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ワタベラ雑記帳

メンヘラ雑記。生きづらさ考察、創作、本、映画、音楽。

Watabera Miscellaneous Notes

さよなら、鈍い感受性

AV事後至高論

 

「おまえは今まで観たAVの枚数を覚えているのか?」

 

世のオタクたる者、二十数歳生きれば無数のAVを観ているものだ。或いは女優単体、或いはナンパもの。貪るようにAVを観るなかでオタクは自らの性癖を手で探り、そして変遷させてきたのである。

 

初めて本番行為を目に入れた日、その獣じみた所作に興奮絶頂、前後不覚になった。それも今や昔。画面越しに観た裸の数なら私文大学生の経験人数に並び、AVを観て興奮が最大値に至るシーンも移り変わっている。当然、それが本番だとは限らない。そんなオタクの一人たる私が賢者(モード)の知恵として今諸兄に授けるのが、AV事後至高論である。

 

「事後」とは、字の通り本番行為の後の時間であり、互いに無言で服を着ていくあの場面、或いは放心状態のところにカメラが寄ってコメントを求めるあの場面である。あの事後こそがAV中至高のシーンなのだ。

 

と言うと、スマホプリッツを握りしめた中学生諸君は「男が情けなくティッシュで股間を拭いてるあのシーンのどこがいいんだ、僕は断然口淫派だね」と斜に構えてみせるだろうが、所詮は十代、二十余歳になってまでTwitter非モテツイートを繰り返す私の感性には敵わない。暫く後には水飲み鳥のごとく私の主張に深く頷いているだろう。

 

さて、それにはなぜ事後が素晴らしいのか語らなくてはならない。

 

その理由とは、事後のシーンには本能と日常のギャップがあり、そのギャップこそが最も興奮を呼ぶからである。

 

太宰治人間失格』のなかに以下のような一節がある。

 

『女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、塵ほどの、つながりをも持たせず、完全の忘却のごとく、見事に二つの世界を切断させていきている』

 

『休んでから』(性交中)と『朝、起きてから』とでは女性の振る舞いが全く違っている。即ち、性交中の本能に争わぬ態度と普段の理性的な態度との断絶について言及してあるのだ。この断絶が事後の魅力の源泉である。実際のAVの事後で例を挙げていきたい。

 

マジックミラー号の、お金に釣られた若い女性が街中で逆ナンしそしてセックスに至る草食系男子向けAV。当然、逆ナンされる男も草食系もとい童貞系男子である。彼らは互いに距離を測りながらも結局セックスする。肝心なのはこの童貞系早漏男子が正常位で早速イッてしまった後である。行為が終わり、他人行儀の会話を交わすなか、逆ナンした女性がふと腕で胸を隠す。ここに太宰の言う『切断』がある。彼女は相手の射精を機に本能と理性を切り替え、裸をやめ、服を着たのである。

 

また、ナンパして相手の家まで押しかけるタイプのAV。ナンパされた彼女の生い立ちを聞き、言い寄り、行為へと発展する。全てが終わったあと、彼女は笑顔で社交的な挨拶を交わしながら男優(兼カメラマン)を玄関から見送る。ここにも『休んでから』と『朝、起きてから』の『切断』が見える。

 

事後に起こる本能と理性とのスイッチング。彼女らは本能を表したあと、当然のように理性を羽織る。性行為と会話の完全な別離。しかし、社会的な会話の下には先程見た本能が獅子のように眠っている。この暗示が事後のエロさの肝腎要である。

 

つまるところ、本能と理性の切り替えはエロと日常の共存である。そしてエロと日常の共存はエロ単独より興奮を生む。全裸と裸で靴下どっちがいいかは明白であると一昔前のオタク談義にあるが、男は性的興奮という観点では全裸より一枚の薄いベールに票を投じるものだ。その点、事後はエロと日常の生々しい共存そのもので、性的興奮の最たる部分だ(キスに至る瞬間もエロと日常の共存だが、日常の存在感の点で事後に及ばない)。

 

やはりAVは事後が至高なのである。

 

ちなみに、男はどうなんだって話だが、男は単にしょうもない。繋がった線上でただ性欲が増すが減るかの差でしかない。行為を引きずり、相手が社会を羽織ったことも気づかず、この阿呆告白めいたことをした結果、あれよあれよと拒絶されるのがオチである。