綿箆雑記帳

日常で思ったことの雑記、メンヘラとオタク考察、書評、創作

僕らはアルコールで自慰行為に励む

 
 酒を飲んでしまう。
 自分の飲酒環境からして、たくさん飲んだら偉い(いや全くそんなことはない)気がして、褒めてもらいたいのか、酒を飲んでしまう。

 酒を飲んでしまう。
 酒を飲めば飲むほど、社会で粗相をしないため自分の行動を監視する機構(社会性武装)が取り払われていって、気持ちがいい。だから酒を飲んでしまう。

 しかし、酒は毒であり、質量ある液体である。頭の不快感や満腹感が、酔いによる開放感を超えてくれば、飲酒をストップできる。
 ただ、強い酒やその日の調子などで、酒の回りが身体のアラートを無視してしまうと、潰れるまで飲んでしまう。愚かも愚か。

 僕は一人でいるときに酒を飲もうとは思わない。だから、酒を飲んでしまうのは、すべて寂しさからきているようだ。
 社会性武装を取っ払って、もっとダイレクトに誰かと関わりたいらしい。これはもはや、ただセックスしたいのと同じである。

 潰れると(自宅でなければ)他人に迷惑をかける、と分かっているのに、潰れてしまう時点で、僕は酒をコミュニケーションの利器として使えていない一方的に酔っぱらって、エゴを押しつけて、潰れて迷惑をかける。これは逆にオナニーに等しい。
 セックスしようとしてオナニーになってると思えば、甚だ滑稽である。そんなだから………。

 酒との付き合い方を改めたい。改められなくても、せめて考えなおしたい。考えなおせなくても、頭の隅には置いておきたい。頭の隅には……。
 
 

 

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人形を捨てるな、死ぬまで愛し続けろ

 

 人形が怖い、嫌い、悲しい。

 

愛玩人形を見たくない

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 愛玩用の人形を見ると、胸の奥、食道のあたりをキリキリと締めつけられるような気分になる。同じ人形でも鑑賞用の人形、美しくあればそれで役割を果たす人形、それは怖くない。愛玩用の人形、人間やペットの代替として愛情を受けるために作られた人形が怖い。彼女ら(愛玩用の人形は大抵女性、もしくは動物ではないだろうか)は、時間の経過、つまりは持ち主の成長や本人の経年劣化で、いつかその愛情を打ち切られてしまう。人形を見るたびに、その事実をギリギリと胸に押しつけられる。それが怖くて辛い。そんな目にあいたくない。

 

愛情の奴隷

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 彼女らは、持ち主の無償の愛を存分に受け始めた瞬間から、いつかそれを剥奪され、(愛情の反対であるところの)無関心のみが与えられることを決定されているのだ。決まっているのだ、失うことが。人間の傲慢だ。まるで奴隷じゃないか。愛情を受け取るという労働をひたすら続け、やがて破棄。そういうかわいそうな被害者が存在することを理解させられるのが、嫌だ。どうしたって助けられない保健所の犬猫の命があることを知ったときと同じ感情。だって可哀想じゃないか、本人は知らないのだ、その愛がいつか必ず消え去ることを。そのくせして、人間は我儘に愛情を注ぐのだ。自分の健全な成長のために。最初は人形を意識あるもの、自分と同等の尊厳をもつ対象として扱うくせに、最期にはただの物体として処理するのだ。人間って傲慢だ。

 

人形はモノ

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 もちろん、人形に意思はないし、感情はない。物体であり、尊厳はない。だから別に存分に愛情を注いだあとにポイと捨ててもなんら問題はない。法律にも倫理にも背かない。それが自分の所有物であれば。幼い子が成長の過程で愛情を与えることを知るために、家の関係でペットを飼えない子のために、子孫と暮らせない老人が自分の価値を認識するために、人形は愛されて、そのあとに用が済めば捨てられる。それで、まったく問題ない。

 

捨てられたくないだけ

 だから、僕がいだいている、このある種の憤りに正当性なんてない。ただ、人形に「愛情を与えてもらえなくなった自分」を投影し、そんな恐怖を覚えさせてくる存在に八つ当たりしているだけなのだ。捨てられたくないという感情を、人形を鏡にして確認しているだけなのだ。僕の心の弱い部分(存在が悪とは思わない)が作り出した偽りの正論だ。

 でも、やっぱり人形が怖い、嫌い、悲しい。

 いつか捨てるのに、愛してくるなんて、卑怯じゃないか。

 

 

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激突!!サウナマッチ!!~効果よりも我慢大会~

 

サウナマッチとは?

 

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 有史以来、多くの者が汗と血と涙を流してきた闘技、サウナマッチ。ルールなどは生まれたばかりの赤子でも知っているが、常識のない諸兄は知らないかもしれないので、一応説明しておこう。しっかり聞きたまえ。

 

 基本ルールは至極単純、誰よりも長くサウナにいれば勝ちである。

 

自分より先に入った人が、自分より先に出る→0kill 0dead
自分より先に入った人が、自分より後に出る→0kill 1dead
自分と同時に入った人が、自分より先に出る→1kill 0dead
自分と同時に入った人が、自分より後に出る→0kill 1dead
自分より後に入った人が、自分より先に出る→1kill 0dead
自分より後に入った人が、自分より後に出る→0kill 0dead

 

 自分がサウナを出た瞬間に全てのkill/deadを合計して算出するのだ。


 ね、簡単でしょ?

