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Watabera Miscellaneous Notes

人生やめてません

臨床実技が怖い。失敗が怖い。失敗して人に嫌われるのが怖い。

 

 実習が怖い。実習の実技が怖い。上手くいかないかもしれない。相手に嫌な思いをさせるかもしれない。相手にダメなやつだと思われるかもしれない。それを考えてキョドってしまうかもしれない。キョドったのを見られてキモいと思われるかもしれない。実習の実技が怖い。

 

 昔から手先が不器用だった。折り紙はどう完成させてもシワがついていた。プラモデルは作ってる最中にパーツが折れた。ラップは取り出した瞬間に勝手にくっついた。手先を使う作業のたびに失敗が頭をチラつくようになった。

 

 だから、医学科に入って高学年になったときすでに、採血とかの手技に苦手意識が生あった。実際、そんなに失敗した経験があるわけでもないのに。今までの人生の失敗が身体に染み付いていて、どうせまた失敗すると僕に言うのだった。

 

 多分臨床手技は、何回か失敗してもそこから慣れていけばよいのだ。だから、下手に苦手意識をもつ必要なんてない。なのに、どうせ失敗すると心窩部から声がする。僕は手技ができない、という観念に頭を支配されている。

 

 だから、病院実習の実技が怖い。

 

 明日、実技がある。人に対して針を扱わないといけない。すごい怖い。失敗しそうで、怖い。

 

 今日の午後から明日の実技を考えて、不安定になっている。失敗するかもしれない。失敗したら相手に嫌な思いをさせてしまう。嫌な思いをさせて、相手から嫌われてしまうかもしれない。怖い。

 

 僕自身、ろくでもないと思うのが、この恐怖がひたすらに自分の保身だけ考えていることだ。実技が失敗して誰かに痛い思いをさせるのが怖いんじゃない。痛い思いをさせた誰かから憎まれるのが、怖いのだ。相手のことを思う恐怖ではない。ただのエゴイスティックな恐怖だ。いや、恐怖なんてそんなものか。

 

 手先が不器用でたくさん失敗してきた。だから、手先を使う臨床手技にも苦手意識が生まれた。明日はその臨床手技の実技だ。苦手意識が失敗を予感している。人相手に失敗するのが怖い。失敗したら、その人は僕にマイナスの感情を抱くだろう。それが嫌だ。実技が怖い。誰かの前で失敗したくない。

 

 このブログを書き始めたころより、少しは自信がついてコミュニケーションができるようになった。しかし、相変わらず、他人のまえで自分の不出来が露呈するという事態に対する恐怖や不安が大きい。人前で失敗しそうな予定があると、それで頭がいっぱいになって、不安が継続する。心窩部にドロドロしたなにかがへばりつくようなイメージがある。

 

 誰かの前で失敗したくない。他人に、できないやつだと思われたくない。明日の実技が怖い。明日どうなってしまうんだろう。とりあえず、薬を飲んで気分を安定させて頑張る。

 

 建設的なことを考えよう。薬を飲んでなんとか明日を乗り越えても、本質的な解決はない。人前で失敗することへの恐怖や、他人にマイナスの感情を向けられる恐怖は残ったままだ。

 

 落ち着けば、人前で失敗するのが怖いとか、誰かに嫌われたくないとかはごく当たり前の感情だ。誰でも持っている。そして多分消しきれはしない。それでも、多分僕はその感情が他人よりも重い。重くて生活に支障が出る。重さを改善したい。

 

 これらの感情はエゴイスティックな感情だ。決して他人のためではない。明日の実技に話を戻すが、その実技は僕のためでなく相手のためにするものだ。だから、僕がそんな恐怖にとらわれているのは、ある意味相手に不誠実なのかもしれない。自分の失敗ではなくて、相手のために上手くやることを意識したら恐怖は紛れるのではないだろうか。

 

 このことを普遍的な事項に広げたい。失敗への恐怖や他人からの嫌悪への恐怖はエゴである。エゴであるゆえにその恐怖について考えれば考えるほど、視線は自分の内側に向くことになる。結果的に現実や他人まで意識が回らなくなる。そして、より失敗や他人からの嫌悪を自ら呼んでしまう。つまり、考えないようにすることが恐怖脱却の道なのだ。

 

 しかし、考えないといっても、恐怖を意識の外に放り投げるのは難しい。だから、違うことを考えればよい。自分のなかを見つめるのでなく、他人に目線を移せばよい。他人がどう思うかを尊重しようとすればよい。明日の実技でいえば、失敗したらどうしようと思いに捕らわれるのではなくて、相手がなるべく痛い思いしないように考えを巡らせるのだ。

 

 他人に悪く思われたくない。その恐怖は、他人の存在がなければ起こらない。にも関わらず、自分の内側ばかり見ていては、問題の根本に触れられない。恐怖は解決するはずもない。だから、他人のほうに視線を移す。どうしたら他人が喜ぶか、どうしたら他人が痛い思いをしないか。その考え方こそが、問題の根本を実在的に解決してくれるはずだ。

 

 すこし楽になった。明日の実技は、どうしたら相手がなるべく痛い思いをせずに済むか、意識しようと思う。

 

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ネットDE暇つぶし!汚文書解読に挑んでアハ体験!!

