slowly

ワタベラ雑記帳

メンヘラ雑記。生きづらさ考察、創作、本、映画、音楽。

Watabera Miscellaneous Notes

さよなら、鈍い感受性

式典は誰が為に?~しくじり先生は卒業式がめんどくさい~

 

 

  小学校の頃、卒業式が嫌いだった。

 

 

卒業式、めんどくさい

f:id:watabera:20170813235450p:plain

 

 卒業式、大学や高校では、ただのよいイベントだった。しかし、中学校や小学校ではそうはいかなかった。特に小学校。皆さんも、寒いなか体育館で練習させられた記憶がないだろうか。練習中、4時間ぐらい暖房のない空間に放り込まれる。立ったり座ったり、ただ待たされたり、あと歌わされたり。僕は、それが嫌で仕方なかった。自由を奪われたまま、望まぬことを強制される時間は拷問以外のなにものでもない。喋る動くは、即お叱りにあう。歩くときは、テンポよくキレよく手足を動かさないとお叱り。在校生の言葉、卒業生の言葉を叫ぶのにも、音量がないとお叱り。寒い。怠い。長い。地獄も地獄である。だから、小学校での卒業式およびその練習にはいい印象がない。挙句、しょうもない事件を起こしてしまった。そのときのことを書きたいと思う。

 

 小学校高学年の頃の僕は、比較的おとなしい子どもであった。だが、一人前に反抗期の兆しを見せて、たまに親や先生に歯向かっていたりした。よって、卒業式の練習に関して僕にはやる気のカケラもなかった。やりたくないことを押しつけられるので、反発していたのだ。サボりたくて、サボりたくてしょうがなかった。心も体も淀んだ状態で練習に挑んでいた。だから、「一同、起立!」のたびに僕はワンテンポ遅れて立ち上がった。「一同、着席!」では皆より遅れた挙句、着席じゃなくて重力に任せて"落下"していた。お陰でデカい音は出るわ、練習直後は尻が痛いわ、散々だった。ともかく、卒業式およびその練習が嫌いだった。教育のフリした嫌がらせだと思っていた。

 

 5年生のときも卒業式練習はしんどかった。しかし、所詮は他人ごと(先輩方の卒業を祝う気は微塵もなかった)だった。待機だけの時間も長かったから、ぼーっとしとけば大体終わった。ロックマンエグゼの攻略法とか考えていた。ロックマンゼロだったかもしれない。練習中は、意識を身体に置かず長時間を乗り切った。身体は薄暗い体育館にあっても、心は鮮やかな電脳世界にあった。おかげでやっぱり起立が遅れた。座って立って歌って、あと多分拍手とかして、5年生のときの卒業式練習を乗り切った。本番もその調子で終わった。始終エサを貰えない猿みたいな顔をしていた。

 

 

ちょいワル小学生

f:id:watabera:20170813235556p:plain

 

 そしてとうとう6年生になった。送り出す側から送り出される側になった。

 

 6年生のクラスは、少々治安が悪かった。比較的平和な小学校だったのに、僕のクラスだけが軽く学級崩壊していた。生徒がみな担任のことを嫌いで反抗していた。30代の少し太った女性教師。どうして嫌いになったかは覚えてない。ただ、当時の僕らには怒りに駆られるのに十分な理由だった気がする。ひがな反抗ばかりしていた。みんなして割り箸でゴム鉄砲を作って、担任が黒板を向いた隙に一斉発射した。3回目まではバレなかった。4回目でバレた。担任が一回教室から出ていったあと、体育科の教師を連れて帰ってきて、全員自慢の銃を没収された。

 

 そんなクラスだから、大人しい僕も"ワル"に傾いていった。友達がグラセフをやっているのを見て、親にグラセフをねだった。断わられた。18禁のエアガンをなんとかして手に入れたくて、ボケたじいさんが店主のおもちゃ屋の情報を提供してもらったりした。そこだと年齢に関係なく、18禁のエアガンが買い放題なのであった。その頃、僕は間違いなく"ワル"だった。アウトローとしての自覚があった。

 

 やがて、卒業式練習の季節になった。僕は憤った。練習の面倒さが去年の比ではなかったのだ。去年より練習時間が多い。そして、なにより卒業証書授与が死ぬほど面倒だった。受け取り方の指導まで一々されるのに加えて、順番がくるまでの時間が、ひどく嫌いだった。長いのに、自分の番が来るまで気が抜けない。徐々に皆が壇上に上がっていき、順番が近づいてくる。あの時間の強迫じみた雰囲気が嫌だった。

 

 

卒業式は誰が為に?

f:id:watabera:20170813235633j:plain

 

