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ワタベラ雑記帳

メンヘラ雑記。生きづらさ考察、創作、本、映画、音楽。

Watabera Miscellaneous Notes

さよなら、鈍い感受性

【Twitter】SNSでの幸せ報告が鬱陶しい人へ【マウンティング】

 

 こんにちは、ワタベラマナです。

 

 SNSには、よく「幸せ報告」が転がっている。TwitterからInstgramやFacebookまで、幸せ報告の場所は多岐にわたる。「今日は久々のメンツで飲んだ!!超楽しかった!!(飲み屋の画像付き)」「~~に行ってきました。素晴らしい景色で眼福でした」「この仲間で過ごした時間に感謝!!」などなど。

 

 SNSで幸せ報告する人をみると、僕はそれを斜めに読んで、本当に幸せならわざわざ書かなくていいんじゃない?幸せだと思い込むために書いてない?それともマウンティングすることで幸せになろうとしてるの?とかひねくれたことを、ついつい考えてしまうことがある(自分もSNSで幸せ報告を結構やっている癖、に)。

 

 しかし、昨日ある出来事があったので、幸せ報告」はそう悪いことではないのではないか、と思いはじめた。

 

 昨日の出来事はホントに単純である。働きはじめてからあまり会わなくなった看護師の友人とすれ違って挨拶しただけである。お互いに自転車だったから、邂逅はほんの一瞬だった。すれ違った瞬間に、互いの存在に気づき、ちょっと手を振って、「お疲れ!」とだけ言った。そのあとは、両者とも進行方向へとただ自転車を漕いだ。ただそれだけである。

 

 しかし、この簡単な出来事は、僕にとっては、心象的サイズのある出来事だった。すれ違いざま、友人だとわかったときに、僕はなぜかすごく嬉しくなって、満面の笑み(多分)で挨拶したのだ。そしたら、向こうも笑顔で返してくれた。そのあと、僕の心窩部には、ふかふかした暖かい感触があった。それはなんだろうと、言語化してみた。この暖かい感触はいったいどういう気持ちからきているのか、考えたのである。結果、「こうやって、たまにでも会えてにこやかに挨拶できる友人がいるのは幸せだな」という感情だった。


 曖昧な暖かい気持ちを詳しく言語化することで、より自分の幸せについて具体的に理解できた。その幸せが、自分のなかの一部として、より自然なやり方で精神に組み込まれた。

 

 下の記事に書いたように、僕は、人はたまには自分がもっている幸せを再確認するべきだと思っている。

 

 

 だから、SNSに「〜〜〜〜で楽しかった!!」とか「本当に幸せです!!」とか書く行為は、言語化によってその幸せに対する理解を深められるので、自分の幸せを再確認する手段として非常に健全な行為なのではないかと思う。

 

 「幸せ報告」は、それをSNSに投稿する過程で、自分の幸せの言語化が行われる。そして、幸せの言語化は、自分の幸せへの理解や再認識に役立つ。なので、「幸せ報告」は、幸せの再認識の手段として、そう悪いものではないのだ。

 

 もちろん、「言語化したものをわざわざ他人に見せるためにSNSに載せる必要はあるの?」という意見もあるだろう。しかし、現代日本では、個人用の日記でも書かない限り、他人に見せる体でしか起こった出来事を言語化することはない。だから、積極的な言語化の手段としてのSNS投稿という選択肢は、そう責められるものではないと思う。


 なにが言いたいかって、下手に斜に構えずに、楽しかったら楽しかった、幸せなら幸せ、ってSNSに載せたらいいんじゃないの?てことです。

 

(ただし、マウンティングの目的の幸せ報告は、他人から見たら鬱陶しいだけでよろしくないと思う)

 

 

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