 

 こんにちは、ワタベラマナです。

 

 今日は僕の字が汚いことについて書いていく。せっかくなので、皆が楽しめるように暗号解読形式にした。

 

 まず、僕が手帳に殴り書きした文章が写真で載せてある。皆には、手書きの文章を見て、なにが書いてあるかの読解に挑戦してほしい。僕の字はかなり汚いので、なかなか苦戦すると思う。けれど、文脈などのさまざまな要素を踏まえれば、意味の通る答えが見えてくる。ぜひともそのときのアハ体験を味わってほしい。

 

 また、画像の下に、画像中の文と同じ文章がキーボードで正書されている。それで、自分の読解を答え合わせをして、自分の解読が本当に当たっていたかを確認しよう。もしかしたら、答えは思いも寄らぬものかもしれない。

 

 今回は、あるがまま僕の字の勢いを大事にするために、もとの文からいっさい推敲していない。そのため、文章がめちゃくちゃだが、どうか容赦してほしい

 

 それでは、ぜひとも僕の汚文書解読を楽しんてほしい。

 

 

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 僕の字は汚い。すごい汚い。小学校から大学までずっと汚い。

 

 硬筆で初段にもなったけど、字が汚い。

 

 大学の友達にもずっと字が汚いと言われ続けている。

 

 なぜ僕の字は汚いのだろう。

 

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 そこで、自分の字をながめていると、いくつかの傾向があることがわかった。

 

 大体、字の最後が次の字にとりこまれている。

 

 たとえば、ここ画像参照↑「がの゛」を「次」の左側にとらわれている〈「が」の濁点と「次」の部首のにすいとが共有されている

 

 つまり、手ではその文字を買い於ていても、頭はその次の文字にうつっているために、文字の最後らへんが自分でも解読不能になるのである。

 

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 頭での文章を書くスピードに、手で文字を書くスピードがおいついていないのだ。

 

 手より頭の回転がはやいと言えば、聞こえはいいが、要は動作性IQが言語性IQをはるかにしたまわっているだけである。

 

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 発達障害の1つである学習障害の症状の1つとして、書字表出障害というのがあり、これは「字が汚い」「誤字脱字が多い」「字の大きさがバラバラ」「位置もズレている」と僕の書く字の〈と〉一致するところが多い。

 

 さらに、DSM-Ⅳ-TR(医療現場で使われている診断基準)には、『書字能力、その人の生活年齢、測定された知能、年齢相応の教育の程度に応じてきたいされるものより十分に低い』とある。まさにその通りではないか……

 

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 とは言ったものの、その次には『文章を書くことを必要とする学業成績や日常の活動を著名に妨害している』と書いている。

 

 僕も頑張れば、読める字を書けるので、『学業成績や日常の活動を著名に妨害している』とは言えない。

 

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 やっぱり僕はただ字が汚いだけなのだろう。その原因はやっぱり動作性IQと言語性IQの差だろう。(WAIS-Ⅲでこの2つに差があると言われた)

WAIS-III成人知能検査|日本文化科学社 心理検査専門出版

 

 具体的には、言語性IQの分、頭の中で文章を構成するスピードが早い速い

が、それに対して、文字を書く能力すなわち動作性IQが足りていないのだ。

 

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 よって、頭の中で文字が並べられる速度に手が追いつかなくて、どうしても字が汚くなってしまうのだろう。

 

 いや、もうこれはなおらない。多分。

 

 だけど、その内に社会人になる身分としては、他人が読めるような字を書くという努力もしなくてはならないだろう。

 

 まあでもできるだけでいいわ。

 

おわり

 悪文への挑戦ありがとうございました。ワタベラマナでした。

 

 解読不能のところ、本当に自分でも読めなかったのでだれか答え教えてください。お願いします……。

 

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【ネタバレなし】君の膵臓をたべたい 感想【住野よる】

 

 そう、かなり今さらだけど、『君の膵臓をたべたい』を読んだ。

 

 

 この小説、面白いとは聞いていた。しかし、流行りものへの拒否反応で読んでなかったのだ(最高にダサい)。

 

 けれど、友人と映画化されたこの作品を観にいくことになった。なんやかんや気になっていたので、楽しみにしていた。が、僕が当日寝落ちして遅刻したせいで見逃してしまった(反省している)。それ以来、この作品に触れていなかった。

 

 しかしこの前、Twitterでフォロワーさんがよい作品だったと書かれていたので、とうとう意を決して挑戦することにした。試しにブックオフに言ったら文庫本を発見したので、さっそく手に入れて読了(かっこいい)した次第である。

 

 よかった。泣きはしなかった。けれど、たしかによい作品だった。単にお涙頂戴で終わらない。そして、大筋のストーリー以外にも推せるポイントがある。せっかくなので、感想を書いてみようと思う。ネタバレはない。なので、気になってるけど手を出すまでいかない人は、ぜひこの記事を読んでほしい。そして、小説も買ってくれると嬉しい。このブログのリンクから買ってくれると、なお嬉しい(アフィで金が入るので)。

 

 

あらすじ

 本ばかり読んで友達がいない主人公は、あるとき病院で『共病文庫』と書かれた本を見つける。それは文庫本ではなく、誰かの日記だった。しかも、その持ち主は膵臓の病気で、死が間近らしい。それを理解して、本を閉じようとしたところ、持ち主に声をかけられてしまう。なんとその人は、主人公のクラスの溌剌とした人気者の女子生徒だった。その件を皮切りに、その女子生徒は主人公に近づいてくるようになる。彼女の奇天烈な言動に戸惑いながらも、主人公は彼女と時間を過ごすようになるが……

 

