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Watabera Miscellaneous Notes

人生やめてません

雑記 世の中、名著が多すぎる!!

 「読まなきゃ」を沢山背負っている。


 日本人の平均から比べれば、僕は本を読むほうだと思う。実習の隙間時間や部活のない平日で気が向いたときは、本を読んでいる。部屋の本棚が整理できないくらいには持ち本も増えてきた。

 

 本読みとはいかないが、本好きぐらいの自負はある。

 

 

 
 本を読むようになってから、ある種の罪悪感に襲われるようになった。それは、「読まなきゃ」という強迫観念である。


 本にはそれぞれの分野にそれぞれの名著がある。

 

 洋ミステリだとアガサ・クリスティーヴァン・ダインエラリー・クイーンの作品であり、邦ミステリだと横溝正史松本清張綾辻行人の作品だ(なのか?)。

 

 純文学なら夏目漱石森鴎外二葉亭四迷などの文豪たちの作品。

 

 僕には分野も分からないが、ドストエフスキーサリンジャーカフカの作品も名著とされている本がたくさんある。(村上春樹とか遠藤周作とかはどの分野になるんだ、純文学か?)

 

 さらに、今挙げた分野以外エッセイとか歌集とかにも、必読の名著がある。本だけでなく、音楽などにも同じことが言えるだろう。


 ともかく、本にはもはや教養扱いの名著が多い。罪悪感はその存在から湧きあがってくる。


 そう、名著の数々を僕は読まないままに放置しているのだ。だから、「それらを読まなきゃ」という強迫観念が襲ってくる。


 しかし、そういう名著たちは古い本が多く、どうも手がつけにくい。

 

 文体も原因のひとつである。そして、感性の近い現代の大衆小説のほうが、どうしてもページの進みが早い。これが原因として大きい。

 

 時代を超えて共感されるものがあるから名著なのだろう。しかし、そこに辿りつくまでの道のりが僕にはなかなか厳しいのだ。

 

 罪と罰はなんとか読み切ったが、カラマーゾフの兄弟は文庫本の上を読んで、残りは積んでしまっている。貴志祐介だと立ち止まらずに読めたのだけど……。

 
 さらに、先に書いた通り、名著は分野の数だけ無限にある。何処かのジャンル専門の読者にでもならない限り、「読んでいない名著」は次々に現れる。

 

 新しいジャンルに手をつけるたびに隠れていた名著たちが出現するのである。「そのジャンルに興味があるのに、〇〇を読んでないの?」という状況は繰り返される。

 

 どうも、隠居して読書三昧でもしない限り、「読まなきゃ」から逃げられることはないらしい。

 
 自分は本好きだ、という無駄なプライドがこの負担を生じさせている。それは分かっている。

 

 しかし、有識者(だと僕が思う人)は、やはり名著をたくさん読んでいる気がする。それに気づかされると、また「読まなきゃ」が襲ってくるのだ。

 

  


 名著は読みにくいかもしれないし、数も無限にある。しかし、やはり読むと得るものが多い。

 

 自分のペースで「読まなきゃ」と付き合いつつ、名著に少しずつ挑戦したい。

 

 


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雑記 ブックオフの本棚に幸せを探す

 

 実習が早く終わったのでブックオフで適当に100円コーナーを漁った。

 

 近くのカフェでオムライスを食べて、買った本を読んでいた。

 

 夏の記憶ばかり集めた、いい本だった。

 

 読んでいるうちに眠くなってきて、ページに指を挟んだまましばらく寝た(カフェで寝ていいのかわかんないけど)。

 

 一度寝たらスッキリして、残りはすぐに読み終えた。

 

 次の本の冒頭数ページを読んで水を一杯飲んでから、店を出た。

 

 暗かった店内からいきなり眩しい外に出たら、ぼーっとして、幸せだなと思った。

 

 

 

 不安な気持ちとか、満たされない気持ちとか、嫌なこととか、僕のなかに不幸せは存在する。

 

 だけど、こういう時間があることは(例えそれが偶にだとしても)、幸せなんじゃないかと思う。

 

 それだけじゃなくて、家庭環境とか、友人の存在とか、普段無視している幸せはたくさんある。

 

