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Watabera Miscellaneous Notes

人生やめてません

”僕にはなんにもない”なんて顔しないでよ

 

 最近、自分の幸せを再認識した。

 昔友人といった旅行の写真だとか、部活中に撮った動画だとか、ふと見てかえしてみて、自分の幸せな部分を確認した。

 具体的には、旅行の思い出、気の置けない友人のいること、部活でいい経験ができたこと、現在の部活に居場所があること。

 別にこれはマウンティングではない(意識の底ではそうなのかもしれないが)。

 こういう風に、自分の足りない部分ではなくて、自分が今持っているものに目を向けるのはとても大事だ、と僕は思う。

 例えば、僕に足りないものと言えば、コミュ力、社会性、文章力、語彙力、運動神経、自制心……etc、すぐに沢山挙げることができる。

 しかし、自分が今持っているもの、自分の幸せな部分を挙げるとなると、なかなか出てこない。

 なぜなら、普段から足りないものにばかり目を向けて既にもっているものには向き合っていないからだ。

 自分の欠点や足りてない部分を認識し、改善や対応策を考えていくのは、重要だ。しかし、欠落についてばかり考えていると、自己肯定感が低くなってしまう。

 ときには、自分の幸せや努力した過去を見つめてあげることも、自己肯定感や自己効力感の為によいのではないだろうか。

 そしてなにより、自分の幸せに向き合わないのはその幸せに対して失礼だ、と思う。

 自分は何も持ってませんみたいな顔をしていても本当に何もない人なんてごく少数だと思う。多くの人は、既に持っている幸せを見ないフリをして、「何にもない自分」を演じているのだ。

 それではあまりにも、自分が既に持っている幸せ、例えば思い出や親しい人に対して、失礼だ。それらを蔑ろにするのは、人として筋が通っていない。

 たまには、自分の幸せについて考えて、それに浸ってみるのも悪くない。精神衛生的にも、人間の筋としても、それは間違った行為ではないはずだ。

 

 

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【医学科】真面目なやつから落ちていく【試験】

 

 ウケ狙い医学科の内情記事シリーズ。



 医学科の試験は真面目なやつが落ちる(もちろん不真面目すぎるやつも落ちる)

 

 

真面目は悪手?


  医学科の試験は大抵範囲が膨大である。


 全てを理解して、暗記しようとなると、とてもつもない労力がかかる。


 学年が上がると、そういう科目が2つも3つも重なってくる。


 それら全部を完璧にしようとなると、部活もバイトも趣味も捨てて、勉強に専念するしかない。


 しかし、全部を完璧にしようとしても落ちてしまう場合がある。


 それが、真面目な奴が試験に落ちるパターンである。原因は2つある。

 

 


 まず第一に、全部を完璧にしようとしても、範囲の広さゆえに中途半端な勉強量になってしまい、努力が得点に結びつかず落ちるパターン。

 

 勉強して理解はできても、そのアウトプットができなくては得点には結びつかない。

 

 範囲のすべてを完全に理解しようとすると、どうしてもアウトプットのほうがお手すきになってしまう。

 

 結果、勉強して分かったはずなのに解答用紙は白いまま、なんてことが起こる。

 


  第二に、情報が足りていなかったパターン。

 

 医学科の試験は、全部を理解しようとするより、「出る場所を理解した方が得点に結びつく。

 

 その「出る場所」は、過去問だったり、先輩や同級生の情報から想像しなくてはいけない。

 

 情報をおざなりにして、やたらめったら「真面目に」勉強しても、試験に落ちてしまう。

 

 必死に勉強したのに、試験に出たのは全然違うところで、しかも同級生の多くはそこだけ勉強して合格、とかもあったりする。

 

失敗談

 
 要は、「効率よく」勉強するのが最善手なのである。尤も、なにが最善手なのかは、情報を手に入れないとわからないのだが。

 

 僕にも痛い経験がある。

 

 当時僕は、なかなか難易度の高い科目の試験を前にしていた。

 