 

 巷ではスプラトゥーンというものが流行っているが、これもサウナマッチの一種である。スプラトゥーンの名前は、サウナ剣闘士たちが戦う際、あまりの激闘に汗が飛び散ることからついたのである。この事実からも、サウナマッチが民衆に広く伝わっていることが分かるだろう。

 

 

健康ランドの決戦

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 さて、今回は、先日の私のサウナマッチの様子をお伝えしたい。

 

 その日、私は健康ランドに行っており、温泉でジャグジーやら電気風呂やら薬湯やらを堪能したあとであった。そこで、サウナの入り口である木製の扉を見つけた。私は温泉のシメとしてサウナを満喫することにした。そのあとに待ち受ける闘いの烈しさも知らずに……。

 

 扉を開けると、ムッと熱気と湿気が襲いかかってきた。うんうん、これこそサウナだよな、と思いつつ、嵌め込みテレビの正面にどんと陣取った。そのとき、サウナに既にいたのは、ゴリラのような体系をした50くらいのおっさん1人だった。おっさんも入ったばかりなのか、涼しい顔してテレビを見ていた。このおっさんこそが、のちに私と灼熱のサウナマッチを繰り広げるゴリラ座の聖闘士なのである(マジで画像みたいな感じ)。

 

 サウナに入って5分くらいが経過した。私はそろそろ暑くなってきた。元来、私は忍耐力がある方ではないし、暑さに強い方でもない。酒で体型だけが豊満になったインドア野郎には、70度の個室はもうしんどかったのだ。チラリとおっさんの方を見やると、顔は既に真っ赤であったが、表情は余裕そのものであった。一瞬、おっさんと目があった。私はハッとした。これは、サウナマッチが始まったのである……!!私は覚悟を決めた。なんとしてもこのゴリラが遁走するまで、熱波に耐えてやろう……と。

 

 

新たなる剣闘士、そして戦いはクライマックスへ…

 

 さらに5分が経過した。私は意外と持ちこたえていた。心頭滅却すれば火もまた涼し。嵌め込みテレビに映る東南アジアの景色をひたすら脳に流し込んでいれば、暑さも分からなくなってきていた。一方、ゴリラのおっさんの方はというと……かなり消耗していた。顔は真っ赤も真っ赤であり、もはや茹だこのようであった。これは……いけるかもしれない。そうこうしているうち、もう1人サウナに入ってきた。優しいそうなおじいさんで、孫に頼まれたら1万でも2万でも出してしまいそうな顔をしていた。一見弱そうだが、こういう人が案外ツワモノなのかもしれない。現にサウナに入ってくる瞬間も、全く顔色を変えず涼しそうであった。これは荒れそうだぜ……。私はここからの展開に身震いした。

 

 数分後、私は人体には限界があるという覆しがたい事実を、身をもって体験していた。もはやテレビのナレーションが何を言っているのかもよく分からない。これは流石に出ないといけないのでは……。さっきのおじいさんは、数分経ったところで満足そうな顔をして、出ていった。別にツワモノでもなんでもなかった。よって、ここでおっさんに敗北しても、1killと1deadでトントンだ。もういいじゃないか……。ふと、おっさんの方を見た。っ!!見つめている!!おっさんがひたすら出口を見つめている!!これはもうどうしてもここから出たいに違いない!!出ろ!!さっさと出ろ!!ゴリラ!!野生に帰れ!!……あっ。

 

 

勝敗の行方

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 10秒後、私はサウナの外にいた。めまいがしたので、流石に退散したのであった。おっさんは、まだサウナの中にいる。敗北である。ゴリラ座の聖闘士に惜敗したのだ。悔しさに歯噛みしながら、冷泉を浴びていた。そのとき、

 

 ゴリラがサウナから出てきた!!

 

 私がサウナから出てから1分ぐらいしか経っていない!!やっぱりあの野郎、負けたくからって意地張ってやがったな!!クソ、めっちゃ息切れてるし、無理してたんじゃねぇか!!しかし、負けは負け。私の完全なる敗北であった。

 

 そうしておっさんを眺めていると、目があってしまった。一瞬の邂逅であったが、おっさんは、「お前はよくやった。認めてやるよ」とでも言いたげな顔をしていた。一試合終えたあとの清々しいスポーツマンシップ。そんな雰囲気だった。そのあとおっさんは露天風呂へと向かった。おっさんの真っ赤な背中は、「これからもサウナで闘えよ、若僧」と語っていた。私は、「くたばれ、ゴリラ野郎」と思った。

 

追記

 

 当然ですが、サウナは我慢大会するためのものではありません。自分の体調と相談して利用しましょう。サウナマッチの結果、健康被害を受けても責任は取りませんよ!!