よかった点

恋愛で終わらないストーリー

 あるきっかけから、最初は反発していた男女が距離を縮めていき、すったもんだのすえに互いの大事さに気づく。そんな大枠でいえば、この小説はラブストーリーで恋愛小説だろう(花男とは男女が逆だ)。しかし、この作品はそれだけでは終わらない。

 

 もちろん、恋愛要素でグッとくる部分もある。だが、この小説でもっとも重いのは、その関わりを通して、2人が人間として成長するストーリーである。もともと独自の人生観を完成させていた2人が、偶然(ではなく必然)の出来事から始まった『真実と日常』によって、噛み合ったりズレたりしながら、それを糧に成長する。そして、まったく新しい人生観を手に入れ前を向いていく。現実の高校生の価値観を両極端に表現した2人が触れ合った末に、希望ある結論を出していく。それを見られただけで、読む価値がある作品だった。

 

 この作品は、「接近と離別」による感情変化だけを描いた作品ではなく、少年と少女の考え方や人生観をしっかり描写している。詳しくは書かないが、安っぽいストーリーになってないことは保証できる。

 

ミステリ要素

 『君の膵臓をたべたい』というタイトルからして謎めいているが、この作品にはミステリ要素がある。というより、ミステリ要素(つまりは謎)をわざと前面に押し出すことで、先が気になるように作られている(共病文庫の内容や【仲良し】くん)。

 

 彼女の言動や小説の表現方法によって、読者に謎が提示される。読者はその謎がどう解かれるのか気になって読み進めてしまう。そんな仕掛けが、この小説には隠されている。僕は完全にそれに乗せられていた。悔しい。

 

 もちろん、伏線もミスリードもあるし、『君の膵臓をたべたい』というタイトルもキチンと回収される。ミステリとしても楽しめる作品なのだ。

 

独特な掛け合い

 もう一つこの作品の特徴といえば、全編にある主人公と彼女の会話群だろう。それらは、終始皮肉たっぷりに繰り広げられる。両者ともになかなかユーモアの効いた返しをするのである。主人公は読書経験から、彼女は人間経験からということなのか、互いに一工夫を凝らしてからかいあう。村上春樹のように教養のにおいがキツいわけでもなければ、世俗的すぎるわけでもない。これらの言葉によるプロレス(暴力的という意味でなく)が、独特の表現で面白い。ちょっとラノベくさい感じもするので、苦手な人は苦手かもしれない。僕も最初は少しウッとなったが、そのうちに気にならなくなった。

 

 ストーリーだけでなく、主人公と彼女の人生観を反映した、それぞれの言葉による掛け合いはこの作品の持ち味のひとつである。

 

まとめ

 『君の膵臓をたべたい』は、

恋愛だけに終始せず、少年と少女の成長が描かれる

ミステリ要素で読書意欲をそそる

独特の会話群に味がある

 という素敵な作品だった。

 

 流行りもんだからと食わず嫌いしている人も、読んで損はしない小説だ。ぜひ挑戦してほしい。そう、下のリンクからね。

 

 

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テスト前スマホに逃げる人、先延ばし対策7つ【メンヘラ.JP】

 

 こんにちは、ワタベラマナです。

 

 ありがたいことに、またメンヘラ.JPに記事を載せていただいた。以下の記事である。

 

 

 この記事の内容は、先延ばし行動への対策を自分なりにまとめたものである。説得力ある記事にするために、研究論文を載せてみたが、そのせいで分かりにくくなってしまった。なので、このブログで記事で、分かりやすくまとめたいと思う。それではどうぞよろしく。

 

(メンヘラ.JPってなに?という人は

【会話苦手部】コミュ障を克服するための3つのポイント【メンヘラ.JP】 - ワタベラ雑記帳

の記事に、説明が載っています)

 

 

先延ばし行動ってなに?

 そもそも、先延ばし行動とは、どういう行動なのか。ある論文によると、以下のように書いてある。

 

私たちが日常生活でよく経験する行動に、やらなけ ればならない課題や仕事になかなか取りかかれない、 決められた期日・時間までに課題を完成したり、提出 したりできないといった先延ばし行動がある。

メタ認知的方略と学習課題先延ばし行動の関係

藤田 正 (奈良教育大学学心理学教室)〉より

 

 期限が迫っているのに、課題に手をつける気にならない。どうしても他のことばかりして、本題に取り組めない。そんな経験はないだろうか。それが、先延ばし行動である。

 

 分かりやすい例をあげる。テスト前に限って部屋の片づけをしてしまうことである。誰しも経験があるはずだ。これは、テスト勉強という差し迫った課題を後に先延ばしにしようと、部屋の片づけに逃避しているわけだ。こういう行動を、先延ばし行動と呼ぶ。

 

 誰にでもあるといって、先延ばし行動を侮ってはいけない。先延ばし行動を繰り返すと、人間関係や仕事や学業において、大きな失敗をする可能性がある。頼まれた仕事をいつもおざなりにした結果、友人に見限られる。課題の未提出が積み重なって、留年する。など、先延ばし行動が人生に与える損害は、計り知れない。

 

 僕も、自分の先延ばし行動でよって多くの失敗を重ねた。これ以上、先延ばし行動で人生を悪い方向に進めたくない。そう考えて、先延ばし行動に対策を講ずることにした。それが、先のメンヘラ.JPに掲載された記事である。

 

僕の先延ばし失敗談

 先延ばし行動対策に移るまえに、先延ばしの恐ろしさを再確認したいと思う。以下は僕の経験談である。先延ばし行動をする自分をコントロールできず、多くの自業自得な事態におちいった。