 僕は、普段の試験にはあまり事前準備をせずに臨んでいた。しかし、今回ばかりは、と参考書を買うなどしてその科目を理解しようとしていた。

 

 前評判通りにその科目は難しかった。参考書を読んでもなかなか理解できなかったし、過去問にいたっては完全にお手上げだった。

 

 しかし、勉強しつづけるうちに、すこしずつわかってきた。そうすると面白くなり、勉強が進んだ。

 

 最後の準備をしようと、友達と集まって勉強会をした。

 

 その友達も勉強してきたらしく、勉強会は捗った。その科目の内容について深いところまで議論した。

 

 試験当日、出来はまぁまぁといった感触だった。完璧ではないが、アレだけ勉強したし、合格点には達したろう。

 

 そして結果発表の日、僕と友達は揃ってその科目を落としていた。

 

 一瞬目が点になったが、どう見ても僕はその試験を落としていた。

 

 友達とその科目について深く勉強した時間は、合格にはまったく寄与しなかったらしい。もっと過去問を勉強すべきだったようだ。

 

 幸い、再試験で合格することができたが、二度と努力の方向性は間違えまいと思った。

 

おわり

 
 医学科の試験は努力とその方向性が大事だよ。

 

 これから試験が待ってる医学生のみんなは参考にしてね☆

 

 

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【ネタバレなし】ダンケルク 感想【クリストファー・ノーラン】

 

 ダンケルク観てきました。

 


 まだ観てない人向けに、ネタバレなしにちょっとした感想を書いていきたいと思います。

 

 

 

そもそもどんな映画?

 

 第二次世界大戦時のダンケルクの戦いという、実際にあった戦闘をもとにつくられた映画です。ドイツ軍にフランスの北の端ダンケルクまで追い詰めらめた英仏軍、輸送船から民間船までを駆使してイギリス本国へ40万人の兵を脱出させようとしたのが、ダンケルクの戦いです。

 

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 監督と脚本は、『メメント』や『インセプション』などのクリストファー・ノーランです。

 僕は最近この2つをDVDで観たので、クリストファー・ノーランの名前だけでダンケルクを観に行きました。

良かった点

臨場感

 

 この映画は主に、「ダンケルクから脱出しようとする1人のイギリス兵」、「ダンケルクに救助に向かう民間船」、「ダンケルクに向かうイギリス空軍」の3視点から描かれるのですが、イギリス兵の視点での臨場感が凄い。

 Twitterの公式タグに #ダンケルク体験 とあるように、まさに1人の兵士となってダンケルクからの脱出を味わうことができます。

 助かるかもしれないという希望と、もう死んでしまうという絶望を、何度も繰り返します。

 とくに、死にかけるときの臨場感が凄い!!

 銃撃から走って逃げるシーン空爆にあうシーン海で溺れかけるシーンどれも映像と音響のもつ力が圧倒的。自分の身体で死を感じます。

 海で溺れかけるなかで、泳いでも泳いでも顔が空気に触れない恐怖視界が暗転して上も下も分からなくなる恐怖息ができないのに周りにも大量の人がいて身動きがとれない恐怖それらが一気に迫ってきます。

 ヤバい!死ぬ!こんなの絶対死ぬ!と本能で思ってしまいました。

 ヒリヒリした感触が味わいたい人は是非。

戦闘機シーンが超かっこいい

 

  文字通り、戦闘機のシーンがかっこいいのです。男心くすぐりまくりです。

 仲間の命のために、機体を操って、照準に入った瞬間に機関銃を撃って撃墜させる。

 

 まるで自分自身が戦闘機を操縦しているかのような臨場感。

 痺れます。

一瞬の無言の人間ドラマ

 

 個人的には、この映画は人間ドラマがメインではないと思っています(勿論感動するシーンもあります)。

 ただ、所々にある一瞬の無言の人間ドラマが好きです。


 自分の利益は放っておいて、他人を助けるために、他人の心を壊さないために、行動する。そんなシーンが随所にあり、そこがとても気に入りました。

 

