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綿箆雑記帳

メンヘラ雑記。生きづらさ考察、創作、本、映画、音楽。

Watabera Miscellaneous Notes

さよなら、鈍い感受性

文章力アップに必要な"抽象化”と”具体化”、そのトレーニング法

 

 このブログを書き始めてからしばらく(1年3ヶ月)になる。しかし、思ったような文章はまだまだ書けない。そこで自分の文を反省したところ、文を書くにあたり「抽象化」と「具体化」という能力が必要で、自分にはそれが足りていないことがわかった。

 

 今回は、「抽象化」と「具体化」とはなにか、なぜ文章に必要なのか、そしてその視点から文章力のトレーニング方法を(自分用に)書きたい。

 

 抽象化と具体化の話は様々な媒体に通じると思うので、別にブロガーとか物書きでなくてもぜひ色んな人に読んでほしい。というかアドバイスがほしい。

 

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抽象化と具体化

 

抽象化と主張文


 このブログやメンヘラ.jpに投稿する記事では、日々の出来事や過去の経験から共通する教訓や論理を取り出してそれを文章の形にして主張文を書いている。

 

 

 僕はこの過程を「抽象化」と呼んでいる。日々の出来事や過去の経験という「具体」から、共通するもの、具体性を切り落とした「抽象」を取り出すのである。

 

 抽象化の過程で具体性が削ぎ落とされることにより、教訓や論理がよくみえるようになり、非常に分かりやすくなる。逆にいえば、抽象化とは、具体的な事象から論理や本質を明らかにすることである。いわゆる帰納法的な側面がある。


 たとえば、この記事では、『ネタツイートを作るためにアホなことをする』や『飲み会中の写真をアップしよう、と始まる前から考える』や『かわいい動物の写真がバズったから、毎日写真を撮るになった』という具体例から、「我々は現実のフィードバックのためにSNSを使っていたはずなのに、SNSのために現実の我々の行動が左右されてしまっている」という抽象を取り出している。


 このように、具体例からその奥のロジックやテーマを取り出すのが、抽象化である。


 主張文では、抽象化が非常に重要だ。主張文においてもっとも重要なのは、作者の主張(論理)である。しかし、抽象化がうまくいかないと、作者自身が自分がなにを主張したいのか分からないまま、文章を書くことになってしまう。

 

 仮に、入念な抽象化なしに主張文を書こうとすると、漠然と関連ありそうな文が論理的な繋がりもなく並ぶだけで終わってしまう。主張とは、論理に基づいてこそ意味をもつ。抽象化によって論理を明らかにされていない主張は、非常に弱い。主張の弱い主張文は誰も納得させられない。

 

(ただし、抽象化の手段として書くことを利用するのはアリ)

 

 また抽象化は、生きづらさを抱える人にも有用な思考法である。

 

 生きづらさを抱える人、つまり雑に言って人生が上手くいかない人は、多かれ少なかれ失敗の経験があるはずだ。その失敗の経験から教訓を抽象化して、生きるための道具として覚えておく。そうすると、次に似たような事態になったときに、その教訓を用いて前よりもうまく振る舞えるだろう。


 たとえば、自分は楽しかった会話が、相手にはまったく楽しそうでなかったという経験が何回かあったとする。そういう具体的経験から、「自分ばかり話していると、自分は楽しくても、相手はつまらないかもしれない」という教訓を抽象化によって手に入れる。一度その教訓を手に入れたなら、次の会話からは「自分ばかりではなく、相手の話を聞く姿勢を取ろう」という風に考え方を変えられる。

 

 失敗でなく、成功体験から抽象化を行うのも、つぎの成功に繋げることができる。

 

 話が逸れた。まとめると、抽象化とは具体例から教訓、論理、テーマなどの抽象的なものを取り出す思考である。そして、主張文では抽象化が重要である。

 

具体化と創作

 

 僕に関して、抽象化は今までやってきたので、そこまで苦手ではない。しかし、抽象化の逆、つまりは「具体化」はてんで不得意である。

 具体化というのは、抽象から具体を生み出す、もしくは再現することである。

 たとえば、上の文章での、「失敗から抽象化によって教訓を得て、次に活かそう」という教訓(抽象)から、「会話で自分ばかり話して失敗した経験から、相手の話も聞く態度を持つべきという抽象化を行う」という例(具体)を生み出すことが、具体化である。