 

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式典は誰が為に?~しくじり先生は卒業式がめんどくさい~

 

 

  小学校の頃、卒業式が嫌いだった。

 

 

卒業式、めんどくさい

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 卒業式、大学や高校では、ただのよいイベントだった。しかし、中学校や小学校ではそうはいかなかった。特に小学校。皆さんも、寒いなか体育館で練習させられた記憶がないだろうか。練習中、4時間ぐらい暖房のない空間に放り込まれる。立ったり座ったり、ただ待たされたり、あと歌わされたり。僕は、それが嫌で仕方なかった。自由を奪われたまま、望まぬことを強制される時間は拷問以外のなにものでもない。喋る動くは、即お叱りにあう。歩くときは、テンポよくキレよく手足を動かさないとお叱り。在校生の言葉、卒業生の言葉を叫ぶのにも、音量がないとお叱り。寒い。怠い。長い。地獄も地獄である。だから、小学校での卒業式およびその練習にはいい印象がない。挙句、しょうもない事件を起こしてしまった。そのときのことを書きたいと思う。

 

 小学校高学年の頃の僕は、比較的おとなしい子どもであった。だが、一人前に反抗期の兆しを見せて、たまに親や先生に歯向かっていたりした。よって、卒業式の練習に関して僕にはやる気のカケラもなかった。やりたくないことを押しつけられるので、反発していたのだ。サボりたくて、サボりたくてしょうがなかった。心も体も淀んだ状態で練習に挑んでいた。だから、「一同、起立!」のたびに僕はワンテンポ遅れて立ち上がった。「一同、着席!」では皆より遅れた挙句、着席じゃなくて重力に任せて"落下"していた。お陰でデカい音は出るわ、練習直後は尻が痛いわ、散々だった。ともかく、卒業式およびその練習が嫌いだった。教育のフリした嫌がらせだと思っていた。

 

 5年生のときも卒業式練習はしんどかった。しかし、所詮は他人ごと(先輩方の卒業を祝う気は微塵もなかった)だった。待機だけの時間も長かったから、ぼーっとしとけば大体終わった。ロックマンエグゼの攻略法とか考えていた。ロックマンゼロだったかもしれない。練習中は、意識を身体に置かず長時間を乗り切った。身体は薄暗い体育館にあっても、心は鮮やかな電脳世界にあった。おかげでやっぱり起立が遅れた。座って立って歌って、あと多分拍手とかして、5年生のときの卒業式練習を乗り切った。本番もその調子で終わった。始終エサを貰えない猿みたいな顔をしていた。

 

 

ちょいワル小学生

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 そしてとうとう6年生になった。送り出す側から送り出される側になった。

 

 6年生のクラスは、少々治安が悪かった。比較的平和な小学校だったのに、僕のクラスだけが軽く学級崩壊していた。生徒がみな担任のことを嫌いで反抗していた。30代の少し太った女性教師。どうして嫌いになったかは覚えてない。ただ、当時の僕らには怒りに駆られるのに十分な理由だった気がする。ひがな反抗ばかりしていた。みんなして割り箸でゴム鉄砲を作って、担任が黒板を向いた隙に一斉発射した。3回目まではバレなかった。4回目でバレた。担任が一回教室から出ていったあと、体育科の教師を連れて帰ってきて、全員自慢の銃を没収された。

 

 そんなクラスだから、大人しい僕も"ワル"に傾いていった。友達がグラセフをやっているのを見て、親にグラセフをねだった。断わられた。18禁のエアガンをなんとかして手に入れたくて、ボケたじいさんが店主のおもちゃ屋の情報を提供してもらったりした。そこだと年齢に関係なく、18禁のエアガンが買い放題なのであった。その頃、僕は間違いなく"ワル"だった。アウトローとしての自覚があった。

 

 やがて、卒業式練習の季節になった。僕は憤った。練習の面倒さが去年の比ではなかったのだ。去年より練習時間が多い。そして、なにより卒業証書授与が死ぬほど面倒だった。受け取り方の指導まで一々されるのに加えて、順番がくるまでの時間が、ひどく嫌いだった。長いのに、自分の番が来るまで気が抜けない。徐々に皆が壇上に上がっていき、順番が近づいてくる。あの時間の強迫じみた雰囲気が嫌だった。

 

 

卒業式は誰が為に?

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 連日の卒業式練習で、僕はイライラしていた。なぜこんな目に合わないといけないのか。そもそも、僕は卒業式を開いてくれなんて頼んだ記憶はないのだ。卒業証書も各担任がクラスで配ればよいではないか。校長の言葉も来賓の言葉も要らない。全然祝電とかも送らなくていい。在校生の言葉も申し訳ないから要らない。卒業式の日は普通に休んでほしい。やっぱり卒業式なんて必要ないじゃないか。誰だ、俺たちを苦しめているのは……。あのイベントを一番心待ちにしているのは……うん、親たちである。親たちこそが、唯一あのイベントを楽しんでいるではないか。現に僕は卒業式なんて微塵も興味がないのに、親たちは当日になると浮ついたように写真を撮りたがるではないか。親たちのエゴのせいで、我々は暖房のない冬場の監獄で謎の演劇の練習をする羽目になっているのだ。僕は憤った。元々やる気はなかった。更地である。そこに反抗心が芽生えてきた。よって、さらに態度が悪くなった。そして、アウトロー小学生であるところの僕はとうとう教師に噛みついたのである。

 

 ある日の練習で、何につけても動きが緩慢だと怒られ、僕だけが残された。僕を横目で見送りながら去っていく同級生たち。非常な辱めを受けて、僕の怒りのボルテージは上がっていった。どういうつもりなのだ、と聞くから言ってやった。僕は卒業式なんて開いてほしくない、こんなのは親が喜ぶからやっているのだろう。僕らのために行われるはずの卒業式で、しかも僕は全くもって開催を望んでいない、なのにどうしてこんな面倒なことを強制されないといけないのか、そんな筋合いは全くないはずだ、だから動きが鈍かろうが問題ないではないか。そういって、人形じみた動きをする眼鏡の学年主任に懇々と説いてやった。どういう返事だったかは覚えていない。ただ説教がとんでもなく延びて、日が沈み始めてから学校を出たことは覚えている。