 ネタバレになるので書けませんが、1人の人間が重大な判断をするシーンがさらっと出てくるので、画面から目を離さないことをおすすめします。

 

悪かった(?)点

 

場面が掴みづらい

 

 先に説明した3つの視点は、それぞれ長さが「1週間」「1日」「1時間」となっています。そして劇中のある一点で、3つの視点が合わさるという特殊な形式です。

 そこまで、映画の演出上では3つの視点が順番に入れ替わるのですが、実際の時系列とはかなり差があるので、分かりづらいです。この監督特有の演出方法なのかもしれません。

 また、会話らしい会話も少なく、生き延びるための怒号が多いので、今のシーンがどういう場面なのかは理解しにくいです

 

 また登場人物はあくまで戦争のなかにおける記号として使われており、深く掘り下げられることはありません。そのため、人物像に沿ったドラマ展開ではなく、”分かりやすいストーリー”とは言えません。

 

 大衆受けする映画ではなさそうです。

まとめ

 

 とにかく視覚と聴覚に訴えかける臨場感で、本当に戦場から脱出しているような感覚になる映画でした。

 分かりやすい感動ドラマって訳ではないですが、全員が必死で生きようとするなかで生まれた小さなドラマが沢山あります。

 観て損はない映画だと思います。

 

 

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【夏の歌】現代短歌にハマってみませんか。新鋭短歌集4選【恋の歌】

 

 最近、短歌にハマった。

 

 短歌というと、古そう、堅苦しそうなど、現代人には楽しくなさそうなコンテンツだと思われがちなだ。友人にも、趣味として短歌にハマっている、と伝えると、エッと驚かれる。

 

 しかし、短歌は決して昔の文化ではない。むしろ、日々に忙殺され、じっくりと芸術を楽しむ時間もない我々現代人にこそ、短歌がぴったりフィットしてくるのだ。

 

 という訳で、今日は短歌について紹介したい。

 

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短歌ってそもそも?ルールは?

 

 さて、短歌の定義とは、和歌の一形式で五・七・五・七・七の五句体の歌体のことだ。

 

 今回は、一般に短歌と呼ばれるようになった近代、現代短歌のなかでも、平成以降の作品ついて取りあげていきたいと思う。

 

 また、とくに新鋭短歌と呼ばれるシリーズについて、個人的な名作を紹介したい。

 

 

現代短歌の有名作者と言えばあの人

 

 短歌に対して、読んでみても難解で共感できそうにない、というイメージを持っている人も多いと思う。

 

 そういう人はまず、俵万智さんの「サラダ記念日」という短歌集を読んでみてほしい。きっとそのイメージがひっくり返る。

 

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

(サラダ記念日/俵万智

  

 教科書にも載っている、この有名な短歌は、みなさんご存じのことと思う。

 

 この歌が載せられている、俵万智さんの第一歌集が、「サラダ記念日」だ。おそらく近所の古本屋にある。なければamazonの中古品でよいので、是非一度手に入れて目を通してみてほしい。

 

 「サラダ記念日」では、俵万智さんの恋愛模様などが、決して壮大ではない、日常的な目線で描かれている。

 

 それゆえ、我々は歌に詠まれている景色や付随する感情を、カンタンに思い浮かべることができるのだ。きっと一読したみなさんは、共感できる歌の多さに驚くだろう。

 

 「サラダ記念日」では基本、俵万智さんの個人的な出来事しか歌われていない。

 

 しかし、個人的な歌であるからこそ、彼女が抱いている感情は私たちが個人的な出来事に抱く感情と通じるところがある。そして、私たちは彼女の歌に共感してしまう。

 

 平成以降の短歌というのは、私たちに身近な感情を共有する芸術なのだ(と思ってる)。

 

 

 

現代短歌の最先端、新鋭短歌。夏の歌、恋の歌。個人的名作例4選

 

 そこで短歌に興味が湧いた方におススメしたいのが、書肆侃侃房という出版社から出ている、新鋭短歌シリーズだ。

 

