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Watabera Miscellaneous Notes

人生やめてません

感動コンテンツとして消費される映画と小説

 

 小説とか映画とか音楽とか漫画とか、そういう芸術作品を、僕はぜんぶ自分の感情を動かすために消費している気がする。

 

 『黒い家』とか、『クリムゾンの迷宮』とか、貴志祐介のホラー小説が好きだ。あの人の作品が、恐怖を可能な限り実在化させて、生死のかかったヒリヒリするスリルを味わせてくれるからだ。

 

 『凶悪』とか、『アウトレイジ』とか、『冷たい熱帯魚』とか、過度な加虐描写がある映画が好きだ。これらの作品が、日常では味わうことのない加虐する感情の昂ぶりを与えてくれるからだ。なんか中二病ぽくなってしまった。

 

 『The Autumn Song』とか、『コバルトブルー』とか、『Welcome To The Black Parade』とか、喪失を歌った曲が好きだ。これらの作品が、大事なものを失う悲しみを仮想的にでも体験させてくれるからだ。

 

 『空が灰色だから』とか、『死にたくなる~(略)~日々』とか、阿部共実の漫画が好きだ。これらの作品が、僕の人間関係によるコンプレックスを刺激するからだ。

 

 こんな風に、様々な種類の作品を、僕は自分の感情に揺さぶりをかけるために消費している。

 

 自分の感情に揺さぶりをかけたいということは、普段から感情の動きに飢えているのだろうか。僕の生活は、感情の動きのない、退屈で平坦なものなのだろうか。

 

 考えてみると、たしかに、特定の場合を除いて、僕の生活において感情の暴発的なものは、可能な限り抑えられている。感情を無暗に動かしてしまうと、非常に本能に沿った、自分の欲求に素直な行動を取ってしまう。それを防ぐために、なるべく平坦な心理状況を心がけているようだ。

 

 しかし、その生活を続けるうちに心理状況が活動のない状態に凝り固まってしまった。水族館の魚を見ても、桜が満開なのを見ても、なにも分からないときもあった。肩こりならぬ、感情こりが発生していた。

 

 どうやら僕は、感情へのマッサージとして、小説/映画/音楽/漫画を利用していたらしい。

 

 ここまで考えたことは、あくまで僕個人に関する分析である。しかし、こういう状況は、日ごろストレスを浴び続けている社会人では、珍しくないのかもしれない。

 

 鈍麻した感情へのマッサージとして、誰かの創作物を消費する行為ははたして是なのだろうか。べつに、絶対的に悪い行為ではないはずだ。しかし、もっと、創作物に対する態度があるのではないか、とも思う。

 

 創作物で感動することは当然、悪ではない。しかし、その感情の動きだけを求めて、作品の細かい部分を無視するのはよろしくない。なぜなら、その細かい部分を作者が工夫したからこそ、全体としての作品が大きな力をもって、客の感情を動かすからだ。感動の立役者である細部に敬意を払わずに、作品を自分の価値観でぼんやりと雑に捉えてしまうのは、決して作品や作者に対して礼儀のある行為とはいえない。そういう捉え方をすると、作品が「泣ける」とか「怖い」とか、画一化した枠組みでしか認識されなくなり、そのまま消費されてしまう。しかし、僕も含め、その「作品の画一的消費」が現代日本では横行している気がする。

 

 最近のテレビでやってる映画のCMで、観客が「~~サイコー!!」とか「本当に泣きました!!」とか感情を高ぶらせて感想を述べるCMをよくみる。アレこそまさに、「作品の画一的消費」の象徴ではないか。現に、ああいうCMは映画の内容がどうであろうと、ほとんど同じ光景が繰り広がられて終わる。映画にたいして、自分を感動させるモノという捉え方をしているからこそ、自分の感情の動向ばかりの感想を言い、そして同じようなやり方で多くの作品を消費していく。

 

 べつに創作物に対する正しい楽しみ方があるとか押しつけるつもりはない。そして、正しい楽しみ方の定型などおそらく存在しない。しかし、いろいろな創作物をすべて「感動コンテンツ」と捉えて消費するのは、作品や作者に無礼であるとして間違いないだろう。

 

 僕も他人の創作物への接し方を改めたい。ワタベラマナでした。

 

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