 このように、概念やテーマから、実際の例を出すことを具体化という。


 主張文にも、読者に理解してもらうために例が不可欠である。主張だけを訴えても読者はしっくりこない、読者に主張を我が身のものとして理解させるのに具体例が必要だ。なので、抽象化がメインである主張文にしても、具体化のスキルは必要なのである。


 しかし、本当に具体化が重要なのは、主張文よりも創作である。文章においては、小説、詩(歌詞)、俳句、短歌などが創作に挙げられる。


 まず、創作においても主張文と同じく、伝えたいことは抽象化されたテーマである。しかし、抽象をそのまま創作で表現しても、だれの心も揺らせない。

 たとえば、「君がいなくてさびしい」という抽象は、『家の犬まで一生愛されてると思ってたよ』『一段低いところに置き換えたシャワーがたまらなくこのうえなく愛しかったよ』と具体例で表現したほうが、心で実感として理解できる。(愛の標識/クリープハイプ より)


 たとえば、「夏が恋しい」というテーマは、「秋はご飯だって美味しいし、友達もと一日中遊んでいられる。僕は幸せなはずだ。なのにどうして、夏が終わってからこんなにもさみしいのだろう。きっと僕はもう馬鹿になってしまったのだ、自分の家への帰り道すら忘れてしまったよ」のように具体的にまで表現したほうが、心情が伝わる。(The Autumn Song/ELLEGARDEN より)


 たとえば、魔法学校が舞台の物語を描こうとする。となると、魔法学校の名前、立地、内部構造、科目、教師、生徒、そういったディティールまで描かないと、物語がチープになってしまう。

 

 創作では、具体が積み重なって抽象を生むのである。


 このように、具体化とは、抽象的な概念やテーマから細部を生み出すことである。具体化は、創作においては必要不可欠である。

 

抽象化具体化と文章力

 

 抽象化と具体化の出来不出来は、文章力に大きくかかわってくる。

 

 文章とは、「主張文」「創作」「それ以外」に大きく三分される。そのなかで、主張文には抽象化が必要不可欠であり、創作には具体化が必要不可欠である(その他エッセイなどは半々だろうか)。

 

 つまり、抽象化と具体化のトレーニングによって、文章力はアップできるのではないだろうか。

 

 抽象化能力の向上によっては、論理が通った文章、文章全体のよい構成、分かりやすい文章、他の人にはない視点の文章などが期待できる。

 

 具体化能力の向上によっては、描写力の向上、豊富な発想力、豊かな語彙力と教養、言葉選びのセンス、読ませる文章などが期待できる。

 

 

抽象化具体化トレーニング

 

 文章において肝要な抽象化と具体化、どうしたらこれらの能力を鍛えられるだろうか。僕自身の経験をもとに考えてみたい。

 

抽象化トレーニング法


 抽象化能力をあげるには、ひたすら抽象化を行えばよい。なぜなら、抽象化で自分に必要なものは思考力だけで、思考力を反復訓練のなかで鍛えればよいからだ。具体的な方法を以下に挙げる。

・小説、映画、漫画のあらすじを書く

→あらすじを書くことは、場面ごとの要約をすることである。この要約こそが抽象化である。あらすじを書いたら、作品のテーマや伝えたいことを、自分なりに分析するのもよい。これはさらにハイレベルな抽象化である。また、あらすじが面倒なら、感想を書くだけでも、自分の頭のなかのゴチャゴチャを抽象化する練習になる。

・自分の考えについて文章でまとめてみる

→自分の考えというのは、頭のなかではまとまっているつもりでも、いざ文章化してみると、自分でもなにが言いたいのかわからない、ということがザラにある。そこで、自分の主張とそれを立証する論理とを明確にすることが、抽象化の練習になる。

 

・論理的な文章を書くための本を読んで実践する

→『20歳の自分に受けさせたい文章講義』と『数学文章作法』、この2冊には論理的な文章を書くための方法が載っている。実際にその方法に則って文章を書くことで、論理的思考力をつける。

 

 抽象化自体は頭のなかで行えるが、その精度は文章にした方が格段に高いのでなるべく書きながら抽象化を行ったほうがよい。

 

具体化トレーニング法

 

・インプット(作品から)
具体を自分から放出するには、まず具体を自分のなかにいれる必要がある。小説、詩集、エッセイ、映画、音楽をなるべく沢山体験する。しかし、インプットの仕方が雑ではいけない。つまり、流し読みや流し観、流し聴きでは、具体化のトレーニングにならない。各々の作品の「具体」を自分に吸収する必要がある。小説なら、情景描写、言葉遣い、台詞回し、とにかく細部まで読む必要がある。映画なら、人物の表情、台詞回し、風景などに注目する。ストーリー展開のための演者や情景としてではなく、映画という芸術の主要なものとして演者や情景に注目する。