 新鋭短歌シリーズは、様々な若い現代歌人たちの第一歌集を出版しているシリーズである。

 

 新鋭短歌では、現代歌人の多様な感性から生み出される素晴らしい歌がたくさん載っている。若い歌人たちがそれぞれの言葉で、三十一文字のなかに、それぞれの世界(景色や感情)を作りだしている。

 

 すでに(20178月現在)、シリーズは34まで到達している。いくつか買ってお気に入りの歌人や歌を探すのもまた楽しい。

 

 せっかくなので、新鋭短歌集のなかから僕のお気に入りの歌集と歌をいくつか紹介して、僕なりの解説をしたい。

 

1.夜にあやまってくれ』(鈴木晴香)

 

自転車の後ろに乗ってこの街の右側だけを知っていた夏

 

 まさに青春といった歌。自転車の荷台に横向きで二人乗りしていたから、街の右側だけしか視界に入っていなかった、と気づく歌である。

 

 自転車のスピード感、二人乗りで眺める街の景色、それを思い返すときの感情、読んだ瞬間すべてがワッと脳内に流れ込んでくる。

 

 感性を一気に刺激してくれる素晴らしい歌だ。

 

呼吸することさえ恋をすることの副作用だとしたらどうする

 

 思わず息が詰まってしまうほど鮮烈な歌である。

 

 作者のなかで、恋が自らの生存意義にまで影響を及ぼしていることを自覚する歌だ。この歌のなかでは、呼吸を『副作用』と仮定することで、恋が生死よりも先じている自分の心象を表現している。

 

 にしても、「呼吸が恋の副作用」だなんて発想に感服するばかりだ。

 

 

 『夜にあやまってくれ』は、上のように青春だったりアダルトだったりする恋が沢山歌われている。その美しい発想力に驚きつつも、同時にその底の純粋な気持ちに共感できる。女性におすすめの歌集だ。

 

 

2. 『春戦争』(陣崎草子)

 

未来とはレモン氷の向こうなるおまえの八重歯に映った花火

 

 夏のお祭りにて、レモン味のかき氷を食べる『おまえ』、その白い八重歯に打ち上げ花火が反射している。作者はふと、そこに未来を感じた。頭に思い浮かぶのはとてもシンプルな情景だが、それでいてとても美しい歌だ。

 

 レモン氷と反射する花火という美しい情景に、作者と『おまえ』の関係性を反映させている。作者と『おまえ』の今後はきっと明るいものなのだろう。

 

 

 作者が絵を描いていた人らしく、『春戦争』は絵画的な美しさのある歌が多い。生活の場面場面を切り取って、透明感のある言葉で描いている。穏やかな心になれる歌集だ。

 

 

3.『青を泳ぐ。』(杉谷麻衣)

 

聴覚を放し飼いするひるやすみ文学少女を装いながら

 

 クラスの会話に入れないので、本を読んで文学少女を気取ってはいるが、どうしても皆の会話内容が気になってしまう。そんな歌だ。

 

 これは非常に共感する人も多いのではないか。自分の世界を構築してクラスの輪から離れようという気持ちと、やっぱりクラスの輪のなかに近づきたい背反する気持ちが、リアリティのある情景によって描かれている。

 

 僕にも同じような経験がある。

 

 

 『青を泳ぐ。』では、日常のなかの風景を身近な言葉で幻想的に描いた歌がたくさん載っている。自分たちが生きている世界が本当は美しいことを教えてくれる歌集だ。

 

 

4.『硝子のボレット』(田丸まひる)

 

縫いつけてもらいたくって脱ぎ捨てる あなたではない あなたでもない

 

 自分の心の隙間を『縫いつけてもらいたくって』、洋服を『脱ぎ捨てる』。けれど、いくら身体を交えても、どの人も完璧には自分の欠落を埋めてくれない。それなのに、次の人ならば、と新たな相手を探してしまう。

 