 

テスト勉強で先延ばし

 高校のころからだが、僕はいつもテストギリギリにならないと勉強が始められなかった。大学になって、その傾向はさらに強くなった。大学に入って自由になったり、Twitterをやり始めたなど、時間を浪費しやすい環境になったからだ。いつも、テスト3日前ぐらいから、勉強を始めていた。ひどいときはテスト(専門)当日の朝2時に初めて過去問を印刷するなんてときもあった。

 

 一方で、大学の専門科目のテストは、それでまで比べて出題が恐ろしいほど広い。iPhoneの横幅ぐらいある教科書まるごと1冊が範囲、なんてこともザラにある。ギリギリからテストを勉強を始めたら、適当に勉強していては到底受からない。毎回、テスト前日は必死で勉強する羽目になっていた。勉強を先延ばしにした自分を憎み、今度は早めに勉強し始めようと思ったが、それが達成されたことはなかった。そして、一夜漬けで対応できなかったときは、あえなく試験に落ちた。不合格は、頭のレベルの問題もあるが、大体先延ばし行動(をした自分)のせいである。

 

 再試験の勉強では、先延ばし癖は出なかった。一度落ちたのが身に染みたからだ。また、落ちた試験の再試験が易しかったのもあり、同じ試験に2回落ちることはなんとか免れた。しかし、状況や運次第では、再試験のときも先延ばし癖を発揮していたかもしれない。そうなると、再試験すらも落ちていただろう。留年の可能性もあった。先延ばし行動は恐ろしい。

 

部活で先延ばし

 僕が大学でやっている部活は、個人練習が非常に重要である。家で個人練習をしっかりしないと、部活の練習で周りの部員に迷惑をかけてしまう。一人が個人練を怠けると、別の部員にまで被害が及ぶ。そして、その一人は周りからの信用を失うことになる。

 

 にも関わらず、僕はここでも先延ばし癖を発動させてしまった。家での自由時間で、本当は部活の個人練習をしないといけない。そんな状況なのに、Twitterなどに逃げては、先延ばし行動を繰り返していた。結果、集合練習直前になっても、課題ができるようになっていない事態が頻発した。最近はなくなった、とは言えない。しかし、1年生のときは、この傾向が非常に強かった。何回も未熟なまま集合練習に行き、他の部員のに迷惑をかけた。自分は誠意のない人間だ、と何度も先輩や同級生にアピールしてしまったのである。

 

 いろいろあって、部活はやめずに今も続けている。現在、部活は僕にとって楽しく、やりがいのあるもので、僕の居場所のひとつでもある。しかし、当時は、先延ばし行動(をする僕)によって自らの首を絞めていた。あの時の部活観では、楽しいとか居場所のひとつとか決して言えなかっただろう。先延ばし行動は、物事の進行を妨げるだけでなく、周囲との関係も悪化させる。

 

自己コントロール不足が原因

 ここまでの書き方だと、「先延ばし行動が悪いのであって、僕は悪くない」と書いてあるように思われるかもしれない。もちろん、そうではない。先延ばし行動は、たしかにやっかいだ。しかし、原因はそれをコントロールできない自分にある。

 

 自分を上手にコントロールできないから、先延ばし行動が起こってしまう。逆に言えば、自分をコントロールできれば、先延ばし行動はなくなる。つまり、先延ばし行動の対策は、いかに自らをコントロールするかが重要なのである。

 

 先延ばし行動の恐ろしさが分かったところで、実際の対策について次から述べていく。先延ばし行動をなるべく減らすために、自分を上手くコントロールする術を考えてみた。

 

先延ばし行動の対策7つ

1.課題について考える

 課題に取り込めと言われても、それができたら苦労しないのだ。そこでまずは、ハードルの低い「課題について考える」という手段から始める。実際に課題に始めるのは無理でも、課題を頭に浮かべるだけなら簡単だ。

 

 具体的には、課題を行わないことによる不利益を想像する。この課題をしあげないと、点数が足りなくなってテスト前に大変だこの仕事をきちんと終わらせなければ、周囲からの信用を失うだろう。不利益が重大なものであるほど、危機感をかられる。そうやって、課題をする気を起こす。

 

 つぎに、課題と成りたい自分との間に関連性を見つける。この練習をすることで憧れの○○選手や××先輩のようなプレーに近づけるこのテスト勉強は面倒だが、将来目指している職業の人たちはこのレベルなど余裕でやってしまうので、自分もこの壁を越えなければいけないこのように、成りたい自分へ成長するために、課題がどのように役立つか考えるのだ。目の前と課題と自己実現とを紐づけて、やる気を生み出すのである。

 

 ほかにも、課題をメモ書きする方法がある。自分が現在抱えている課題の種類や難易度を正確に把握する。それによって、「なにもわからないし、なにもしたくない」状態を脱出できる。また、課題への危機感にもつながる。

 

2.娯楽をなるべく排除する

 先延ばし行動は、安易な逃げ場(スマホなど)があると起こりやすい。よって、その逃げ場を自分から遠ざける。

 

娯楽に関するアイテムをしまう(課題中はスマホやPCをしまうなど)
ソシャゲのアイコンをタッチしにくいとところに置く(可能ならデータを消す)
娯楽サイトをお気に入りから消す・娯楽に逃げるにしてもアラームを設定する

 