・アウトプット

→いくらインプットしても、出せなければ意味がない。アウトプットの練習も必要である。目の前の景色や物体を言葉で描写してみると、自分の語彙の少なさにびっくりする。また、実際に短い小説を書いてみるのもよい。発想力と語彙力の両方のアウトプットになる。

 

・書き写し

→小説などの好きなフレーズを書き写すのもよい。インプットとアウトプットの両方の練習になり、手間に見合うだけの価値がある。

 

・日々の過ごし方

→小説や映画などのフィクションでは、多くの具体を体験することができる。しかし、もっとも身近で印象に残る具体といえば、自分の日常である。日常生活のなかで、自分の思考にこもるのではなく、周りの人や風景に目をやることで、なにより新鮮な具体を手に入れることができる。また、自ら様々な体験に積極的になることも、人生経験だけでなく、具体化の能力向上に繋がる。

 

 具体化のトレーニングは、インプットとアウトプットを繰り返すことが肝要である。

 

まとめ

 

 抽象化とは、具体例から本質や論理を取り出すことであり

 

 具体化とは、抽象的な概念からテーマから実例や細部を生み出すことである。

 

 抽象化は主張文に重要で、具体化は創作に重要であり、2つの能力は文章力に寄与している。

 

 抽象化のトレーニング法は、ひたすら実際に抽象化を行うことで、

 

 具体化のトレーニング法は、インプットとアウトプットを繰り返すこと、日常生活で観察眼をもつことである。

 

 センスある文とか小説とかを書きたいので、具体化のトレーニングをしたいと思います……。

 

 

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”僕にはなんにもない”なんて顔しないでよ

 

 最近、自分の幸せを再認識した。

 昔友人といった旅行の写真だとか、部活中に撮った動画だとか、ふと見てかえしてみて、自分の幸せな部分を確認した。

 具体的には、旅行の思い出、気の置けない友人のいること、部活でいい経験ができたこと、現在の部活に居場所があること。

 別にこれはマウンティングではない(意識の底ではそうなのかもしれないが)。

 こういう風に、自分の足りない部分ではなくて、自分が今持っているものに目を向けるのはとても大事だ、と僕は思う。

 例えば、僕に足りないものと言えば、コミュ力、社会性、文章力、語彙力、運動神経、自制心……etc、すぐに沢山挙げることができる。

 しかし、自分が今持っているもの、自分の幸せな部分を挙げるとなると、なかなか出てこない。

 なぜなら、普段から足りないものにばかり目を向けて既にもっているものには向き合っていないからだ。

 自分の欠点や足りてない部分を認識し、改善や対応策を考えていくのは、重要だ。しかし、欠落についてばかり考えていると、自己肯定感が低くなってしまう。

 ときには、自分の幸せや努力した過去を見つめてあげることも、自己肯定感や自己効力感の為によいのではないだろうか。

 そしてなにより、自分の幸せに向き合わないのはその幸せに対して失礼だ、と思う。

 自分は何も持ってませんみたいな顔をしていても本当に何もない人なんてごく少数だと思う。多くの人は、既に持っている幸せを見ないフリをして、「何にもない自分」を演じているのだ。

 それではあまりにも、自分が既に持っている幸せ、例えば思い出や親しい人に対して、失礼だ。それらを蔑ろにするのは、人として筋が通っていない。

 たまには、自分の幸せについて考えて、それに浸ってみるのも悪くない。精神衛生的にも、人間の筋としても、それは間違った行為ではないはずだ。

 

 

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【医学科】真面目なやつから落ちていく【試験】

 

 ウケ狙い医学科の内情記事シリーズ。



 医学科の試験は真面目なやつが落ちる(もちろん不真面目すぎるやつも落ちる)

 

 

真面目は悪手?


