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ワタベラ雑記帳

メンヘラ雑記。生きづらさ考察、創作、本、映画、音楽。

Watabera Miscellaneous Notes

さよなら、鈍い感受性

人形を捨てるな、死ぬまで愛し続けろ

 

 人形が怖い、嫌い、悲しい。

 

愛玩人形を見たくない

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 愛玩用の人形を見ると、胸の奥、食道のあたりをキリキリと締めつけられるような気分になる。同じ人形でも鑑賞用の人形、美しくあればそれで役割を果たす人形、それは怖くない。愛玩用の人形、人間やペットの代替として愛情を受けるために作られた人形が怖い。彼女ら(愛玩用の人形は大抵女性、もしくは動物ではないだろうか)は、時間の経過、つまりは持ち主の成長や本人の経年劣化で、いつかその愛情を打ち切られてしまう。人形を見るたびに、その事実をギリギリと胸に押しつけられる。それが怖くて辛い。そんな目にあいたくない。

 

愛情の奴隷

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 彼女らは、持ち主の無償の愛を存分に受け始めた瞬間から、いつかそれを剥奪され、(愛情の反対であるところの)無関心のみが与えられることを決定されているのだ。決まっているのだ、失うことが。人間の傲慢だ。まるで奴隷じゃないか。愛情を受け取るという労働をひたすら続け、やがて破棄。そういうかわいそうな被害者が存在することを理解させられるのが、嫌だ。どうしたって助けられない保健所の犬猫の命があることを知ったときと同じ感情。だって可哀想じゃないか、本人は知らないのだ、その愛がいつか必ず消え去ることを。そのくせして、人間は我儘に愛情を注ぐのだ。自分の健全な成長のために。最初は人形を意識あるもの、自分と同等の尊厳をもつ対象として扱うくせに、最期にはただの物体として処理するのだ。人間って傲慢だ。

 

人形はモノ

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 もちろん、人形に意思はないし、感情はない。物体であり、尊厳はない。だから別に存分に愛情を注いだあとにポイと捨ててもなんら問題はない。法律にも倫理にも背かない。それが自分の所有物であれば。幼い子が成長の過程で愛情を与えることを知るために、家の関係でペットを飼えない子のために、子孫と暮らせない老人が自分の価値を認識するために、人形は愛されて、そのあとに用が済めば捨てられる。それで、まったく問題ない。

 

捨てられたくないだけ

 だから、僕がいだいている、このある種の憤りに正当性なんてない。ただ、人形に「愛情を与えてもらえなくなった自分」を投影し、そんな恐怖を覚えさせてくる存在に八つ当たりしているだけなのだ。捨てられたくないという感情を、人形を鏡にして確認しているだけなのだ。僕の心の弱い部分(存在が悪とは思わない)が作り出した偽りの正論だ。

 でも、やっぱり人形が怖い、嫌い、悲しい。

 いつか捨てるのに、愛してくるなんて、卑怯じゃないか。

 

 

watabera.hatenablog.com

 

 


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