 かなり具体的な対策だが、これだけで先延ばし行動の減少が期待できる。安易な逃げ場は人それぞれなので、自分にあった対策をとろう。

 

3.少しだけと決めて課題に取り組んでみる

 大量の課題をいきなり全部やるつもりで取り組もうとすると、始める前から気が滅入ってしまう。そこで、最初の一部だけでいいと自分で決めて、取り敢えず課題を開始してみる。

 

 そうすると、その課題は実際の難易度が分かる。楽に済むと思っていたものが、このままでは間に合わないくらい面倒な課題かもしれない。そうなれば、危機感が煽られ、課題へのやる気になる。

 

 また、これは体感だが、少しと決めてやりだしても、取り組み始めたら意外と集中できて課題が進むことも多い。課題で、もっとも大変なのは、最初の一歩を踏み出すことだろう。そこで、その一歩の負担を軽くしてやると、案外その勢いで最後まで続けられるかもしれない。

 

4.否定的感情などの精神状態の改善

 課題をしろと言っても、精神状態がそこに追いついてなければ、土台無理な話だ。そこで、軽度の場合は、課題のまえに散歩などで気分転換を図ってみる。先延ばし行動には気分が大きく関わっていると思われる。案外そうした工夫一つで、課題をやってみる気になるかもしれない。

 

 重度、うつ状態やそれに近い状態の場合は、課題はとりあえず放っておいて、医療機関を受診することが先決だ。精神状態が不安定なときは無理しないようにしよう。

 

5.他者の介入ポイントを設定する

 人間、自分一人では自制心が保てなくても、他人の目があれば頑張れたりするものである。そこで、課題の締め切りまでに、他人が自分の進捗状況をチェックする機会を設けるのである。

 

 たとえば、テスト勉強なら、テスト1週間前などに何人かで勉強会を企画する。勉強会を開くにはそこまでに勉強して知識を持っておかないと、知識を交換しあうという会の意味がない。課題に取り組む必要性に駆られるのである。

 

6.ご褒美を用意する

 これは単純。やる気が出ないなら、ご褒美を用意すればよいのである。犬のしつけと同じ……と言えば聞こえは悪い。しかし、その効果は侮れないはずだ。

 

 今日中にこの課題を終えたら、コンビニでプリンを買って食べる。この課題を済ませたら、ゲーセンに遊びにいく。ご褒美は、自分が喜ぶものならなんでもいい。要点は、いかに自分のやる気を出すか、だ。

 

7.計画を立てる

 計画を立てて、それに沿って課題を済ませていく。一見、一般的で効果的な方法に見える。しかし、ある研究では、計画を立てても立てなくても、学生が課題を始める時期は同じだったという結果が出ている。計画を立てて満足するだけでは、ダメなようだ。

 

まとめ

 というわけで、メンヘラ.JPに載せた記事の補足をした。

 

 この対策は、一応研究論文をもとに考えたが、あくまで素人の発案である。効果や責任は保証できない。それでも、僕は効果を実感している。

 

 この対策法で、誰かが先延ばし行動を克服出来たらいい。尤も、僕自身が先延ばし癖をまだ克服できていない。僕もすこしずつやっていくつもりだ。良かったら一緒にやってもらえれば、と思う。

 

 意見や内容に関して間違いがあればコメントください。長文失礼しました。ワタベラマナでした。

 

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セックスしても童貞は治らない。変遷する「童貞」の意味。

 

 今日(昨日)、Twitterのタイムラインに流れてきたこのツイート、

 

 

 センスあるツイートである。一見矛盾した文章のように見えるが、本当は矛盾していない。そして、ある種の真理を突いている(と僕は思う)。

 

「一度セックスをすれば、童貞時代に身体に染み付いた拗らせた言動や雰囲気が消えてまったく新たな自分になれる、と思ったら大間違いだ」

 

 僕はこのような意味だと考えている。

 

 このツイートとネットでの「童貞」の意味について、勝手に考察していきたいと思う。

 

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「童貞」の意味の変遷

童貞、本来の意味

 考察していくにあたって、重要なのは、ツイート内の「童貞」という言葉の意味である。

 

 goo国語辞書によると、一般的な童貞というワードの意味は、

 

1 まだ異性と肉体関係をもったことがないこと。また、その人。ふつう男性にいう。
カトリック教の尼僧。

 

 であるらしい。現代日本、とくにネットでは、2の意味での使用は皆無なので除外していいだろう。つまり、1の意味が本来の童貞の意味である。

 

 しかし、この1の意味を先のツイート内の童貞に当てはめると、矛盾してしまう。

 

 なぜなら、異性と性交渉をしたことがない男性を童貞というならば、性交渉をすればもう童貞ではないからだ。『セックスをしたくらいで童貞が治る』は、『大きな間違い』ではなく、「正解」ということになる。

 

 このままでは、先のツイートが支離滅裂なモノになってしまう。が、果たしてそうであろうか。

 

 それを解決するためのヒントは、yahoo知恵袋にあった。

 

新しい意味を内蔵した童貞

童貞←なんて読みますか?またどういう意味ですか? - 童貞(どうてい)意味は... - Yahoo!知恵袋

 

 この質問に対してのベストアンサーが、以下の文章である。

 

童貞(どうてい)
意味は「女性とセックスをしたことのない男性」のこと。
基本的にはバカにする意味で使われることが多い。

 

 ポイントは、『基本的にはバカにする意味で使われることが多い』という点である。現代日本、そしてネットでは、童貞は大体マイナスイメージを伴って使われているのである。この点こそが、先のツイートを読み解くカギである。