  医学科の試験は大抵範囲が膨大である。


 全てを理解して、暗記しようとなると、とてもつもない労力がかかる。


 学年が上がると、そういう科目が2つも3つも重なってくる。


 それら全部を完璧にしようとなると、部活もバイトも趣味も捨てて、勉強に専念するしかない。


 しかし、全部を完璧にしようとしても落ちてしまう場合がある。


 それが、真面目な奴が試験に落ちるパターンである。原因は2つある。

 

 


 まず第一に、全部を完璧にしようとしても、範囲の広さゆえに中途半端な勉強量になってしまい、努力が得点に結びつかず落ちるパターン。

 

 勉強して理解はできても、そのアウトプットができなくては得点には結びつかない。

 

 範囲のすべてを完全に理解しようとすると、どうしてもアウトプットのほうがお手すきになってしまう。

 

 結果、勉強して分かったはずなのに解答用紙は白いまま、なんてことが起こる。

 


  第二に、情報が足りていなかったパターン。

 

 医学科の試験は、全部を理解しようとするより、「出る場所を理解した方が得点に結びつく。

 

 その「出る場所」は、過去問だったり、先輩や同級生の情報から想像しなくてはいけない。

 

 情報をおざなりにして、やたらめったら「真面目に」勉強しても、試験に落ちてしまう。

 

 必死に勉強したのに、試験に出たのは全然違うところで、しかも同級生の多くはそこだけ勉強して合格、とかもあったりする。

 

失敗談

 
 要は、「効率よく」勉強するのが最善手なのである。尤も、なにが最善手なのかは、情報を手に入れないとわからないのだが。

 

 僕にも痛い経験がある。

 

 当時僕は、なかなか難易度の高い科目の試験を前にしていた。

 

 僕は、普段の試験にはあまり事前準備をせずに臨んでいた。しかし、今回ばかりは、と参考書を買うなどしてその科目を理解しようとしていた。

 

 前評判通りにその科目は難しかった。参考書を読んでもなかなか理解できなかったし、過去問にいたっては完全にお手上げだった。

 

 しかし、勉強しつづけるうちに、すこしずつわかってきた。そうすると面白くなり、勉強が進んだ。

 

 最後の準備をしようと、友達と集まって勉強会をした。

 

 その友達も勉強してきたらしく、勉強会は捗った。その科目の内容について深いところまで議論した。

 

 試験当日、出来はまぁまぁといった感触だった。完璧ではないが、アレだけ勉強したし、合格点には達したろう。

 

 そして結果発表の日、僕と友達は揃ってその科目を落としていた。

 

 一瞬目が点になったが、どう見ても僕はその試験を落としていた。

 

 友達とその科目について深く勉強した時間は、合格にはまったく寄与しなかったらしい。もっと過去問を勉強すべきだったようだ。

 

 幸い、再試験で合格することができたが、二度と努力の方向性は間違えまいと思った。

 

おわり

 
 医学科の試験は努力とその方向性が大事だよ。

 

 これから試験が待ってる医学生のみんなは参考にしてね☆

 

 

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【ネタバレなし】ダンケルク 感想【クリストファー・ノーラン】

 

 ダンケルク観てきました。

 


 まだ観てない人向けに、ネタバレなしにちょっとした感想を書いていきたいと思います。

 

 

 

そもそもどんな映画?

 

 第二次世界大戦時のダンケルクの戦いという、実際にあった戦闘をもとにつくられた映画です。ドイツ軍にフランスの北の端ダンケルクまで追い詰めらめた英仏軍、輸送船から民間船までを駆使してイギリス本国へ40万人の兵を脱出させようとしたのが、ダンケルクの戦いです。

 

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 監督と脚本は、『メメント』や『インセプション』などのクリストファー・ノーランです。

 僕は最近この2つをDVDで観たので、クリストファー・ノーランの名前だけでダンケルクを観に行きました。

良かった点

臨場感

 

 この映画は主に、「ダンケルクから脱出しようとする1人のイギリス兵」、「ダンケルクに救助に向かう民間船」、「ダンケルクに向かうイギリス空軍」の3視点から描かれるのですが、イギリス兵の視点での臨場感が凄い。

 Twitterの公式タグに #ダンケルク体験 とあるように、まさに1人の兵士となってダンケルクからの脱出を味わうことができます。

 助かるかもしれないという希望と、もう死んでしまうという絶望を、何度も繰り返します。

 とくに、死にかけるときの臨場感が凄い!!

