭にいて、一切の食べ物もなく暖をとる手段もない。搭の出入り口は施錠され、少女は結果的に閉じ込められていた。

 危機的な状況になりながらも、はじめての〈冬〉を眺めていた少女は、窓のむこうに朧げに光るゴーストを見つける……。

 

 三章以降は、説明が非常に難しいのでまとめきれなかった……おにいさんゆるして。

 

 物語は五章構成である。

 それぞれ、「銅板」「閑日」「竈の秋」「トビアス」「青金石」というタイトルを与えられている。

 全ての章が、冬眠者(冬になると眠り、春まで起きずに過ごす。その間の食事は必要なく、成長も老化もしない)の存在する世界の幻想物語だ。

 

 特徴的なのは、五つの章は連続しておらず、物語は一章ずつ完結することだ。

 さらに舞台が一、二章ずつ転々と変わってしまう。

 冬眠者、人形などのワードが共通する、時代も場所も違うお話が展開される(例えば、先に書いた”わたし”と”冬眠者の少女”は別人である)。

 

 「銅板」と「トビアス」は、人口減少によって社会崩壊間近の近未来日本。

 「閑日」と「竈の秋」は、冬眠者が貴族である中世ヨーロッパのシャトー

 「青金石」は、十三世紀のイタリア、聖フランチェスコという実在の人物の晩年。

 

 中世ヨーロッパの物語が終わったら近未来日本へ、近未来日本が終われば別の中世ヨーロッパへ、景色、時代、使われる名詞も突然様変わりする。

 基本的には一章ずつ独立して、表面上関係ない話が完結するので、章ごとの意味や全体としてどういう物語なのかは語られない。自分で理解、想像するしかないのだ。

 

 ここまででなんとなく察せられると思う。この本は非常に内容が難しい。

 先に書いたように、物語の全体像をつかみ取るのも一筋縄ではいかない。

 また、単純に読みにくい。硬派な文体での充実した情景描写は、逆手にとれば初心者お断りの雰囲気もなくはないのだ。

 三章には広く複雑なお屋敷が登場するが、どういう構造で、どこで事件が起こっているかは、初見ではわからなかった。

 ほかにも人、時、場所が章のなかですら転々とするので、どういうストーリーが進行しているか読み取りにくい。だれが、いつ、どこで、なにをしているか分からないのだ。

 一回読むだけで物語を理解するのは、なかなか難しい。自分は三回読んだが、正直まだこの物を理解しきっていない……。

 

 しかし、それを踏まえても、この本を読む価値あるものにしている点が二つある。

 一つは、この物語が超高級スルメ本である点である。

  一回読むだけでは小説の詳細も全体もぼんやりしている。

 しかし、繰り返し読むごとに徐々に霧が晴れて物語が見えてくる。読めば読むほどおもしろくなってくる。まるで噛めば噛むほど味が出るスルメのような本なのだ。

 

 二回目のほうが真に迫ってくる事件の情景。

 実は以前に示されていた、ある人物の行動の意図。

 明示はされないが、ある人と別の章の人は同一人物であること。独立した各章が、深い部分でどうつながっているのか。

 四章までとは雰囲気の違う五章の、ラピスラズリという物語全体における意味とは。

 

 こういうことだったのか!と、いわゆるアハ体験をすることができる。

 さらに、これを何度も楽しめる。なんたって難解だから、ちょっとやそっとでは秘密は明らかにならないのだ。

 

 

 次は、なんと言っても、幻想作家の情景描写の美しさである。

 内容はてんでわからなくとも、描かれた情景を読み取る”絵本”として価値があるくらいだ。

 

 一章は、深夜営業の画廊。

 二、三章は、中世のシャトー

 四章は、滅んでいく日本。

 五章は、また別の中世の、聖人の庵。

 

 全く別の風景を、現実的な感覚に即した言葉で、描写していく。

 そういったリアリティある描写で構築された景色が、全体でみれば浮世離れした幻想世界になっているのだから、これはまさに職人芸というしかない。

 