 自分を探すために、性行為を通して他人の身体を探っている。しかし、誰の身体を探っても心は満たされない、という歌だ。

 

 『縫いつけて』と『脱ぎ捨てる』の対比、『あなたではない あなたでもない』で作者が同じ行為を繰り返している表現が、技巧を感じさせる。 

 

くちびるはデザートだから最後まで残す遊びをしてみませんか

 

 『くちびる』つまりキスを、あえて一連の行為の最後までとっておきませんか、という歌である。

 

 性愛に対して経験豊富な作者だからこその余裕がにじみ出ている。また、そこに生じる官能的な悦びを、実際の肉体的行為とは裏腹に、かわいらしく上品に歌っている。これもまたグッとくる。

 

 

 『硝子のボレット』は、上のような性愛に関する歌が多い。人間の本能のドロドロとした決して美しくはない部分を甘くきれいな言葉に昇華させているのが、この作者のすごいところである。 

 

 

ぜひ購入を

 

 どうだろうか、紹介したなかに気になった歌はあっただろうか。

 

 もしひとつでもあれば、是非その歌集を買ってみてほしい。他にもお気に入りの歌が見つかるはずだ。

 

 そして、お気に入りの歌がいくつか見つかれば、他の新鋭和歌シリーズにも挑戦してみるのもよい。あなたの心を掴む歌集はきっと他にもあるはずだ。

 

 

趣味としての短歌のおすすめポイント

 

 時間のない現代人だからこそ短歌をおススメできるポイントもある。

 

 単純に1句が短いという点だ。

 

 小説などでは切り上げるタイミングがなかなかなく、本を読むのをやめるとなると、どうしてもキリが悪い部分であきらめることになりがちだ。

 

 しかし、歌集では、ひとつひとつがたった三十一文字なので、切り上げたいタイミングで切り上げることができる。読んでいて息切れすることもない。

 

 また、短歌にはもうひとつの楽しみ方がある。そう、自ら歌を詠むことだ。

 

これも、小説やエッセイと比べて非常にハードルが低いというメリットがある。

 

 もちろん素晴らしい歌を生み出すのには時間や技術が必要だ。しかし、見た景色や自分の感情を、自分の言葉で歌うのは比較的難しくない。それでいて大きな充実感をあなたにもたらしてくれる。

 

 インターネットには短歌投稿サイトもあり、自分の歌を他人に見てもらうことも簡単だ。

 

 最近では個人主催の短歌会などもあるようで、手軽に始められる新たな趣味として、短歌を詠むことはピッタリなのではないだろうか。

 

 

現代短歌を趣味に

 

 僕は、短歌の魅力は「たった三十一文字で圧倒的な情景と感情を共感させる」ことにあると思っている。

 

 言い方は悪いが、受信する側としてこんなにもコストパフォーマンスがいい芸術は他にないと思う。

 

 あなたも、心を揺らすお気に入りの一首を見つけて、ぜひ短歌にハマってほしい。

 

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ユニコーンと麒麟とワンカップ大関

 

 ラーメンを食べた帰りに、ジュースでも買おうとサークルKに寄った。

 

 スナックコーナーを眺めていたら、初老のおっさんが同じ列に入ってきた。

 

 おっさんは、よれよれのTシャツに半パンで、左手にくしゃくしゃの千円札を握っていた。

 

 おっさんは、スナックコーナーの向かいの酒棚を一瞥すると、ワンカップ大関をむんずと掴んで立ち去った。

 

 僕はぽつんとそれを見つめていた。一瞬経ってから、自分が感動していると気づいた。

 

 なんどか味わった種類の感動だと思ったが、それがなんだったかすぐには分からなかった。

 

 レジでTカードを財布から出したときに、やっと思い出した。

 

 白川郷だ。白川郷を見たときと同じ感動だ。

 

 白川郷は、岐阜県の合掌造りが有名な集落である。その独特の景観によって、1995年に世界遺産となった。

 

 しかし、僕にとっては白川郷世界遺産よりも大きな意味があった。

 