 連日の卒業式練習で、僕はイライラしていた。なぜこんな目に合わないといけないのか。そもそも、僕は卒業式を開いてくれなんて頼んだ記憶はないのだ。卒業証書も各担任がクラスで配ればよいではないか。校長の言葉も来賓の言葉も要らない。全然祝電とかも送らなくていい。在校生の言葉も申し訳ないから要らない。卒業式の日は普通に休んでほしい。やっぱり卒業式なんて必要ないじゃないか。誰だ、俺たちを苦しめているのは……。あのイベントを一番心待ちにしているのは……うん、親たちである。親たちこそが、唯一あのイベントを楽しんでいるではないか。現に僕は卒業式なんて微塵も興味がないのに、親たちは当日になると浮ついたように写真を撮りたがるではないか。親たちのエゴのせいで、我々は暖房のない冬場の監獄で謎の演劇の練習をする羽目になっているのだ。僕は憤った。元々やる気はなかった。更地である。そこに反抗心が芽生えてきた。よって、さらに態度が悪くなった。そして、アウトロー小学生であるところの僕はとうとう教師に噛みついたのである。

 

 ある日の練習で、何につけても動きが緩慢だと怒られ、僕だけが残された。僕を横目で見送りながら去っていく同級生たち。非常な辱めを受けて、僕の怒りのボルテージは上がっていった。どういうつもりなのだ、と聞くから言ってやった。僕は卒業式なんて開いてほしくない、こんなのは親が喜ぶからやっているのだろう。僕らのために行われるはずの卒業式で、しかも僕は全くもって開催を望んでいない、なのにどうしてこんな面倒なことを強制されないといけないのか、そんな筋合いは全くないはずだ、だから動きが鈍かろうが問題ないではないか。そういって、人形じみた動きをする眼鏡の学年主任に懇々と説いてやった。どういう返事だったかは覚えていない。ただ説教がとんでもなく延びて、日が沈み始めてから学校を出たことは覚えている。

 

 しかし、僕は屈しなかった。表立って態度に出すとまた叱られてしまう。なので、見た目は大人しくしていた。しかし、心のなかで義憤をメラメラと燃え上がらせていたのである。ただ相変わらず起立は遅かった。真面目にしようと思ってもどうしても周りに置いていかれた。どうやら、これは身体能力の問題であったらしい。

 

 

アウトローは耐え忍ぶ

 

 

 さて、正義のアウトローである僕は、やっぱり卒業証書授与に苦しんでいた。卒業式最大の見せ場でありながら、最低の地獄であった。名前を呼ばれると、返事をしてから登壇。この返事が小さいとかなり食い気味に怒られる。多くの女の子が体育教師の鳴き声に震えさせられていた。当然僕も何度も怒られた。そして、壇上をぽつぽつ歩き、校長の前で一旦止まって、礼。右足、左足の順に出す。一呼吸おいて、右手を差し出して証書を掴む、左手も証書に添えてから受け取る。一歩下がり再び礼をする。たしかこんな感じであった。どうしてだか、小6の僕はこの流れを上手くこなせなかった。左手から出した。礼のタイミングを間違えた。そのたびに儀式は中断され、大いなるお叱りが飛んでくる。おうおう、もうウンザリだ。俺だって悪気がある訳じゃないのだ。なのに、この言われようは一体なんなのだ。

 

 そして、証書を受け取った後自分の席まで戻るのも苦手だった。卒業証書を左手で抱え、ゆっくりと席まで戻ればよい。客席からの注目も壇上に集まっているから、ほとんど誰も僕を見ていない。何も気にしなくてよい。しかし、だからこそ、僕は苦手だった。席までゆっくり歩き続けることに耐えられなかったのだ。多分、自分の仕事は終わったのに付き合いでサービス残業させられているとか、ちょうどそういう気分。授与が終わったのに、最後まで礼儀正しくさせられるのが耐えられなかった。どうしても壇から降りてしばらくすると、小走りになってしまう。今思えば、多動以外の何物ではない。しかし、証書を受け取ったあとまで礼儀を強要される筋合いはない、と本気で思っていた。

 

 さらに、僕は卒業式ラストの退場まで苦手であった。在校生の拍手に見送られながら、列ごと順番にシュタッと起立し、お行儀よく手足を動かし、周囲に合わせて行進しなくてはならない。退場に苦労した理由は3つほどある。まず、退場の練習が数時間のうち最後の30分で行われ、その頃には僕は精根尽き果てていたこと。第二に、練習の都合上、一旦退場しても結局体育館のなかに連れ戻され、講評を聞かなければならなかったこと。退場のくせしてちっとも僕らを逃してくれなかった。第三に、なにより、みんなと同じように、右手左足、左手右足、右手左足……と正しく繰り返すことが上手くできなかったのだ。多動をコントロールできなかったのもあるし、単純に身体を上手く使えなかったのもある。僕が周りと動きを合わせ(られ)ない事態が起こるたびに、教師たちは芸ができない駄犬を見るような顔をした。憎々しげでもあったし、哀れんでもいた。当の駄犬にとっては、それでいっぱいだったのだが。

 