 個人的には四章の情景が好きだ。

 四章は日本の話で、割と身近な言葉で描かれている。それでいて、章全体に斜陽感、先に待っている滅びやもう抜け出せない諦めが、漂っている。

 世界全体が夕暮れていく雰囲気がたまらない。

「その頃わたしは古い運河に潮のにおいが混ざる地方の廃市で暮らしていて」

「備蓄ぶんが残りわずかになっているガソリンを使用できる階級は限られていたのだということすら」

 やっぱり四章は神、はっきりわかんだね。

 

 裏表紙にも冬、秋や冬眠者と書いてあるように、季節の描写も多い。それらもまた目前に迫る物がある。

 

 冬の晴れ日の寒いけれど澄み切った空気と景色。

 逆に吹き抜ける雪と風で凍えてしまうような冬の夜。

 食物が豊富で皆が活気付いている秋と、その中に感じる冬の訪れ。

 

 自分自身の肌の感覚とともに、物語の季節を体験できる。

 

 また、一章、三章、四章は物語の要素に”滅び”が入っている。

 美しい細工をいくつも精密に組み合わせて、著者が作り上げた世界を、自らの手で崩壊させてしまう。

 幼い子が小さな感情の起伏で、目の前のものを薙ぎ払ってしまう、そんな衝動性がこの本から感じ取れる。

 緻密な表現のうらの衝動性にまた惹かれる。

 

 山尾悠子本人も「絵画から小説のイメージを得ることが割合多い」らしく、納得の描写力である。ぜひこの小説を手に取って”文を観賞”してほしい。

 

 なかなかとっつきにくい作品ではあるが、読み込んでいくとツボにはまってしまう本だったので、紹介させてもらった。

 興味が湧いた方、ぜひ美しい絵の謎を解いていくような読書を味わってほしい。

 

 

 あ、全然関係ないけど、絵の謎を解くといえば、楽園のカンヴァスもおもしろかった。

 

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

 

 

病みツイ職人の夜は遅い

 Twitterには病みツイート、病みツイが溢れている。

 

 修正キツい自撮り姫が病みツイで囲いの豚どもから承認を徴収している。哀れな童貞どもはセックス欲しさにリプを送る。自分に都合よく動く豚に姫は満足する。(実際囲ってた姫とオフパコ案件とかあんの?)

 

 誰にも相手にされない男メンヘラもまた病みツイをしている。負った傷を話して癒そうにも相手がいないから、誰かが見てくれているかもしれないネットの海に自分の痛みを放流する。結局それは誰に拾われることもなく、深く沈んで消えてしまう。

 

 僕も病みツイ常習犯である。一つ息を吐くたびに、病みツイを生み出すことができる。毎回似たような内容を、それでいて違う文やネタを用いて作り出す。我ながら職人芸だと思う。

 

 しかし、病みツイ職人、僕はある日気づいてしまった。

 病みツイをTLに載せる行為が不特定多数に負担を押し付けている、要はうっとおしいと思われていることに。

 

 よく知らない奴が、生きづらさについていきなり深刻な口調で相談してきた。自分の悩みを聞いてほしいと言う。普通に考えてウザい。しかも度々似たような相談を繰り返してくる。知らねぇよ!となるに決まっている。知り合いだとしても何回も同じ話をされたら面倒だ。

 

 病みツイをTLに流した段階で、見た人たちに相談相手役を押し付けていたのだった。フォロワー宅の玄関で、「ちょっと僕の悩み聞いてくれない?」と病みツイの押し売りをしていた。なんてウザい野郎なんだ。

 

『友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする』 

 いやちょっと待って。喜びをくれるのはええけど、なんで関係ないのに悲しみの半分受け取らなアカンの。病みツイを見せられた側の気分はこれである。さらに都合の悪いことに、ツイートした本人は悲しみを半分にできても、ツイートを見た人の全員が悲しみの半分を受け取るはめになるのだ。

『病みツイは、悲しみを半分+半分*フォロワー数にする』

 

 まぁ所詮はインターネットなので、知らない人を不快にしても、現実に影響はない。しかし、これをまぁリア垢でやり続けてたら、ウザがられてもしょうがないだろう。リア垢で病まないことを誓った。

 

 あと、

 なんでインターネットのメンヘラ系姫の自撮りって、

 いつも白い光り飛ばして、似たようなメイクで、しかも似たような顔ばっかりなの??

 なんかルールでもあるの??