 

 しかし、僕は屈しなかった。表立って態度に出すとまた叱られてしまう。なので、見た目は大人しくしていた。しかし、心のなかで義憤をメラメラと燃え上がらせていたのである。ただ相変わらず起立は遅かった。真面目にしようと思ってもどうしても周りに置いていかれた。どうやら、これは身体能力の問題であったらしい。

 

 

アウトローは耐え忍ぶ

 

 

 さて、正義のアウトローである僕は、やっぱり卒業証書授与に苦しんでいた。卒業式最大の見せ場でありながら、最低の地獄であった。名前を呼ばれると、返事をしてから登壇。この返事が小さいとかなり食い気味に怒られる。多くの女の子が体育教師の鳴き声に震えさせられていた。当然僕も何度も怒られた。そして、壇上をぽつぽつ歩き、校長の前で一旦止まって、礼。右足、左足の順に出す。一呼吸おいて、右手を差し出して証書を掴む、左手も証書に添えてから受け取る。一歩下がり再び礼をする。たしかこんな感じであった。どうしてだか、小6の僕はこの流れを上手くこなせなかった。左手から出した。礼のタイミングを間違えた。そのたびに儀式は中断され、大いなるお叱りが飛んでくる。おうおう、もうウンザリだ。俺だって悪気がある訳じゃないのだ。なのに、この言われようは一体なんなのだ。

 

 そして、証書を受け取った後自分の席まで戻るのも苦手だった。卒業証書を左手で抱え、ゆっくりと席まで戻ればよい。客席からの注目も壇上に集まっているから、ほとんど誰も僕を見ていない。何も気にしなくてよい。しかし、だからこそ、僕は苦手だった。席までゆっくり歩き続けることに耐えられなかったのだ。多分、自分の仕事は終わったのに付き合いでサービス残業させられているとか、ちょうどそういう気分。授与が終わったのに、最後まで礼儀正しくさせられるのが耐えられなかった。どうしても壇から降りてしばらくすると、小走りになってしまう。今思えば、多動以外の何物ではない。しかし、証書を受け取ったあとまで礼儀を強要される筋合いはない、と本気で思っていた。

 

 さらに、僕は卒業式ラストの退場まで苦手であった。在校生の拍手に見送られながら、列ごと順番にシュタッと起立し、お行儀よく手足を動かし、周囲に合わせて行進しなくてはならない。退場に苦労した理由は3つほどある。まず、退場の練習が数時間のうち最後の30分で行われ、その頃には僕は精根尽き果てていたこと。第二に、練習の都合上、一旦退場しても結局体育館のなかに連れ戻され、講評を聞かなければならなかったこと。退場のくせしてちっとも僕らを逃してくれなかった。第三に、なにより、みんなと同じように、右手左足、左手右足、右手左足……と正しく繰り返すことが上手くできなかったのだ。多動をコントロールできなかったのもあるし、単純に身体を上手く使えなかったのもある。僕が周りと動きを合わせ(られ)ない事態が起こるたびに、教師たちは芸ができない駄犬を見るような顔をした。憎々しげでもあったし、哀れんでもいた。当の駄犬にとっては、それでいっぱいだったのだが。

 

 そういうわけで、表面上の態度は改めたにも関わらず、結局僕は叱られることとなった。先生方からしたら手に余る生徒であったろう。今からすれば申し訳ない限りだ。が、当時の僕にとって、全て与えられる苦行でしかなかった。謝罪の気持ちは皆無だった。僕の中には、望んでもない卒業式で何故こんな目にあわないといけないのか、と怒りが燃えたぎっていた。全部親たちのエゴじゃないか。怒りの火には、消える気配はなかった。それどころか、叱られるたびに油が注がれることとなった。

 

 

卒業式本番

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 やがて本番となった。6年間過ごした学び舎を去ること、道を分かつ友達もいることに関しては、一応の感慨はもっていた。しかし、卒業式単体には憎しみしかなかった。

 

 そして、我々の盛大な寸劇が始まった、それは大人のエゴによって開催された。国家斉唱の時点で頭が痛かった。証書授与とここからの長い道のりを思って既に辛くなっていた。

 

 卒業証書授与が始まった。長い。待機に待機を重ねて、僕の番が近づいてきた。3つ前の奴が壇に上がったので、スクッと席を立つ。本番だからか、いつもより視線が集まっている気がして、ジリジリ気持ち悪い。その間にも、次のやつが壇に上がって証書を受け取っていく。とうとう、壇の横の待機場所まで来てしまった。「〇〇〇〇」、名前が呼ばれた。放り出した「はい」は、思ったより普通の形をしていた。コツコツコツコツコツ。5歩で校長の前まで来た。まず一礼して、右足、左足。校長が証書をスッと出してきた。隣から担任が監視の目を光らせている。右手で証書を摘む、ツルツルしていてなんだか馬鹿みたいだった。左手を添えて、肘を曲げて受け取る。一歩下がって、礼。小走りにならないように、ゆっくりと気をつけて壇上を歩き、降り、自分の椅子を目指す。ゆっくり、ゆっくり、身体ときちんもコントロールするのだ。努力のおかげか、最後だけしか小走りにならずに済んだ。席に座ってからは別のことを考えていた。