 銃撃から走って逃げるシーン空爆にあうシーン海で溺れかけるシーンどれも映像と音響のもつ力が圧倒的。自分の身体で死を感じます。

 海で溺れかけるなかで、泳いでも泳いでも顔が空気に触れない恐怖視界が暗転して上も下も分からなくなる恐怖息ができないのに周りにも大量の人がいて身動きがとれない恐怖それらが一気に迫ってきます。

 ヤバい!死ぬ!こんなの絶対死ぬ!と本能で思ってしまいました。

 ヒリヒリした感触が味わいたい人は是非。

戦闘機シーンが超かっこいい

 

  文字通り、戦闘機のシーンがかっこいいのです。男心くすぐりまくりです。

 仲間の命のために、機体を操って、照準に入った瞬間に機関銃を撃って撃墜させる。

 

 まるで自分自身が戦闘機を操縦しているかのような臨場感。

 痺れます。

一瞬の無言の人間ドラマ

 

 個人的には、この映画は人間ドラマがメインではないと思っています(勿論感動するシーンもあります)。

 ただ、所々にある一瞬の無言の人間ドラマが好きです。


 自分の利益は放っておいて、他人を助けるために、他人の心を壊さないために、行動する。そんなシーンが随所にあり、そこがとても気に入りました。

 

 ネタバレになるので書けませんが、1人の人間が重大な判断をするシーンがさらっと出てくるので、画面から目を離さないことをおすすめします。

 

悪かった(?)点

 

場面が掴みづらい

 

 先に説明した3つの視点は、それぞれ長さが「1週間」「1日」「1時間」となっています。そして劇中のある一点で、3つの視点が合わさるという特殊な形式です。

 そこまで、映画の演出上では3つの視点が順番に入れ替わるのですが、実際の時系列とはかなり差があるので、分かりづらいです。この監督特有の演出方法なのかもしれません。

 また、会話らしい会話も少なく、生き延びるための怒号が多いので、今のシーンがどういう場面なのかは理解しにくいです

 

 また登場人物はあくまで戦争のなかにおける記号として使われており、深く掘り下げられることはありません。そのため、人物像に沿ったドラマ展開ではなく、”分かりやすいストーリー”とは言えません。

 

 大衆受けする映画ではなさそうです。

まとめ

 

 とにかく視覚と聴覚に訴えかける臨場感で、本当に戦場から脱出しているような感覚になる映画でした。

 分かりやすい感動ドラマって訳ではないですが、全員が必死で生きようとするなかで生まれた小さなドラマが沢山あります。

 観て損はない映画だと思います。

 

 

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【医学生】実習中に許せなかった、ふたり

 

 

 病院実習中の話である。

 

 上の先生の前で、勉強した内容を発表する機会があった。僕のひとつ前の同級生が発表していた。

 

 その先生は厳しいことで有名で、出来の悪い発表にはとことんダメな点を指摘するらしかった。

 

 彼の発表が終わった。

 

 先生は一度拍手をしてから、おもむろに質問を始めた。穏やかな口調だったが、内容は明らかに揚げ足とりだった。質問に答えた同級生は、笑いながら詰られた。最後に先生は、彼の発表を浅いと言いきって否定した。

 

 横で聞きつつ、僕は非常にイライラしていた。

 

 同級生の発表は、僕から見れば、浅いとは思えなかった。彼は、それなりに努力して発表を作っていた。その姿を知っているし、実際に彼の発表は適当なものではなかった。

 

 だから、気に入らないだけで、彼の発表に対してあんな扱いをして、彼の努力を上から否定する態度に、僕は腹が立った。

 

 勿論、学生の発表だし、臨床経験のある立場からしたら至らない部分もあるのだろう。そこは指摘されて然るべきだと思う。しかし、それ以外の彼の努力を全部否定するのは、教育する立場として如何なものなのか。そうだろう?

 

 僕はイライラしていた。僕はまだ子どもだった。相手の言動に不合理があるなら、それを認識したうえで受け流せばいい。別に同級生の発表への先生の態度にイライラする必要性などない。僕の精神のなかの未熟な部分が、受け止めなくてもよいストレス要素をまともに受けとって、結果非常にイライラしていた。

 

 発表が僕の番になった。

 

 僕は自分の発表が叱られる覚悟をしていた。彼のクオリティであそこまで言われるなら、僕の発表ではもっと詰られることだろう。

 

 詰られた結果、幼稚な言動を取りかねない自分が怖かった。反抗的な態度をとることは、まったくどの方面に対しても、メリットのない行為だと理解はしていた。理解はしていたが、感情の動きは自分では制御できなかった。


 僕の発表が終わった。予定通りのことはできたが、パーフェクトからは程遠いと思われた。僕は叱られる覚悟をした。また、イライラが積もった。

 

「よくできてるね」

 

 なにを言われたかよくわからなかった。どうやら褒められたようだが、ここからどう叱られるのか考えていた。

 

 しばらく先生の言葉を聞いていたが、揚げ足をとられる様子はなかった。どうやら少し褒めているようだった。

 