 そういうわけで、表面上の態度は改めたにも関わらず、結局僕は叱られることとなった。先生方からしたら手に余る生徒であったろう。今からすれば申し訳ない限りだ。が、当時の僕にとって、全て与えられる苦行でしかなかった。謝罪の気持ちは皆無だった。僕の中には、望んでもない卒業式で何故こんな目にあわないといけないのか、と怒りが燃えたぎっていた。全部親たちのエゴじゃないか。怒りの火には、消える気配はなかった。それどころか、叱られるたびに油が注がれることとなった。

 

 

卒業式本番

f:id:watabera:20170813235254j:plain

 

 

 やがて本番となった。6年間過ごした学び舎を去ること、道を分かつ友達もいることに関しては、一応の感慨はもっていた。しかし、卒業式単体には憎しみしかなかった。

 

 そして、我々の盛大な寸劇が始まった、それは大人のエゴによって開催された。国家斉唱の時点で頭が痛かった。証書授与とここからの長い道のりを思って既に辛くなっていた。

 

 卒業証書授与が始まった。長い。待機に待機を重ねて、僕の番が近づいてきた。3つ前の奴が壇に上がったので、スクッと席を立つ。本番だからか、いつもより視線が集まっている気がして、ジリジリ気持ち悪い。その間にも、次のやつが壇に上がって証書を受け取っていく。とうとう、壇の横の待機場所まで来てしまった。「〇〇〇〇」、名前が呼ばれた。放り出した「はい」は、思ったより普通の形をしていた。コツコツコツコツコツ。5歩で校長の前まで来た。まず一礼して、右足、左足。校長が証書をスッと出してきた。隣から担任が監視の目を光らせている。右手で証書を摘む、ツルツルしていてなんだか馬鹿みたいだった。左手を添えて、肘を曲げて受け取る。一歩下がって、礼。小走りにならないように、ゆっくりと気をつけて壇上を歩き、降り、自分の椅子を目指す。ゆっくり、ゆっくり、身体ときちんもコントロールするのだ。努力のおかげか、最後だけしか小走りにならずに済んだ。席に座ってからは別のことを考えていた。

 

 授与が終わった。会の進行は鈍足である。校長の挨拶、長い。我々の日常生活に一切関わってないのに、よくもそんな知った顔で喋るな。来賓の挨拶、誰なんだ。よく頑張りましたって、べつに頑張ってない。頑張っていたとして、頑張っているとこを見てないだろ。祝電、だから誰だ。在校生の言葉、卒業生の言葉、校歌斉唱……あぁ、もう。

 

 そして、やっと退場である。その頃にはもう僕の頭はグワングワンしていた。長時間の拘束で麻痺した頭を、厳かな音楽がグッと掴んで揺らしていた。ダメだ。気合を入れなくては。ここからまたひと仕事あるのだ。身体を通電状態にして、上手く動かさなければいけないのだ。あっ、前の列が立ち上がってしまった。次は我々の列の番である。……。バッと一列全員で立ち上がった。そのとき、僕はもうどうでもよくなっていた。所詮、大人のためのお祭りなのだ。ここまで暴れもせず、よく頑張った。もう十二分に義理は果たした。もうよいではないか、よいではないか。

 

 周りが整然と行進するなか、僕だけがひどく気だるげに出口まで歩いた。なんとか手と足は逆に振り出していたと思う。風が吹いたら飛ばされる程度のふらふらの行進をした。相当悪目立ちしたと思う。保護者の視線は覚えていないが、教師陣はやはり駄犬を見つめる顔をしていた。

 

 

誰かの為じゃダメだったの?

 

 退場での悪目立ちについて、してやったり、とは思わなかったが、ざまぁみろぐらいには思っていた。叱ってくるなら、叱ってこい。大人のエゴを無理に押しつけるからこうなるんだよ。多分そんな風に思っていた。エゴとかそんな言葉を知ってたかは怪しい。けど、多分そんなニュアンスのこと。

 

 しかし、教室に戻っても、担任の話が終わっても、僕が呼び出されることはなかった。拍子抜けした。友達とランドセルに落書きしあったり、同級生との交流を済ませてから、親のとこに向かった。

 

 そのときの僕は、卒業式からの解放と卒業の感慨で一種高揚していた。靴も履きかけのまま、下足置きから駆け出した。早く両親にこの気持ちをぶつけたかった。正門のところに母親を見つけた。となりにいるのは父親かと思ったが、例の学年主任だった。父親はトイレにでも行っているのだろうか。ん、学年主任が母親に何か言っている。僕は一旦立ち止まって、様子を見た。どうやら、学年主任が母親に僕のことについて苦情を言い、それに母親が謝っている、らしい。学年主任は渋い顔で話し続けた。母親はなんどもなんども学年主任に頭を下げていた。解放感や浮ついた気分がさーっと引いて、僕はしばらくそこに立っていた。親のための寸劇なら両親のために頑張ればよかった、と思った。

 

 おわり。

 

 

watabera.hatenablog.com

 


↓↓よければクリックお願いします↓↓
にほんブログ村
人気ブログランキング