 

 授与が終わった。会の進行は鈍足である。校長の挨拶、長い。我々の日常生活に一切関わってないのに、よくもそんな知った顔で喋るな。来賓の挨拶、誰なんだ。よく頑張りましたって、べつに頑張ってない。頑張っていたとして、頑張っているとこを見てないだろ。祝電、だから誰だ。在校生の言葉、卒業生の言葉、校歌斉唱……あぁ、もう。

 

 そして、やっと退場である。その頃にはもう僕の頭はグワングワンしていた。長時間の拘束で麻痺した頭を、厳かな音楽がグッと掴んで揺らしていた。ダメだ。気合を入れなくては。ここからまたひと仕事あるのだ。身体を通電状態にして、上手く動かさなければいけないのだ。あっ、前の列が立ち上がってしまった。次は我々の列の番である。……。バッと一列全員で立ち上がった。そのとき、僕はもうどうでもよくなっていた。所詮、大人のためのお祭りなのだ。ここまで暴れもせず、よく頑張った。もう十二分に義理は果たした。もうよいではないか、よいではないか。

 

 周りが整然と行進するなか、僕だけがひどく気だるげに出口まで歩いた。なんとか手と足は逆に振り出していたと思う。風が吹いたら飛ばされる程度のふらふらの行進をした。相当悪目立ちしたと思う。保護者の視線は覚えていないが、教師陣はやはり駄犬を見つめる顔をしていた。

 

 

誰かの為じゃダメだったの?

 

 退場での悪目立ちについて、してやったり、とは思わなかったが、ざまぁみろぐらいには思っていた。叱ってくるなら、叱ってこい。大人のエゴを無理に押しつけるからこうなるんだよ。多分そんな風に思っていた。エゴとかそんな言葉を知ってたかは怪しい。けど、多分そんなニュアンスのこと。

 

 しかし、教室に戻っても、担任の話が終わっても、僕が呼び出されることはなかった。拍子抜けした。友達とランドセルに落書きしあったり、同級生との交流を済ませてから、親のとこに向かった。

 

 そのときの僕は、卒業式からの解放と卒業の感慨で一種高揚していた。靴も履きかけのまま、下足置きから駆け出した。早く両親にこの気持ちをぶつけたかった。正門のところに母親を見つけた。となりにいるのは父親かと思ったが、例の学年主任だった。父親はトイレにでも行っているのだろうか。ん、学年主任が母親に何か言っている。僕は一旦立ち止まって、様子を見た。どうやら、学年主任が母親に僕のことについて苦情を言い、それに母親が謝っている、らしい。学年主任は渋い顔で話し続けた。母親はなんどもなんども学年主任に頭を下げていた。解放感や浮ついた気分がさーっと引いて、僕はしばらくそこに立っていた。親のための寸劇なら両親のために頑張ればよかった、と思った。

 

 おわり。

 

 

雑記 とらのあな新地~壁から床から乳と承認~

 

 一介のオタクなので、オタクの聖地秋葉原に遊びに行ったりする。そこまで通いつめてはないから、大体秋葉原の表面だけをなぞって終わる。ディープな部分はよく知らない。そんなだから、秋葉原に来たときに行く場所は大体決まっている。ブックオフとらのあなである。ソフマップはあまり行かない。アニメのグッズとか買わないからかもしれない。

 

 という訳で、昨日、秋葉原でお決まりの場所を巡って本やらなんやら買ってきた。

 

 ブックオフに関して、別に特筆することはない。秋葉原駅中央改札口から右へしばらく、高架下へ向けて右折したところ、うなぎの寝床みたいなブックオフ。結構階数があって6階ぐらいまであった気がする。秋葉原にあるくせに大して品揃えがよくない。100円コーナーにあまりいい本がない。ブックオフ乞食としては嬉しくない。買うと決めていた本を見つけたので、それを買った。432円。

 

 とらのあなは、漫画、ラノベ、2次元関係のCD、ゲームなどを売っているオタク向けの店である。特に、同人誌(いわゆる薄い本)の販売で有名だ。とらのあな秋葉原店Aの上階にも大量の同人誌が売られている。勿論、漫画やラノベも結構な品ぞろえである。オタクしか見てないブログで説明しても仕方ないけど。

 

 電気街のメインストリート沿い、メイドたちが客引きをしている一角に、とらのあな秋葉原店Aは建っていた。オレンジのひさしで猫耳の女の子のイラストが語りかけてくる。

 

 僕は入店するたびに、匂いでとらのあなに来たことを実感する。室内に入るとすぐ、爽やかでどことなく甘い匂いで鼻の穴の中がいっぱいになる。別に嫌な感じはしない。しかし、店内にほのかに香らすにしては、匂いが強すぎる。「いい匂いするでしょ!でしょ!」と押しつけてくる。結局、甘い匂いのなかに酸っぱさを感じとって、この匂いはオタクの汗臭さを誤魔化すためのものと理解する。でも、僕はこの匂い、そんなに嫌いではない。匂いが鼻に来た瞬間に、あぁオタクの店に来たなと、ある種覚悟めいた思いを抱くからだ。