 僕の辛さは、僕のものであって、誰かの辛さとその大小を比べられて否定される筋合いはない。

 

 同時に、僕の幸せは、僕が確かに持っているもので、自分で無視してはいけない気がする。

 

 

琉金の水槽昨日より濁るふと見つけたら今日はいい日だ

 

 

 とか説教くさいこと考えてたら、そのカフェにスマホ忘れた。

 しかも、営業時間過ぎてから気づいたんだけど。

 どうしよう。


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雑記 ポテトチップス・トラップ

 

 ポテトチップスが食べたい。

 


 午後6時ぐらいに晩御飯を食べてしまうと、夜中にどうしてもお腹が空く。

 

 無性にポテチが食べたくなる。


 あの袋の中に幸せが詰まっているような気がする。食べたら金色の満足感に浸れるような気がする。


 幸か不幸か、キッチンの棚にカルビーコンソメパンチが入っている。しかも一番手前だ。この前ヤンジャン読むついでに買ったやつだ。

 


 どうしよう。

 


 ポテチを食べるか食べないか、これはもう重大な議題である。


 コンソメパンチの袋を開けてしまえば、抑えきれない小腹の欲求は立ち消える。


 あとは綺麗に歯を磨いて満腹感に浸ったまま寝るだけだ。


 しかし、そう簡単ではないことを僕は知っている。幾度も欲望に負けて、深夜にポテチを空にしてきたからだ。

 


 正直、ポテチは食べた後かなり後悔する。

 


 食べたら太るとかそんなチャチな話ではない。


 ポテチを食べていくと、小腹の欲求は右肩下がりに落ちていき、代わりに胃もたれが右肩上がりに現れてくる。


 一次方程式の直線が二つだ。


 食べれば食べるほど食欲は抑えられて胃の不快感が上昇する。

 

 最後までポテチを食べきると、食欲なんてとうに立ち消えて、胃もたれだけが残る。満腹感を消化管の不快感が邪魔する有様だ。


 なら、小腹の欲求と胃もたれが等しくなるタイミングで食べるのをやめればよいのでは、という主張もあるだろう。


 そんなことができるなら何事も苦労しない。


 ポテチの塩気と油分にすっかりやられてしまった脳は、たとえ胃がもたれようとなんだろうと最後の一切れまで自動でそれを口に運び続ける。


 満足したから台所用クリップで閉じて残りは保存なんて芸当はできないのだ。

 


 やめられない、とまらない。

 


 正直かっぱえびせんは途中やめることはできるが、塩気のあるポテチは無理だ。


 一時の欲求に負けてポテチを食べ始めてしまえば、最終的には胃もたれしか残らない。

 


 そんなことをダラダラ考えている間に半分くらいコンソメパンチを食べてしまった。


 そろそろお腹は膨れてきたが、ポテチを掴む手は止まりそうにない。


 せいぜい歯磨きだけはしっかりして寝ようと思う。

 

 

菓子一つ開けたぐらいと高括りとどのつまりは試験に落ちる

 


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嫌いだと、やけに正論振り撒けど、所詮おまえも同じ穴のメンヘラ

 

 皆さん、ご存知だろうか。

 

 メンヘラは進化する。

 

 生物学的な進化ではなく、ポケモンとかデジモンとかの進化である。

 

 経験値を積んで、新たな姿になり、強くなるのだ。

 

 

 (語弊がありそうなので、定義しておく。

この文章においてのメンヘラの定義は、

『自己愛性的な傾向があり、他人より自分を優先し、人間関係にトラブルを起こす人』

である。

メンタルに悩みを抱える人という意味ではない。) 

  

遊戯王カード 進化する翼 DP1-JP018N

遊戯王カード 進化する翼 DP1-JP018N

 

 

 

 第1形態

 

 自覚がないメンヘラである。

 

 会話中に面白くもない自分語りを挟んでくる。

 

 面倒事を押しつけて、他人が嫌がっても全然気にかけない。

 

 即物的な欲求で恋愛し、周囲の人間関係を破壊する。

 

 そういった自分の行為の害悪度に気づかず、何度も自己愛行動を繰り返す。

 

 やがて段々と、"そういう人"だと周囲に認識され始める。

 

 周囲からの扱いの変化、評価の低下に本人が気づいたら、第2形態への進化も近い。

 