 白川郷は、"雛見沢"なのである。

 

 雛見沢とは、竜騎士07原作のノベルゲーム「ひぐらしのなく頃に」の舞台の村だ。

 

 僕は、中学校の頃「ひぐらし」に大ハマりしていた。雛見沢は2次元のなかでは馴染み深い、しかし現実では到達できない場所だった。

 

 大学に入ってからようやく白川郷に行く機会があった。そこには、まさに雛見沢が存在していた。僕はアニメで観たそのままの光景に心を奪われた。

 

 話のコンビニのおっさんに戻す。

 

 よれよれのおっさんがワンカップ大関を掴むのを見たとき、僕は白川郷を訪れた日を思い出した。

 

 雛見沢と、ワンカップ大関のおっさんは同じだった。

 

 ワンカップ大関を買うよれよれのおっさんは、僕にとってある意味フィクション上の存在だった。漫画や小説とかではよく登場するけれど、実際に見たことはなかった。

 

 だから、おっさんを観たとき、アニメの聖地に訪れたときのような、ずっと応援していたバンドを始めて生で観たような、そんな感覚だった。ちょうど僕は漫画の世界に入り込んだようであった。

 

 現実問題、昼からワンカップ大関を飲んでいるおっさんなんて、いくらでもいるだろう。僕の場合はたまたま今まで会わなかっただけだ。それでも、僕にとってそのおっさんは、フィクションの香りがしていた。

 

 差別的なニュアンスが、その感性のなかにあるかもしれないのは否定しきれない。しかし、その邂逅は僕にとっては鮮やかな衝撃だった。

 

 よれよれのTシャツ、くしゃくしゃの千円札、ワンカップ大関。おかげで非日常的な体験ができた。サンキューおっさん。

 

(不快な思いをされた方は申し訳ない)

 

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【イキリオタク】実録!こうして私は医キリオタクになった!【マウンティング】

 

 

 医学部系の記事はウケがいいので、味をしめた。
 
 という訳で、医キリオタクについて書きたいと思う。
 

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医キリオタクって?


 『医キリオタク』はTwitterで使われてワードで、元ネタのイキりオタク医学生verである。

イキりオタク

 イキりオタクとは、「イキがるオタク」の意のネットミームである。

 

「俺オタクだけど彼女いるし」「俺キレたら記憶なくなって、DQNとかボコボコにしちゃうんだよね」

 

 異性関係や自分の外見など、様々なステータスを鼻にかけてイキがるオタクのことを、イキりオタクと言う訳である。

 

 (本当にそのステータスや自信があるなら、そんなことをわざわざ主張する必要もない。にも関わらず、自分から主張しているところに自信のなさが現れているのが、面白みである)

 

 イキりオタクツイート参考記事。イキリオタク構文作って遊んでたらさっそく本物のイキリオタク見つかって爆笑してる

 

医キリオタク

 その医学生版が、医キリオタクである。

 

 医学生という看板を振り回し、ネットでマウンティングをする人たちの総称である。

 

 医学生は、ただ受験に合格しただけである。別に人のために働いている訳でもない。将来人を救うために勉強している途中なのである。だから、なにも他の学生にたいして優位性はない。

 

 それなのに、(受験の成功からか)医学生の立場が偉いような勘違いをして暗に医学生であることを匂わせるようなツイートなどをして、周囲にマウンティングするのが医キリオタクである。

 

 医学生の名札を使って、不特定多数に対して、自分の優位性を主張して自尊心を満たそうとしているのである。

 

〇〇医はマウンティングなのか

 例えば、Twitterのハンネを、「◯◯医」(こわ医とかきも医みたいなゴロあわせ)にする人たちは結構いる。

 

 他の医学生と絡むのに便利だからとか、単に何も考えてないとか、そういう理由は理解できる。

 

 しかし、わざとらしく医学生ということを強調してるのだったら、しょうもないと思う。(個人の感想ね)

 

どうして医キっちゃうのか

 現実では、医学生の周りには医学生が大量にいる。そこでは、医学生の名札はなんのマウンティングにもならない。

 