 

 とらのあな秋葉原店Aも奥に長い。奥にはエレベーターがあり、その両側に階段で上階へと続いている。1~3階は漫画とかラノベ売り場、4階から上は同人誌売り場である。5~7階の同人誌は18禁である。

 

 しかし、僕がとらのあなで毎回来ているのは地上階ではない。地下である。プロのポタクはご存じであろうが、あの地下空間はまさに異世界である。とらのあなの、まさにその虎穴を紹介したい。

 

 1階入ってすぐ右、地下へ降りる階段がある。客はその階段でしか地下へ降りることができない。 階段を降りていくと、

 

 階段の壁に乳、乳、乳、乳、乳乳乳乳乳乳乳…………

 

 壁中におっぱいモロ出しポスターが貼ってあるのだ。視線をどこに向けてもおっぱいが見える。二次元美少女たちが皆裸体を晒している。彼女らの肉体は非常に肉感的にみずみずしく描かれていて、見る者の精巣に響く。そう、地下1階はエロ漫画(18禁商業誌)売り場なのである。

 

 乳階段を降りて、いざ商業誌売り場にたどり着く。さすれば、先ほどを超えた数の乳首があなたを待っている。棚に飾られた漫画の表紙の女の子たちが腕を広げて、現実じゃあそう出会えないサイズの乳房をたたえている。床の広告にもおっぱい。棚に貼ってあるポスターにおっぱい。あと天井は……覚えてない。とにもかくにもおっぱい。空間全てがピンク色で満たされている。乳天国?乳地獄?ちなみに陰部は法律的にダメなのか、ポスターでも上手く隠してあったり、モザイクがしてあったりした。

 

 地下1階にいると、「あなたの性欲もコンプレックスも、なにもかも赦してあげる」という目線が、そこらから囁きかけてくる。その目線の主も当然、裸体を曝した二次元美少女たちである。エロ漫画で裸体のシーンなんて大体セックス前後なんだから、『身体を許した相手にむける目線』ばかりが地下1階に交叉しているのだ。乳だけじゃなくて承認もあの空間に溢れている。自己肯定感が足りない人は一日中とらのあな地下1階で過ごしたら改善するかもしれない。

 

 我々は、肉欲の対象として精密に創りあげられた、二次元美少女を買う。そしセックス、つまり肉体的な快楽と、身体を入ることを許される承認の両方を、バーチャルに体験するのだ。そのために、顔出し美少女たちがところせましと並んで買われるのを待っている。飛田新地とよく似ているのだ。地下1階は、とらのあな新地だ。

 

 飛田よろしく、売っているエロ漫画の種類も色々である。姉、妹、JK、ギャル、巨乳、品乳、百合……etc.探したら男の娘ものもあるのかもしれない。尤も、妖怪通りの嬢みたいな年齢のキャラはエロ漫画には出ないだろう。

 

 話を客側に移す。エロ漫画で性欲を発散させようとするだけあって、冴えない印象の男が多い。もちろん、女性はいない。1回見た気もするけど。ひと目でオタクといわかる太ったおじさんとか、最近いいことなさそうな顔をした青年が多い。大体その辺。昨日は、白髪のおじさんもいた。妻子がありそうな顔しながら、JKものを数冊積んで持っていた。もしいるのなら、おじさんの子どもが女の子ではないことを祈るばかりだ。道に外人は多いが、地下1階には少なかった。中東系顔の青年が一人大きな目で背表紙を眺めていた。あと、多動なのか首を小刻みに振りながら、本棚に顔を寄せて背表紙を凝視しているやつがいた。流石に怖かった。ヒカキンみたいな顔をした典型的なオタクもいた。僕だった。前、白人が地下1階への階段の途中でその異様な空間を見渡し、「oh〜wwwwww、crazywwwwwwwww」とだけ叫んで、また上に上がっていったことがある。たしかにクレイジーだから仕方ない。

 

 とらのあな新地で虹の女の子を漁る我々の共通点として、全員目が真剣である。なぜなら、この空間に入ってくるには覚悟が必要で、この覚悟が目つきを鋭くしてしまうからだ。1階の入り口は人通りも多い。その横で地下1階への階段を出入りするのは、「エロ漫画買い行くんだ」「エロ漫画買ってきたんだ」と周りにバレバレなのである。そのデメリットを越えたメリットを生み出さなくてはいけない。みな、よい成果を手にしようと熟考している。二次元美少女たちは自らの裸体を晒し、最大限の承認を向けてくる。と、同時に我々も真剣な眼差しで彼女らと向き合っているのである。上の階では、18禁エリアでも談笑などが聞こえるが、ここのお客たちは黙っている。聞こえるのは少し静かなBGM、垂れ流されるエロアニメの喘ぎ声、店員の声くらいである。我々は黙々と作業をすすめる。場の雰囲気には常一本張りつめた線のような緊張感がある。

 

 レジは地下1階に用意されてある。我々は長旅の末に辿り着いた至高の1冊(人によっては数冊)を、レジで本当に自分のものにする。しかし、今はもう慣れたが、なかなか恥ずかしい。店員相手に、「というわけで、これで抜きます」と伝えているようなものだ。店員は男だし、そんなこと微塵も気にしていないだろう。だけど、こっちはやはりどことなく恥ずかしい気分になる。だって自分の性癖をバラしているのだからね。

 

 さっき一瞬書いたように、地下1階には実は漫画以外のエロも陳列されている。エロアニメDVD、エロゲ、官能小説などである。官能小説はリアル路線とラノベ路線の2種類がある。リアル路線は、女子大生家庭教師、性の教えとかそんなタイトルである。昔ながらである。ラノベ路線は、異世界に転生したらエルフのハーレムに祭り上げられヤリたい放題、みたいなタイトル。景気がよくてよろしいって感じだ。

 

 官能小説の棚を眺めながら、自分がこの種の小説を読んだことがないことに気づいた。小説に出てくる性描写は読んだことはある。しかし、本格的な官能小説に手を出したことはないのではないか……。

 

というわけで、官能小説を買いました!!