 

 

第2形態

 

 自覚あるメンヘラである。

 

 第1形態が自分を客観視して悪行の数々に気づいた結果、第2形態に進化する。

 

 この形態は、過去の自分に否定的で、一応他人に気を使おうとする傾向にある。

 

 第2形態の最大の特徴は、同類に非常に攻撃的になることである。

 

 第1形態から脱しようとするあまり、同族嫌悪や、自分は違うと拒否反応を、同類に示してしまう。第2形態はメンヘラに非常に辛辣である。

 

 メンヘラを毛嫌いして、やたらに批判する人がいれば、その人もまたメンヘラなのである。

 

 しかし、本人も自分中心の性格から完璧に抜け出せてはいない。

 

 本人も気づかぬうちに自己愛性的行為を働いている時も多い。

  

 

 

第3形態

 

 第1、第2形態と本質的な違いはない。

 

 第2形態の愚かさに気づいている点が第3形態の特徴だ。

 

 第2形態の行う同族嫌悪は、正当な理由に基づいたものではなく、単純に衝動的に行っているものが多い。嫌悪を行うことで、自分とメンヘラを遠ざけ、自己正当化を行っている。

 

 そういう意味で、第2形態の同族嫌悪は第1形態の自己愛行動の延長線上である。

 第3形態はそれを理解している。

 

 そして、第3形態は第2形態の愚かさを過度に叩くことはしない。

 

 それを行ってしまえば、結局第2形態の焼き直しになるからだ。

 

 しかし、第3形態も自己愛性的な傾向は抜けきらない。

 

 数は減っているとはいえ、自分勝手な振る舞いをしてしまうこともまだある。

 

 

 

第4形態

 

 解脱。

 

 社会に適応し、他人の感情を踏まえたうえで行動できるようになったメンヘラ。

 

 もはやメンヘラではない。ただの立派な人である。

 

 

 

 

進化チャート 

 

 自覚なく自己愛行動を繰り返す、第1形態。

 

 第1形態を過度に否定することで自己正当化する、第2形態。

 

 第2形態の欠点を知っているがそれを否定しない、第3形態。

 

 自己愛行動から抜け出した、第4形態。

 

 こうやってメンヘラは進化する。

 

 最終形態である第4形態まで辿り着ければ、ゴールである。

 

 

 

 ちなみに僕は第2.5形態である。

 

 第2形態の愚かさは理解している。

 

 しかし、自尊心のために他人を否定することをやめられない。

 

 TLにイキりツイートが流れてきたら、どうしても叩きたくなってしまう。

 早いところ、解脱したい。

 

 

 

 自己愛性的な自覚のある人、あなたは第何形態だろうか。

 

 少なくとも第1形態ではあるまい。

 

 あなたのまわりの自己愛性的な人は第何形態だろうか。

 

 もし第1や第2形態の人がいても、わざわざdisらないようにしよう。

 

 あなたもまた、同じ穴のメンヘラだと証明されてしまう。

 

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雑記 さよならはハードモード

 

 挨拶が苦手だ。

 

 特に、別れ際の挨拶が苦手だ。

 

 相手を違和感を与えることなく、さよならをこなすのは、僕にとってなかなか難しい。

 

 

 友達と二人で帰るとき、別れる交差点が近づくとソワソワする。

 

 どのタイミングで「お疲れ様」と言おう。

 

 いつから相手の顔を見て、どんな表情で別れを告げればいいんだろう。

 

 やっぱり相手が進路を変更してからがいいだろうか、それとも先手をとって声をかけたほうがよいだろうか。

 

 その時が近づくほど僕は緊張する。

 

 一瞬の大仕事に取り掛かるのだ。

 

 相手と会話しつつも、言葉は頭を素通りしていく。

 

 身体全体が交感神経支配に傾いていく。

 

 コンビニを過ぎて、後10m。

 

 別れの挨拶の時が来る。

 

 7m、5m、3m……

 

「おつか……ぁ」

 

 なんてこった、相手が気を遣って遠回りしてくれた。

 

 あと交差点3つ分は一緒にいる時間がある。

 

 気を利かせてくれた向こうに対して、こっちはもう別れを告げる気マンマンだったのだ。

 