 だから、そうではないネットで、医学生という看板を掲げてイキってるのだろう。

 

 しかし、現実で不足している人間関係や承認を医学生の看板を使ってネットで手早く手に入れようとしても、ろくな結果にならないと思う。

 

 現に、医キリオタクは痛いと思われているのだし。

 

 Twitter医学生の人、あなたはどうだろうか。医キリオタクではないだろうか。

 

医キリオタクが生まれるまで

 

 なんでこんなことを書いたかって、それはもちろん、僕自身が医キリオタクだからだ。

 

医学部ではみんな医学生だった

 高校時代、勉強がそこそこできることが、アイデンディティの一部だった。『勉強ができる自分』が、ある意味僕を支えていた。

 

 そして受験生時代、努力の甲斐あって希望の大学に合格できた。合格ときは、それだけでなんて全能感って思いだった。

 

 しかし、大学に入ってみると、当然周りには医学生しかいない。『医学部に入れる頭』は周囲の人間との比較で、なんの自尊心も満たしてくれなくなった。

 

 さらに、勉強だけなく、色々な部分で秀でた部分を持っている人が大勢いた。スポーツ、楽器、コミュニケーション、色々だ。

 

 一方、僕はなにか誇れるものもなかった。むしろ苦手なことばかりであった。そして別段人と上手くやっていける訳でもなかった。

 

 自信を失った。

 

 その時に自分に残った成功体験は、受験を乗り越えたことだけだった。

 

 だから、バイトも家庭教師とか塾講とか受験関連のものにした。年下相手に受験の経験でイキってるときは気分がよかった。

 

"医学生"になれるTwitterに逃げた

 自分の協調性や自信のなさから、現実では色々上手くいかなくなった。

 

 承認不足を覚えた僕は、Twitterに新しいアカウントを作った。プロフィールを医学生とわかるようにして。

 

 今で言う医クラ(医学クラスタ)になった訳である。

 

 他の大学の医学生や色々な大学生と関わってみたいという目的もあった。しかし、今思えば、医学生の立場でそれ以外の人と絡みたい』という醜い願望も底にはあったように思う。

 

(昔からTwitterで関わってくれている人、不快にしてしまったらすみません。今は、ネットを通じてではあっても、知りあえてよかったと思える関係ができたことに感謝しています)

 

 僕は受験の合格を、『努力の結果、大きな壁を乗り越えた』ではなく、『努力の結果、偏差値の高い学部に入った』と捉えていた。

 

 つまり、受験で人より優位性を得たことを、自己肯定感の糧にしていた。

 

 同じ条件をすでにもっている学部の人のなかでは、その自己肯定感は生まれない。

 

 だから、その自己肯定を実感するために、医学生じゃない人もいるコミュニティに自分を突っ込んだのである。愚かな所業だ。

 

 立派な医キリオタクの誕生である。

 

眠れる医キリオタク

 でも、なにか売りにできるもない僕が、ネット上とはいえ、承認ほしさに医学生の看板を振り回したところで、空回りするばかりだった。

 

 何度か痛い目をみて、または他人が同じことをしているのをみて、自らの行為のしょっぱさ、短絡さ、無意味さに気づいて、医キリオタク卒業を決意した。

 

 今ではそんなに恥ずかしい医キリはしていない、と(自分では)思う。

 

 しかし、なにが怖いって。まだ自分のなかに医キリオタクが眠っていることである。

 

 再度繰り返すが、医学生はまだ人の役にたつ働きをしている訳でもなく、ただ受験に通っただけでなにも偉くない(かと言って医者が他の職種より偉い訳ではない、聖職者ではあると思うけど)。

 

 だから、受験時代の成功を、しかも自分の優位性を主張するような形で、アピールしてマウンティングするのは、恥ずかしい行為である。

 

 そのようなことはやめようと思っている。

 