 

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 め◯ん一刻みたいだ(読んだことないけど)。

 

あらすじボロアパートの管理人に思いを寄せる主人公は、なかなか一線を越えられない。別の美女住人に筆おろししてもらい自信をつけた主人公だが、はたして本命の管理人と深い仲になれるのだろうか……』

 

 なんかsch◯◯l daysみたいだな。

 ともかく、面白そうなので、読んだらまたブログに感想でも書きます。

 

 

 

 そんな感じで、とらのあな秋葉原店A地下1階は、甘い性と承認でいっぱいな空気と、真剣そのものの客のおかげで、日常から遠く離れた異空間になっている。なので、雰囲気を感じるだけでも大きな衝撃がある。男に限らず、女性も観に行ったら面白いと思う。

 

 ただし、カップルで行って「うわぁ〜キモ〜いwww」などのたまい、オタクにマウンティングするのは決してやってはいけない。もしやってしまったら、壁のポスターというポスターの乳首の部分から銃口が飛び出し、2人をただちに蜂の巣にするであろう。親に結婚を反対されてエロ漫画売り場で心中するとで決めていたならば、それでもよいけどね。

おちんちんがすきだ。

おちんちんがすきだ。おちんちんという言葉が好きだ。おちんちんという言葉が持つ社会からの解放が好きだ。おちんちんと言っている間だけ俺は社会から解放される。おちんちんと言う俺は社会のルールから解放されている。
だから、辛いときはおちんちんと言えばいい。社会のルールに、暗黙の了解に飽きたならば、おちんちんと叫べば君は社会性から解放される。社会のしがらみから逃げたれば、おちんちんと叫ぶがよい。君は社会のつまらないルールから遠く離れた存在になるのだ。おちんちんと叫ぶような無法者になるのだ。ルールの外だ。無頼漢だ。君は今社会を捨てたおちんちん野郎だ。


……
………
…………おはよう。僕は今、致命的な宿酔状態でパソコンに残された走り書きと向き合っている。上の文章は、昨日(今朝)酒に大敗を喫し、酔いに酔った状態で書かれたものらしい。昨日は学科の同級生と居酒屋で飲んだあと、僕の部屋が二次会会場になった。僕の部屋で部活の伝統がどうだとか、本当に受け継ぐべきはなにかなど、やけに真面目な話をしていた記憶がある。そこから記憶がしばらく飛んで、部屋のなかでおちんちんおちんちんと叫んでいたような気がする。おそらくその前後に書かれた文なのだろう。20を過ぎて何よりも先におちんちんが出てくるのが恥ずかしくてならない。しかし、せっかく書いてくれていたので、昨日(今朝)の僕の遺志を汲み取ろうと努力してみる。
 
 要は、社会集団のなかで規律を守り正常な人間として生きるのに疲れても、おちんちんというお下劣な言葉を叫ぶことで一時的にそこから逃れられる、と言っているらしい。おちんちんと叫ぶような人間は、社会の枠から大きく外れた異常者だ。お下品な言葉を叫んでしまうような人間は、社会性がないと言わざるを得ない。当然だ。しかし、敢えてその異常者の立場に自ら身をおくことによって、正常者のひしめく社会の籠から逃げ出すことができる。窮屈極まりない社会から魔法の言葉一つで脱出できると上の文は言っている。異常者たちの世界は広い、平らな草原が無限に続いている。空はもちろん青い。社会のなかのように人だらけで窒息したりしない。そして自由だ。なんのルールもない。しがらみによる不便も、暗黙の了解による強制も存在しない。おちんちんと叫ぶだけで、広くそして自由な世界があなたを待っている。
 
 これはおちんちんに限った話ではない。幼児退行気味のお下劣な言葉ならなんでもいい。ただ、おっぱいはちょっとお上品すぎるし、中学レベルの下ネタになってくると社会の臭いがしてしまう。となると、やっぱりおちんちんが一番適任なのかもしれない。
 
 そして、別に僕が言わなくても、このような現象はTwitterでもよく見られる。ご存知のように、意味もない下ネタをTLに書き連ねている奴はたくさんいる。あいつら(あなた?)はみんな、社会のルールの内側で生きるのに疲れているのだ。そして、異常者の世界へと脱北しようとしている奴なのだ。だから、彼らを見たときには気持ち悪いとか言ってはいけない。必死で奮闘している彼らにこそ、優しい言葉をかけるべきだ。彼らだって、意味もなく無意味な下ネタを言いたいわけではない。うんこもりもり森鴎外は、助けを求める叫びにほかならない。
 