 もうなんて顔したらいいか、分からない。

 

 小声で「あっ、ありがと」なんて情けない声をあげて、出しかけた自転車のスピードを落とす。

 

 なんとも言えない空気感が二人の間についてまわる。

 

 

 結局、確実に友人と道を違えるところまで一緒に行く。

 

 途中なんとなく会話をしながら時間を潰す。

 

 そして、別れる瞬間、何食わぬ顔をして「お疲れ様~」を発す。

 

 任務完了だ。

 

 ミスもあったが、最終的にそこそこ綺麗な締めを出来たのではないだろうか。またこの経験を次回に活かそう。

 

 なんて考えても、また次回は次回で、さよならを言うのに滅茶苦茶緊張するのだ。

 

 

 しかし、冷静に考えて、挨拶はコミュニケーションだ。自分よりは相手の為にするものだ。

 

 相手との関係を円滑にする為のものであって、自分が社会に適応する為の試練ではない。

 

 相手のことを自分より先に考えられるなら、上のような悩みを起こらないだろう。

 

 自分がどう思われるかに固執するから、無駄に緊張するのだ。

 

 

 

 挨拶は相手の為、忘れずにいたい。忘れずにね。

 

 


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赤木リツコ「キモオタクのジレンマ」

 オタクは自分がキモいことを認めるべきなのか。

 

 
 
ここ最近の僕の悩みである。


 
意味不明な悩みだと思われるかもしれない。


 
しかし、これがなかなか深刻な悩みなのだ。自分をキモいと認めるも一苦労、認めないもまた一苦労なのである。


 
そして人生に苦労するオタクたち全てに通じる悩みでもあると思う。


 
なぜキモさの自認が問題になるのかを書いていきたい。

 

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なぜキモいのか、キモいとどうなるか

 


 
まず前提条件として、オタクはキモい。


 
と言うと、


 
「俺オタクだけど彼女いるし、キモいとか言われたことないんだがw


 
などとイキる輩が出てくる。


 
なので、ここではオタクを『他人の気持ちを汲み取ることが出来ず、不快にさせる人』と、定義したい。


 
『何か一つのジャンルに精通してる人』とは、全く別の概念だ。

 

 

 『他人の気持ちを汲み取ることが出来ず、不快にさせる人』は大体キモい。

 

 不快にさせるというのは、気持ち悪いと思われるのに等しい。


 
オドオドするオタク。会話が不安なのは結構だが、キョドられる方も面倒だ。自分が何か悪いことでもした気分になる。そこを理解していないであろう。


 
小汚い身なりをするオタク。自分には見えないからか平気で人前に出る。しかし、会う人全てに不快感を抱かせている。


 
不潔な身なりでビクビクしてるような奴は、自分が第一で他人にどんな思いをさせようが構わないと主張しているようなものだ。


 
オタクは、『他人の気持ちを汲み取る』ことができないために、気持ち悪い格好や言動をしてしまうのだ。


 
オタクはキモい。
 


 つぎに、キモいオタクは人間関係に難を抱えることが予想される。

 

 臭いがキツい人。すぐ不機嫌になる人。自分の都合ばかり優先する人。これらの人種と積極的には仲良くしたい人はいないだろう。

 

 キモいオタクは友人との間に軋轢も予想されるし、そもそも友人などできないかもしれない。

 

 恋人なんて夢のまた夢、異性との距離感が掴めずにトラブルを起こすのが関の山だ。


 
そして、人間関係の失敗がオタクを更に卑屈にさせる。結果、余計に気持ち悪さが増しさえする。


 
オタクはそのキモさゆえに、人間関係を上手く築くことができない。

 

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自己認識は諸刃の剣
 

 

 話をキモさの自己認識に戻す。

 

 対人スキルがなくて苦労しても、それで平気なら自己認識は問題にならない。


 
自己認識が悩みの種となるのは、自分の気持ち悪さをなくそうとするとき、すなわち『脱オタク』するときである。


 
脱オタクは以下のように行われる。

 

 自分の欠点を改めて、コミュニケーション能力を向上させ、周りからの評価を改善する。そして、自分の気持ち悪さ、対人関係の問題から抜け出す。


 
脱オタクできれば、自分と周囲の人ともにいい影響がある。自分は様々な問題が立ち消え生きやすくなるし、周囲の人も不快にされないので済む。

 
 