 ある小さな一点において僕の発表は先生に気に入られたらしい。それ以外の部分は前の彼の方がキチンと発表していたのだが。

 

 講評を聞いているうちに、自分のなかのイライラが消えていることに気づいた。

他人が詰られているときには腹立っていたのに、いざ自分が褒められたとなると、怒りはすっかり治った。どこか誇らしい気持ちすら、滲みでてきた。

 

 僕は自分の単純さに呆れた。自分さえよく扱ってもらえれば、義憤もすぐに捨ててしまえるなんて。先生の行為の不当性を主張しようとあんなに感情を昂ぶらせていたのに、自分への対応次第でコロンと変わってしまった。結局自分勝手だ。

 

 講評が終わった。褒められてニヤつきそうになる気持ちと、そんな自分を馬鹿馬鹿しく思う気持ちとで、顔が変になったまま席に戻った。

 

 唐突に訪れた自己嫌悪と戦いながら、僕は次の奴の発表を聞き流し続けた。

 

 頭が変になった。いつの間にか全体の発表が終わっていた。

 

 

まぁ人間そんなもんだよね!!

 

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watabera.hatenablog.com

 

【夏の歌】現代短歌にハマってみませんか。新鋭短歌集4選【恋の歌】

 

 最近、短歌にハマった。

 

 短歌というと、古そう、堅苦しそうなど、現代人には楽しくなさそうなコンテンツだと思われがちなだ。友人にも、趣味として短歌にハマっている、と伝えると、エッと驚かれる。

 

 しかし、短歌は決して昔の文化ではない。むしろ、日々に忙殺され、じっくりと芸術を楽しむ時間もない我々現代人にこそ、短歌がぴったりフィットしてくるのだ。

 

 という訳で、今日は短歌について紹介したい。

 

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短歌ってそもそも?ルールは?

 

 さて、短歌の定義とは、和歌の一形式で五・七・五・七・七の五句体の歌体のことだ。

 

 今回は、一般に短歌と呼ばれるようになった近代、現代短歌のなかでも、平成以降の作品ついて取りあげていきたいと思う。

 

 また、とくに新鋭短歌と呼ばれるシリーズについて、個人的な名作を紹介したい。

 

 

現代短歌の有名作者と言えばあの人

 

 短歌に対して、読んでみても難解で共感できそうにない、というイメージを持っている人も多いと思う。

 

 そういう人はまず、俵万智さんの「サラダ記念日」という短歌集を読んでみてほしい。きっとそのイメージがひっくり返る。

 

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

(サラダ記念日/俵万智

  

 教科書にも載っている、この有名な短歌は、みなさんご存じのことと思う。

 

 この歌が載せられている、俵万智さんの第一歌集が、「サラダ記念日」だ。おそらく近所の古本屋にある。なければamazonの中古品でよいので、是非一度手に入れて目を通してみてほしい。

 

 「サラダ記念日」では、俵万智さんの恋愛模様などが、決して壮大ではない、日常的な目線で描かれている。

 

 それゆえ、我々は歌に詠まれている景色や付随する感情を、カンタンに思い浮かべることができるのだ。きっと一読したみなさんは、共感できる歌の多さに驚くだろう。

 

 「サラダ記念日」では基本、俵万智さんの個人的な出来事しか歌われていない。

 

 しかし、個人的な歌であるからこそ、彼女が抱いている感情は私たちが個人的な出来事に抱く感情と通じるところがある。そして、私たちは彼女の歌に共感してしまう。

 

 平成以降の短歌というのは、私たちに身近な感情を共有する芸術なのだ(と思ってる)。

 

 

 

現代短歌の最先端、新鋭短歌。夏の歌、恋の歌。個人的名作例4選

 

 そこで短歌に興味が湧いた方におススメしたいのが、書肆侃侃房という出版社から出ている、新鋭短歌シリーズだ。

 

 新鋭短歌シリーズは、様々な若い現代歌人たちの第一歌集を出版しているシリーズである。

 

 新鋭短歌では、現代歌人の多様な感性から生み出される素晴らしい歌がたくさん載っている。若い歌人たちがそれぞれの言葉で、三十一文字のなかに、それぞれの世界(景色や感情)を作りだしている。

 

 すでに(20178月現在)、シリーズは34まで到達している。いくつか買ってお気に入りの歌人や歌を探すのもまた楽しい。

 

 せっかくなので、新鋭短歌集のなかから僕のお気に入りの歌集と歌をいくつか紹介して、僕なりの解説をしたい。

 

1.夜にあやまってくれ』(鈴木晴香)