 

 童貞は、マイナスイメージを伴って使われる。そして、ネットでは、童貞というワード自体がマイナスイメージを取り込み始めた。

 

 そのマイナスイメージは、具体的に言えば以下の通りである。

 

「女性に対して挙動不審」、「女性との距離感が分からない」、「面白くない」、「気持ち悪い」

 

 これは、いわゆる元々「童貞っぽい」というワードが持っていた意味である。しかし、ネットではだんだん、「童貞」というワード自体が「童貞っぽい」の意で使われるようになった。その結果、「童貞」が負の意味を内蔵するようになったのである。

 

 童貞っぽいというワードは、現代日本で童貞である男性の多くに上記の要素があるために、負の意味をもっていた。そして、負の意味をもつ「童貞っぽい」が次第に、「童貞」と混用され始めた。結果的に、「童貞」が「(青年~中年)童貞の多くがもつ負の要素をもっている奴」という意味で使われるようになったのだ。

 

童貞の本来の意味 → 異性との性交渉の経験のない男性、またはそのこと

童貞っぽいの意味 → 多くの童貞のように、挙動不審などの負の要素がある

(ネット内にて、童貞と童貞っぽいが混用される)

ネットで追加された童貞の意味 → 挙動不審などの異性関係の負の要素がある

 

 この童貞の意味の変遷が、先のツイートを読むポイントである。

 

セックスしても童貞は治らない

 

 この文章は、日本のネット文化を生み出し、同時にそれによって構成されているTwitterというSNS上に載せられた文章である。よって、ここでの童貞の意味は、①ではなく、③なのである。

 

 ③の意味を当てはめると、このツイートの意味は以下のようになる。

 

「セックスをしたくらいで童貞っぽさが消えると思っているなら、それは大きな間違いだ」

 

 この方が意味は分かりやすい(面白くはない)。さらに具体的に言えばこうなる。

 

「一度セックスをしたくらいで異性に対する挙動不審癖や自分の気持ち悪さが治ると思っているなら、それは大きな間違いだ」

 

 ここまで言い換えると、当たり前のことを言っているのが分かる。穴に棒をいれたとしても、突然自分の精神構造を変化させるような体験にはなり得ないのだ(だから素人童貞というワードが生まれたとも考えられる)。

 

『セックスをしたくらいで童貞が治ると思っているなら、それは大きな間違いだ』

「一度セックスをすれば、童貞時代に身体に染み付いた拗らせた言動や雰囲気が消えてまったく新たな自分になれる、と思ったら大間違いだ」

 

挿入の有無に童貞の本質はない

 このツイートはやはりひとつの真理をついている。

 

 Twitter上では、童貞ネタをよく見かける。(自称)童貞が自虐ネタとして使っているときもあれば、非童貞オタクがマウンティングとして童貞うんぬん言っている場合もある。しかし、本当に異性に関して苦手意識がなさそう(悪くいえば女性に困ってなさそう)な人が、童貞ネタを使うのはほとんど見ない。非童貞オタクが童貞うんぬんのマウンティングしていることこそ、セックスをしたところで童貞の拗らせた言動が治らないことの証明ではないだろうか。

 

 現実でも、性行為の経験はあっても童貞っぽさの抜けない人が周りにいたりしないだろうか。きっと思い当たる人や節があるのではないか。

 

 一度の性体験で、童貞らしい気持ち悪さが消えるような劇的な変化があるわけではない。当たり前のことだ。しかし、多くの童貞やオタク非童貞はこれを実感として理解していない。

 

  挿入未経験は、結果であって、原因ではない。

 

 自分の童貞や拗らせた言動の原因を挿入の有無に押しつけること自体が間違っていて、そして拗らせの証明でもある。

 

 先のツイートは、

 

「お前がダメな原因は、挿入の有無という表面的なところには存在しない。むしろ、表面的な事実が原因だと思い込み、自分の本質的な欠損に目を向けないことにこそ、お前がダメな原因がある」

 

 という意味をもった、深い深いツイートなのではないだろうか。

 

 以上、ワタベラマナでした。偉そうなこと書いてすみません。ありがとうございました。

 

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【SS】約束の王子様は新地に愛を探す①

 

「ミカちゃんは、僕のお姫様だ」ニキビだらけの巨大な尻をトランクスに収納しようとしながら、サトウがつぶやいた。

 

「ありがとう、サトウくん。嬉しい」

 

 作り上げた自然な笑顔を顔を浮かべながら、私はサトウを眺めた。

 

 サトウはまるで、普通の人間に紙粘土をつけて無理矢理分厚くしたようだった。サトウが少し動くだけで、巨体からだらんと垂れ下がった脂肪が揺れる。行為の前から終えた後まで、吹き出物の多い肌はずっと湿っている。頭髪は、あぶらでまとまったくせ毛のせいで若ハゲのように見えた。太い黒縁の眼鏡は、フレームがこめかみにめり込んでいる。外見のなかで横に長い一重だけが、私としては評価できた。けれど、好きな人に似ているのが逆に憎らしい。とにかくサトウは、町ゆく女性100人中100人が気持ち悪いと言うような外見だった。

 

 ここまで太ると、パンツに足を通すだけで体幹のバランスが取れなくなってしまうらしい。ゆうに100キロを越しているだろうサトウは、パンツを履くだけで前後にふらついている。今にも倒れそうだ。

 

