綿箆雑記帳

日常で思ったことの雑記、メンヘラとオタク考察、書評、創作

部屋とYシャツとサブカルクソ女

  「サブカルクソ女」という単語がある。具体的にどんな人を指すのかは文脈によって変わるとは思うが、ままの意味を取ればサブカルチャー好きの女性を揶揄するような言葉である。つまりこの言葉はサブカルに対してメタ、マウントを取るような言葉ということになる。

 

  しかし、冷静に考えてこの言葉はサブカル文化圏内でしか使われていない。サブカルに興味がない人の脳内に「サブカルクソ女」は存在しない。馬鹿にする割にはこの言葉自体がサブカルに取り込まれている。自ら同類を攻撃している。ある種の矛盾を内包した言葉なのだ。

 

  「アンチサブカルはそれ自体がサブカルから逃れ得ない」

 

  そもそも「メインカルチャー」に対する「サブカルチャー」であるが、それは単に「メジャー」と「マイナー」という関係に留まらない意味がある。それはワザと「マイナー」を選択することによる特殊性やアイデンティティの確立であり、メジャーに対するマウンティングだ。メインカルチャーへの否定と支配欲求が含まれている。サブカルとはそういうものでもあるはずなのだ。

 

  だからアンチサブカル、具体的にはサブカルを叩くことによってそこに面白さや価値を見出して自ら売りにすることそのものが「サブカル的行為」になってしまうのだ。アンチサブカルはサブカルをネタにすることによって、サブカルよりもメタ的な位置につこうする。しかし、その過程こそが「サブカルチャー」の形成過程に準じている。結局アンチサブカルはサブカルへと同化していくのだ。

 

  「ポプテピピックはサブカルクソ女を馬鹿にしてるのにサブカルシンボルとして使われてるの皮肉だ」といった内容のツイートをこの前見た。youtuberやサブカルクソ女を散々に叩いているポプテピピックこそがサブカルコンテンツなのはファンなら誰でも知っていることだろう。まさにアンチサブカルがサブカルであることの典型例だ。また、同様にポプテピアンチもまたサブカルと言えるだろう。

 

  別の考え方をすれば「アンチサブカル」は「サブカルチャー」のさらに「サブ」、「メイン」から見た「外の外」に位置づけされる。しかしどちらも「外」であり、「内」から見ればそこに大差はない。そういう意味でもアンチサブカルはサブカルに内包されるのだ。

 

  ここで留意したいのが「アンチサブカル(外から内への攻撃)」と「メインカルチャーからのサブカルへの拒絶(内から外への攻撃)」の違いだ。後者は別にサブカル的行為には含まれない。アンチサブカルはサブカルをネタにすることによって存在し得る。その為にある意味サブカルに依存している。HIKAKINがいなくてはその動画をxvideosにホモビとして投稿出来ない。一方、メインカルチャー的な人種はサブカルには大方無関心であろうし、サブカルに向けられるマイナス感情は単に「気持ち悪い」などの拒絶である。メインカルチャーは別にサブカルの有る無しに依存せずに存在を保っていられる。その点において前述の二つは大きく違う。語弊はあるだろうが、漫画しか読まない人は村上春樹の文章やファンをわざわざネタにしない。

 

  サブカルクソ女を嬉々として罵る男こそそういうタイプが好きだったりすると考えれば、案外すんなりくるのではないだろうか。いや全然違うか。

 

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