 なのに、どこか自分のなかに『受験で人より優位性をとったこと』で自己肯定感を得ようとする部分があるのだ。また、その優位性を他人に振りかざそうとする自分がいるのだ。

 

 その意識は簡単には消えてはくれない。

 

医キリそうになったらどうすれば

 

 自信がない医学生は医キリオタク予備軍だ。

 

 僕の考えでは、自信のない医学生は、過去の受験に置ける成功を『他人よりいい順位をとって合格を手にいれた』ではなく、『自分の力で成功を手にいれた』と捉えて、自己肯定感の糧にするべきである。

 

 受験の成功を、他人との比較で喜ぶのではなく自分の力として自分のなかで完結する成功体験として認識するのだ。

 

 そうすると、受験の経験は他人に振りかざして優位性を主張するものではなく、自分のなかからじんわりと力を与えてくれるものになるはずだ。

 

まとめ

 

 医学生の名札に優位性があると勘違いして、不特定多数にマウンティングする人医キリオタクという。

 

 医キリオタクは、受験を他人の上に立った経験としかみていない(医者の卵とかいうアカウントあったな)。

 

 だから、いざ入学して周りが医学生だらけになると、自尊心が保てなくなる。

 

 そうして、Twitter等で、医学生の立場を鼻にかけて、だれかに優位性を示そうとする。

 

 しかし、医キリ行為は他人からすれば痛いだけで、結局彼の欲しい承認は手に入れられない。

 

 医キリは誰も幸せになれないので、やめるべきだ。

 

 とは言いつつも、やはりまだ僕のなかにも医キリオタクが眠っている。

 

 そう簡単に消すことは出来ないので、少しずつ薄めて消していきたい。

 

 まぁ、こんな記事自体が医キリ記事になっている説はあるけどね。

 

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朝のおはようメンヘラポエム


 今日は疲れているので、さっさとメンヘラポエムでも書いてブログを終わりにしたい。

 

 と思って、ネタ探しにスマホのメモ帳探ってたら、数年前に書いた歌詞が出てきた。

 

 読んでみたところ、凝縮した自意識みたいな歌詞ですごい気持ち悪い。

 

 このとき既に、愛情と依存を履き違えてることに気づいていたのに、結局それを治さずにここまできたと思うと悲しくなる。

 

 今日は本当に眠いからさっさとこれ貼ってねます(am 2:32)。

 

 って思ってたらそのまま寝落ちしてました(am6:24)。

 

 

君がいなくなってから253日
僕はまだ何もせず生きてるよ
去り際にさよならの一つでも
言ってくれたらマシだったかもな


君がいなくなってから308日
そろそろ何かした方がいいかな
去り際にさよならの一つでも
言ってくれたら諦めもついてたよ

 

僕のなかにある全てのモノが
君にまつわるモノになってて
君がいなくなった今は
僕は何で僕を作ればいい
君のなかにある全てのモノから
僕にまつわるモノが消える
それが憎くて仕方ない僕は
君を愛してさえいないのだろう

君がいなくなってから330日
出来る限りのことはしているよ
去り際にさよならの一つでも
何回同じことを言ってるのだろう


君がいなくてなってから今日で1年
どうやら僕はもうダメみたい
去り際にさよならの一つでも
そんなとこが嫌いって言われたな

 

僕のなかにある全てのモノが
君にまつわるモノになってて
君がいなくなった今は
僕は何で僕を作ればいい
君のなかにある全てのモノから
僕にまつわるモノが消える
それが憎くて仕方ない僕は
君を愛してさえいないのだろう

 

僕の声を聴いてくれよ
さよなら一つを言わせてくれ
僕の声を聴いてくれよ
そうさ僕はいつも自分勝手さ
僕の声を聴いてくれよ
僕は僕の為に君を探している

 

僕のなかにある全てのモノが
君にまつわるモノになってて
君がいなくなった今は
僕は何で僕を作ればいい
君のなかにある全てのモノから
僕にまつわるモノが消える
それが憎くて仕方ない僕は
君を愛してさえいないのだろう

 

 

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