 私が下着をつけ終わってから、ようやくサトウは一苦労してトランクスを履き終わった。サトウの額には汗が浮かんでいる。サトウ特有の饐えた臭いがした。行為中に私の鼻腔を満たすその臭いは、もはや私を無心にするためのお香と化していた。

 

 着替えが遅いのはいつものことだ。かと言ってこれ以上サトウと同じ部屋にいるのも嫌で、シャツとズボンを履かせてやった。サトウは気持ちよさそうに、されるがままになっている。この分だと別料金を取ってやってもいいかもしれない。

 

「ミカちゃん、ありがとうね」

 

 この甘えるような妙に高い声にも慣れた。最初サトウを2階に連れてあがったときは、その声の気持ち悪さに背筋がそばだった。今ではもう、そういう鳴き声のペットを飼っているような気分だ。

 

「はい、これ」

 

 ペコちゃんの顔が袋に印刷されたキャンディをサトウに渡した。これを舐めておけば、外を歩いても他の店に勧誘されない。一度店に入った客だと認識されるからだ。それがここの暗黙のルールだ。

 

 部屋を出て一階へ降りた。サトウの体重で、階段がぎりぎり歯噛みするような音をさせた。玄関の上がり框には、オバちゃんとナツが座っていた。ナツは、サトウを連れた私を見て、わざとらしく鼻を鳴らし、馬鹿にした笑みを浮かべた。オバちゃんが横で、またかと呆れている。

 

 ナツは、3か月前からこの店に入った。私よりは少ないが、売り上げも笑顔の上手さも確実に伸びている。そのナツが私に向けるギラついた目線が、どうにも面倒だった。ナツが私より上げるようになっても、別に私は自分の稼ぎがあればいい。なのに、ナツは勝手に私を敵視して1人で苛ついている。待機部屋でも反抗的な態度を崩そうとしない。正直、扱いに困る。シフトを分けてほしいが、女の子の少ないこの店ではそれも厳しいかと思って言わないでいた。

 

 汚デブのサトウと突っかかってくるナツが、最近の私の悩みの種だ。最短の15分とはいえお金を入れてくれるサトウのほうが、まだマシか。

 

  サトウが灰色のニューバランスを履いた。いつも通り。そして一度こちらを向いて、ぎこちなく私に手を振った。いつも通り。私もにっこり笑って手を振る。いつも通り。

 

「絶対また来るよ、ミカちゃん」

 

「うん、また来てね。サトウくん」

 

 付き合って初めてセックスしたあとのカップルのような挨拶。サトウがそれを望むから、私はそれを演出する。「くん付け」もサトウのほうからの願いだった。あの巨体を相手に性交渉することに比べたら、小さい苦行だ。

 

 この店は通りの角に近いところある。だが、サトウは帰るとき、必ずその角を曲がらない。なるべく私が見えるように角と反対側から帰る。そして、何度も立ち止まって私に手をふる。サトウが視界から消えるまで、私は反応し続けなければいけない。通りを歩く客がサトウに好奇の視線を寄せていた。周りの店の女の子とオバちゃんは、この光景にもう慣れたのか、素知らぬ顔をしている。ナツだけが、早く退けろとでも言いたげな顔をしていた。

 

 サトウが視界から名残惜しそうに消えた。私は玄関の奥、待機部屋へと向かう。

 

 サトウは私をお姫様だと言った。そう、私はお姫様だ。この森の奥で王子様が来るのを待っている。この艶やかな茨の森に落ちた私を救ってくれるのを待っている。でも、その王子様はサトウじゃない。ちゃんと実在する別の人物だ。

 

 私は待っている。王子様を待っている。汚く美しいこの街で待っている。

 

 

つぎまだ

 

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(軽度)発達障害者に「気にするな」「誰でもある」と言わないで

 

 発達障害についての話。

 

 

 

発達障害と親子関係(メンヘラ.JPの記事より)

 

 今日、このメンヘラ.jpの記事を読んだ。内容は、タイトルの通り。母親に発達障害について相談しても認めてもらえず、逆に否定された、というもの。発達障害的な失敗に悩む部分と、発達障害をカミングアウトしたときの親の反応に共感できる部分が多かった。

 

 それで、今回は発達障害とカミングアウトについて書きたいと思う。

 

 まずは、うえの記事の内容の要約から(もし記事の内容と違うようであれば教えてください)

 

記事の内容

 記事の著者は、ADHD的な失敗を繰り返すたびに母親に叱られていた。そして、自分がADHDだと疑うようになり、それを母親に相談するも、相手にされなかった。

 

「あんたの悩みなんて大したことない」「(失敗なんて)みんなする。あんたは直す気がないだけ」と言われて育った。言われると実際そんな気もしてくる。本当のことなんてわからない中で、母親は正しいことを言っているように見えた。

 

 そして、著者は大学で発達障害診断用のIQテストを受ける。自分の社会不適合な部分が発達障害によるのか、ただの自身の怠慢なのか区別したかったのだ。結果、ADHDと診断された。

 

 著者は、母親にADHDの診断を伝えることにした。今までADHDを否定した母親に、事実を認めさせ、一言謝罪が欲しかったからだ。しかし、結局、母親はその診断を娘の「甘え」と一蹴して終わらせた。

 

最後に笑顔で聞かれた。
「それであんたは納得したの?」
私は関係ありませんよ、という顔だった。曖昧に笑って誤魔化した。

 