 

自転車の後ろに乗ってこの街の右側だけを知っていた夏

 

 まさに青春といった歌。自転車の荷台に横向きで二人乗りしていたから、街の右側だけしか視界に入っていなかった、と気づく歌である。

 

 自転車のスピード感、二人乗りで眺める街の景色、それを思い返すときの感情、読んだ瞬間すべてがワッと脳内に流れ込んでくる。

 

 感性を一気に刺激してくれる素晴らしい歌だ。

 

呼吸することさえ恋をすることの副作用だとしたらどうする

 

 思わず息が詰まってしまうほど鮮烈な歌である。

 

 作者のなかで、恋が自らの生存意義にまで影響を及ぼしていることを自覚する歌だ。この歌のなかでは、呼吸を『副作用』と仮定することで、恋が生死よりも先じている自分の心象を表現している。

 

 にしても、「呼吸が恋の副作用」だなんて発想に感服するばかりだ。

 

 

 『夜にあやまってくれ』は、上のように青春だったりアダルトだったりする恋が沢山歌われている。その美しい発想力に驚きつつも、同時にその底の純粋な気持ちに共感できる。女性におすすめの歌集だ。

 

 

2. 『春戦争』(陣崎草子)

 

未来とはレモン氷の向こうなるおまえの八重歯に映った花火

 

 夏のお祭りにて、レモン味のかき氷を食べる『おまえ』、その白い八重歯に打ち上げ花火が反射している。作者はふと、そこに未来を感じた。頭に思い浮かぶのはとてもシンプルな情景だが、それでいてとても美しい歌だ。

 

 レモン氷と反射する花火という美しい情景に、作者と『おまえ』の関係性を反映させている。作者と『おまえ』の今後はきっと明るいものなのだろう。

 

 

 作者が絵を描いていた人らしく、『春戦争』は絵画的な美しさのある歌が多い。生活の場面場面を切り取って、透明感のある言葉で描いている。穏やかな心になれる歌集だ。

 

 

3.『青を泳ぐ。』(杉谷麻衣)

 

聴覚を放し飼いするひるやすみ文学少女を装いながら

 

 クラスの会話に入れないので、本を読んで文学少女を気取ってはいるが、どうしても皆の会話内容が気になってしまう。そんな歌だ。

 

 これは非常に共感する人も多いのではないか。自分の世界を構築してクラスの輪から離れようという気持ちと、やっぱりクラスの輪のなかに近づきたい背反する気持ちが、リアリティのある情景によって描かれている。

 

 僕にも同じような経験がある。

 

 

 『青を泳ぐ。』では、日常のなかの風景を身近な言葉で幻想的に描いた歌がたくさん載っている。自分たちが生きている世界が本当は美しいことを教えてくれる歌集だ。

 

 

4.『硝子のボレット』(田丸まひる)

 

縫いつけてもらいたくって脱ぎ捨てる あなたではない あなたでもない

 

 自分の心の隙間を『縫いつけてもらいたくって』、洋服を『脱ぎ捨てる』。けれど、いくら身体を交えても、どの人も完璧には自分の欠落を埋めてくれない。それなのに、次の人ならば、と新たな相手を探してしまう。

 

 自分を探すために、性行為を通して他人の身体を探っている。しかし、誰の身体を探っても心は満たされない、という歌だ。

 

 『縫いつけて』と『脱ぎ捨てる』の対比、『あなたではない あなたでもない』で作者が同じ行為を繰り返している表現が、技巧を感じさせる。 

 

くちびるはデザートだから最後まで残す遊びをしてみませんか

 

 『くちびる』つまりキスを、あえて一連の行為の最後までとっておきませんか、という歌である。

 

 性愛に対して経験豊富な作者だからこその余裕がにじみ出ている。また、そこに生じる官能的な悦びを、実際の肉体的行為とは裏腹に、かわいらしく上品に歌っている。これもまたグッとくる。

 

 

 『硝子のボレット』は、上のような性愛に関する歌が多い。人間の本能のドロドロとした決して美しくはない部分を甘くきれいな言葉に昇華させているのが、この作者のすごいところである。 

 

 

ぜひ購入を

 

 どうだろうか、紹介したなかに気になった歌はあっただろうか。

 

 もしひとつでもあれば、是非その歌集を買ってみてほしい。他にもお気に入りの歌が見つかるはずだ。

 

 そして、お気に入りの歌がいくつか見つかれば、他の新鋭和歌シリーズにも挑戦してみるのもよい。あなたの心を掴む歌集はきっと他にもあるはずだ。

 