脱オタクが可能ならば、するに越したことはないだろう。


 がしかし、その脱オタクの道を厳しく辛いものにしているのが、オタクの自己認識なのだ。
 (
ここでの自己認識: 自分の気持ち悪さを認めること)
 

 


 
ではなぜ、自己認識が脱オタクの道を厳しくしているのか。
 
 
そもそも、自己認識がなければ、脱オタクの道を歩き始めることができない。


 
脱オタクするには、自分の欠点がトラブルの原因だと、理解する必要がある。


 
そのためには当然、自分に欠点があるという認識がなければならない。


 
欠点があることを知らなければ、改善しようという決意すら抱けないのだ。


 
その点で、自己認識は脱オタクに必要不可欠なのだ。
 

 


 
しかし、自己認識をすることは、それ自体が大いに精神に負担を強いる。


 自分をキモいと認めることは、おおいに自尊心を傷つける。メンタル版の自傷行為だ。


 
更に、脱オタクはすぐには終わらない。つまり、自己認識は相当長い間負担になる。

 

 急に気配りができる人間に変われはしない。振る舞い方は人間関係のなかで失敗しながら学ぶしかないのだ。その期間は決して短くないだろう。


 
また、身なりも服装だけならすぐ直せる。しかし、体形や体質はそう簡単に変わるものではない。脱オタクの期間中、鏡に映るキモオタクを見るたびにガッカリしなければならない。


 
脱オタクは時間がかかり、その間中、自己認識によるダメージを受けることになる。
 
 
自己認識が脱オタクを辛いものにしているのは、それ自体が精神にダメージを与え、なおかつ長い脱オタク期間に必要不可欠であるからである。

 

 

結局キモいと認めるべきなの?
 

 


  
自己認識をしなければいつまでも人間関係でトラブり続ける。


 
しかし、自己認識をすると長い期間自分を傷つけることになる。


 
オタクは自分が気持ち悪いことを認めるべきなのか。


 
それとも自分の欠点から目を逸らして、他人に迷惑をかけ続けるべきか。

 

 キモオタクのジレンマである。

 

 


 
社会で生きるという観点から考えれば、自分の欠点をしっかり認めるべきなのだろう。他人を不快にさせて平気なようでは、社会で相手にされない。


 
心に傷を負いつつも、何処が悪いのか理解し、欠点と向き合い、改善する努力が必要なのだ。


 
ニートで一生終えるか、凄腕の株ディーラーにでもならない限り、我々は社会システムのなかで生きていかなければならない。


 
すなわち、社会に出るオタクは自らをキモいと認めるべきなのだ……。

 

 


 
世のオタク諸兄。


 
我々の前には茨の道、我々の後ろには底なしの沼。


 
茨の向こうに何があるかは分からない、しかし沼の底には何にもない。


 
どうやら、前に進むしかないらしい……。

 

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追記

 本質的には似たようなことを書いた記事を以前メンヘラ.jpさんに載せていただきました。

 

 宣伝もかねてリンクを貼っておきます。

 

menhera.jp

 


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雑記 JKとトランシーバー

 JKガールズバーの嬢が駅前でキャッチをしていた。

 

 制服というよりAKBの衣装に似た格好で、通り過ぎる人を睨んでいた。

 

 僕は憤った。

 

 衣装が安っぽかったからでも、嬢がJK既卒にしか見えなかったからでもない。

 

 店との連絡用のトランシーバーを腰につけていたからだ。

 

 もう全てが台無しだ。

 

 JKはトランシ―バーで店に連絡しない!!

 

 JKガールズバーというからには、「JKと話ができて酒が飲める」という幻想を売っているはずだ。

 

 勿論客だって、その幻想は嘘だと分かっている。自分を酒と性欲で騙して楽しむのだ。

 

 だが、そこにトランシーバーなんてあっては自分を騙しきれない!!

 

 トランシーバーは、JKの背後にある「店」の象徴なのだ。

 

 普通のJKのバックには怖いお兄さんはいない。

 

 トランシーバーひとつで、JKは水商売の女に変貌してしまった。

 


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