 著者は、母親に見切りをつけ、自分で生きていくつもりだ、と最後を閉めている。

 

発達障害を認めてほしい子、認めない親

よくあるパターン

  発達障害と向き合い、なんとか生きづらさに折り合いをつけようとする子どもと、子どもが発達障害だと認めずに「誰でもあることだ」「気にするな」と主張する親

 

 このパターン、軽度発達障害の子ども(青年)には多いのではないだろうか。

 

 子ども側は、今までの自分の失敗経験(や、それで親に叱られたこと)に発達障害の影響があった、と親に認めてもらうことで、楽になろうとしているのだ。なぜなら、「障害のせい」という不可抗力の存在を親に認めてもらうことで、今までの失敗の自分の責任が消え、自分を苦しめる低い自己評価から解放されるからだ。この「楽になろうとする行為」は、別に悪いことだと僕は思わない。ただ、発達障害で二次的に生じた認知のゆがみを直しているだけだからである。

 

 一方で、親側は子どもの主張をそう重く取り合わない。発達障害に関する知識が少ない、自分の子どもが「障害」だと認めたくない、など理由は色々ある。このパターンにおいて親は、「気にしすぎ」「その程度みんなある」「お前の甘えだ」というように、暗に「お前は発達障害じゃない」と子どもに伝えるだけで終わる。「お前の悩みは分かったが、それはよくあることで、わざわざ障害というほどのものじゃないから頑張れ」大体こんな感じが親の主張の終着点だ。

 

 そういう反応された子ども側のダメージは大きい。なぜなら、親が気づかないだけで、子どもからしたら「今までのお前の失敗は、発達障害が原因じゃなくて、お前自身が悪いだけだ」と言われたのと同じだからだ。さらに、自分が深刻に考えたうえで相談したことを軽くあしらわれたら、実の親に拒絶されたという記憶しか残らない。

 

 もちろん、親のほうも悪気がない場合がほとんどだろう。むしろ、自分の子どもに元気になってほしくて、障害を否定している場合もあるだ。しかし、それが大きなすれ違いを生んでいる。少なくとも、子どもは心に傷を負って終わる。

 

 ここでは、親と子どもについて書いたが、友人同士の発達障害のカミングアウトでも同じだと思う(そのことも記事の著者は書いている)。

 

悩みの受け手へのお願い

 相手(子ども、友人)はそれなりに深刻に考えたうえで、あなたを信頼して相談してきている。相手の悩みが取るに足りない誰にでも当てはまるようなものに見えても、最初から否定するのはやめてほしい。よければ、悩みを聞いてあげて、たしかにそういうところもあったかもしれないね、と曖昧にでも同調してあげてほしい。少なくともあなたが否定せずに言葉をかけてあげることで、きっと相手は救われる。ただ、もちろん発達障害診断は医療機関でしかできない。よって、未診断の人で、悩み続けるほど生活に影響がある人には、最終的に受診を勧めたほうがよい

 

僕の発達凹凸と親への相談

 最後に僕の話を。

 

 僕も大学に入ってから、「他人の会話への割り込み」「多動傾向」「暗黙の了解が理解できない」「動作が常にぎこちない」など、自分の発達障害を疑い、(それで二次的な障害が出たのもあって)、メンタルクリニックを受診し、WAIS-Ⅲ(発達障害診断用のIQテスト)を受けた。

 

 テストの結果を受けた主治医の判断は、「発達に凹凸があり、障害の傾向はあるが、典型例ではなく診断まではいかないグレーゾーン」だった。診断がつかず自分の生きづらさをどこにぶつけたらいいのだろうか、という思いと、それでも症状が重いよりは軽いことを自分個人については喜んでいいのではないかという思いで、しばらく混乱していた。しかし今は、ある程度の生きづらさを抱えても、なるべくそれに対応しながら生きていこう、と自分のなかではある程度まとまってきた。

 

 そのように自分のなかで整理がつく前、両親に相談したことがあった。親には話さまいと思っていたが、酒の席でつい親に相談したくなった。「今まで~~でしんどかったから、知能テストを受けた。結果はグレーゾーンで、診断はつかなった。でも、自分としてはやはり生きづらさがあって、これは障害だと思う」相談というより半ば愚痴だったのかもしれない。自分を育ててくれた親に、「たしかそういうとこもあったかもしれないな、それが原因だったのかな」などと、僕が生きづらさを抱えていると認めてほしかった。

 

 しかし、両親は(おそらく僕を心配させまいとして)、「そんなの私もあるし誰でもある」「考えすぎ」「それなら誰でも発達障害だ」と言った。両親が僕のことを思ってそう言ったのは分かっていた。それでもやはり僕は辛かった。自分が生きづらさを抱えていると親が認めてくれなかったこと、自分が深刻に考えたことを親が軽く流したこと、この2つが僕に与えたダメージは大きかった。ただただ、両親に拒絶されたような印象だけが残った。二度とこの件で親に相談しまい、と思った(結果、別のトラブルが生じたが)

 

まとめ

 最後にもう一度。発達障害診断済みの人、自分を発達障害かどうか悩んでいる人から相談されたら、誰にでもある悩みにみえても、「気にするな」「誰にでもあることだ」と言わないでほしい。相手のことが不快でなければ、その悩みに耳を傾けてあげてほしい。それだけで、相手の心は軽くなるのだ。

(ただ、個人でどうこうできる問題ではないので、最終的には医療機関に任せる)

 

 以上、ワタベラマナでした。ありがとうございました。

 

 

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