 

趣味としての短歌のおすすめポイント

 

 時間のない現代人だからこそ短歌をおススメできるポイントもある。

 

 単純に1句が短いという点だ。

 

 小説などでは切り上げるタイミングがなかなかなく、本を読むのをやめるとなると、どうしてもキリが悪い部分であきらめることになりがちだ。

 

 しかし、歌集では、ひとつひとつがたった三十一文字なので、切り上げたいタイミングで切り上げることができる。読んでいて息切れすることもない。

 

 また、短歌にはもうひとつの楽しみ方がある。そう、自ら歌を詠むことだ。

 

これも、小説やエッセイと比べて非常にハードルが低いというメリットがある。

 

 もちろん素晴らしい歌を生み出すのには時間や技術が必要だ。しかし、見た景色や自分の感情を、自分の言葉で歌うのは比較的難しくない。それでいて大きな充実感をあなたにもたらしてくれる。

 

 インターネットには短歌投稿サイトもあり、自分の歌を他人に見てもらうことも簡単だ。

 

 最近では個人主催の短歌会などもあるようで、手軽に始められる新たな趣味として、短歌を詠むことはピッタリなのではないだろうか。

 

 

現代短歌を趣味に

 

 僕は、短歌の魅力は「たった三十一文字で圧倒的な情景と感情を共感させる」ことにあると思っている。

 

 言い方は悪いが、受信する側としてこんなにもコストパフォーマンスがいい芸術は他にないと思う。

 

 あなたも、心を揺らすお気に入りの一首を見つけて、ぜひ短歌にハマってほしい。

 

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ユニコーンと麒麟とワンカップ大関

 

 ラーメンを食べた帰りに、ジュースでも買おうとサークルKに寄った。

 

 スナックコーナーを眺めていたら、初老のおっさんが同じ列に入ってきた。

 

 おっさんは、よれよれのTシャツに半パンで、左手にくしゃくしゃの千円札を握っていた。

 

 おっさんは、スナックコーナーの向かいの酒棚を一瞥すると、ワンカップ大関をむんずと掴んで立ち去った。

 

 僕はぽつんとそれを見つめていた。一瞬経ってから、自分が感動していると気づいた。

 

 なんどか味わった種類の感動だと思ったが、それがなんだったかすぐには分からなかった。

 

 レジでTカードを財布から出したときに、やっと思い出した。

 

 白川郷だ。白川郷を見たときと同じ感動だ。

 

 白川郷は、岐阜県の合掌造りが有名な集落である。その独特の景観によって、1995年に世界遺産となった。

 

 しかし、僕にとっては白川郷世界遺産よりも大きな意味があった。

 

 白川郷は、"雛見沢"なのである。

 

 雛見沢とは、竜騎士07原作のノベルゲーム「ひぐらしのなく頃に」の舞台の村だ。

 

 僕は、中学校の頃「ひぐらし」に大ハマりしていた。雛見沢は2次元のなかでは馴染み深い、しかし現実では到達できない場所だった。

 

 大学に入ってからようやく白川郷に行く機会があった。そこには、まさに雛見沢が存在していた。僕はアニメで観たそのままの光景に心を奪われた。

 

 話のコンビニのおっさんに戻す。

 

 よれよれのおっさんがワンカップ大関を掴むのを見たとき、僕は白川郷を訪れた日を思い出した。

 

 雛見沢と、ワンカップ大関のおっさんは同じだった。

 

 ワンカップ大関を買うよれよれのおっさんは、僕にとってある意味フィクション上の存在だった。漫画や小説とかではよく登場するけれど、実際に見たことはなかった。

 

 だから、おっさんを観たとき、アニメの聖地に訪れたときのような、ずっと応援していたバンドを始めて生で観たような、そんな感覚だった。ちょうど僕は漫画の世界に入り込んだようであった。

 

 現実問題、昼からワンカップ大関を飲んでいるおっさんなんて、いくらでもいるだろう。僕の場合はたまたま今まで会わなかっただけだ。それでも、僕にとってそのおっさんは、フィクションの香りがしていた。

 

 差別的なニュアンスが、その感性のなかにあるかもしれないのは否定しきれない。しかし、その邂逅は僕にとっては鮮やかな衝撃だった。

 

 よれよれのTシャツ、くしゃくしゃの千円札、ワンカップ大関。おかげで非日常的な体験ができた。サンキューおっさん。

 

(不快な思いをされた方は申し訳ない)

 

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