行為が善なら、動機がどうであれ、自分を責めたてる必要はない
最近、自分の行動の動機が、善だか偽善だかわからないことが多い。
大学の部活で色々後輩に教えることが多い。自分で言うのは恥ずかしいが、僕はそれを積極的にやっている方だと思う。後輩が上手くなってくれればいいと考えてやっている。
しかし、本当にそうなのだろうかと思うときがある。初心者だった後輩を上手にさせて一緒に結果を出したという実績を手に入れたいだけではないか。そんな疑いが生まれるのである。
僕の自己評価はアテにならないが、よく考えると、僕が部活の後輩を色々と教えているのはその後輩本人のことを思っているのではなくて、後輩を上手にした自分になりたいだけではないか、という気がしてきた。
となると、僕の行為は偽善である。やらない善よりやる偽善、なのかは置いといて、心理的にはあまり美しくない状態である。自分のなかでは後輩のためだと思っているのなら、なおさら醜い。
自分の行動の動機が、善なのか偽善なのかわからなくなっている。偽善ならば、それは褒められたことでないのでは、改めるべきなのではないか、と思って混乱している。
ところで、本来、物の感じ方は個人の自由であるはずだ。というよりコントロールできない。なにかに対して嫌悪感を覚えてそれを所構わず主張するのは間違っている。だが、嫌悪感を覚えること自体は制御できないし、禁止されてよいことではない。
それを踏まえると、自分の行動が固定されている状態だと、その行動に至るための動機は自由であってもいいのではないだろうか。この場合、後輩になにかを教える行為を続けるならば、その行為の動機自体はなんでもよい、ということだ。
もちろん、その行為が誰かに対しての押しつけであったり、自分が善を成していると主張するのであれば、話は別だ。そうでなければ、自分の行為が善だと誰かに言わなければ、行為の動機自体は別になんでもよいのだ。なぜなら、動機は自分のなかから湧き出てくるとので、コントロール不可能であるからだ。
なので、相手に対して押しつけにならない程度に、深く考えずに部活をやっていこうと思う。
ただ、どこまでが押しつけにならないのか、向こうが押しつけに思ってなくても自分の行為が相手の成長を妨げてないか(僕の母が僕に過干渉だったように)など、問題は尽きないのだが……
ワタベラマナでした、ありがとうございました。