 現実世界だってそうだ。赤ちゃんプレイするおっさんも、街中でおっぱい出して踊っているねえちゃんも、みんな異常者の世界に逃げたがっているのだ。「普通の人間」の顔をして生きていくのが嫌なのだ。あの人たちはみんなTwitterでうんこちんこまんこセンキューとか言っている人種と同じ人種だ。我々は仲間なのだ。互いに寛容になろう。Twitterの下ネタも赤ちゃんプレイもセーフなのだ、セーフ。社会に疲れた人間が異常者になろうとする、正常な反応なのだ。もちろんおっぱいの露出が元よりセーフなのは、言うまでもない。
 
 社会は窮屈だ。大勢の人間がそのなかで生活を送らないといけないからである。我々は物を食べて屋根の下で寝る生活を維持しなくてはならない。そのためには社会という巨大なシステムを回す必要がある。そしてその社会を運営する過程には、個の自由を制限し、ルールのなかで人が生きることが必要不可欠だ。だから、我々が生きていくうえで完全な自由でないこと、つまり社会が窮屈であることは、仕方ないのだ。だがしかし、動物として個、個の本能はそんなこと知ったこっちゃない。もっと自由でいたいし、なんの束縛も受けたくない。それでも社会のなかで生きる限り、個は抑制され、わがままな本能は無視される。個は苦しみ続ける。この社会から脱出したい、束縛から逃げたい。その叫びが、お下劣な言葉の連呼である。心がおちんちんと叫びたがってるんだ。社会のなかで生きるとき、個の精神は常に抑圧されているのだ。
 
 結局我々は社会から抜け出すことはできない。社会から逃げ出すと物が食えずに死んでしまう。社会ナシでは生きていけない身体なのだ。だから、せめて精神だけでも社会から逃してあげよう。精神を歯車のなかに突っ込んで放っておいたらやがて摩滅する。魔法の言葉を叫んで、一時的にでも精神を逃がしてあげよう。そして、互いの奇行にやさしくなろう。我々は社会のなかで戦う仲間なのだ。少々の奇行は互いに許していこうではないか。もちろん暴走族のように明らかに他人に迷惑をかけてはいけない。ただ、おっさんがシャツの下にブラジャーをつけてるとか、自分の車のなかで変顔して奇声をあげてるとか、そういう小さな奇行に寛容になろう。彼らは心を社会から解放してあげているのだ。自分の精神にも他人の精神にも優しくなろう。その点でもやっぱりあの言葉は素晴らしい。おちんちんがすきだ。

雑記 ダメ人間フィルター

 人間、良いか悪いかの二元論が好きである。善悪、プラスマイナスの分かりやすいラベルを貼ってしまえば、理解しやすい。無駄に悩まなくてもよいからだ。

 政治家、政党とかよく二元論で片付けられやすい。ある人は安倍総理を地獄の魔物のように扱い、ある人は民進党を諸悪の根源として扱う。実際どうなのかはここでは問題ではない。

 放射線放射能?)も、別にそれ自体は悪でもなんでもない。ご存知のように放射線治療という、人間に対してプラスの側面が存在する。それなのに、放射線を絶対悪として拒絶する人が散見される。理性的な判断とは言えない。

 同じことが人間関係にも言えると思う。どうしても、ある人物をプラスかマイナスの評価で捉えがちだ。この人は、あの欠点があるけれどこの点では素晴らしい。こういう人物評価をするのは意外と難しい。ある人に対するプラスマイナスのイメージが先だってしまい、その人の長所、もしくは短所に気づけない。自分が人間の屑だと思っている人に対しても、別の人が長所を褒めたりする。もちろん、逆も然りだ。自分が非のない完璧な人物だと捉えていたある人も、他人からすると重大な欠点が見えているものだ。他人をいい人かわるい人かで大まかに評価してしまうのは考えなくてよいので楽だ。しかし、その捉え方は実際が見えている訳ではない。だから、その人物評価は間違っているし、それで自分が損をすることもあるかもしれない。

 さらに突き詰めれば、自己評価に関しても同様の話ができる。自分はダメな人間だ、という自虐的評価。自分は間違っていない人間だ、という尊大な評価。これらに捕えられてしまうと、伸ばすべき長所や改めるべき欠点が見えない。ダメ人間というフィルターに全てを遮断されると、自尊感情の低下や必要ない精神の負担に襲われる。出来る人間だというフィルターに全てを遮断されると、途轍もないミスを犯したり誰かを傷つけてしまう。自分をよいところのない人間だと切って捨ててしまえば、本当の欠点を見ずに済むので楽だ。さらにある種の愉悦を得ることができる。自分の欠点を全て無視する姿勢も当然楽だし、簡単な自己肯定感がついてくる(ただ無条件の自己肯定感は別に悪いものではない)。自分自身を振り返るときに、先入観は必要ない。むしろ害悪だ。

 我々は理性的な判断をするため、自分の得のため、二元論に頼らずに物事を評価するべきなのではないか。とくにメンヘラ諸兄は自己評価に関してフィルターをかけるのをやめるべきだ(そう何より僕が……)。物事を、人物をしっかり見つめて、そののちに評価する姿勢は労力が必要だ。しかし、そこから生じる理性的な判断は、最後に手に取れる形のメリットを生み出すのだ。まずは僕も自分の判断の仕方について、先入観なしで、長所と短所をしっかり見つめることにしよう。