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ワタベラ雑記帳

メンヘラ雑記。生きづらさ考察、創作、本、映画、音楽。

Watabera Miscellaneous Notes

さよなら、鈍い感受性

「ごめんなさい」じゃなくて「ありがとう」が言える人間になりたい

 

 「ありがとう」は、「ごめんなさい」を言うより難しい。僕はしばしば「ごめんなさい」に逃げてしまう。

 

 社会(学校等含む)で生きていると、どうしても他人の力を借りることになる。なにかを手伝ってもらうのはもちろん、自分の話を聞いてもらうなども、他人の力を借りる行為に含まれる。

 

 そういう時、力を借りた側である僕は、どうしても「ありがとう」より「ごめんなさい」や「すみません」を言いたくなってしまう。なぜなら、謝罪の言葉は、相手から「大丈夫ですよ」や「別にいいですよ」などの許しを引き出すことができるからだ。相手からの許しは「迷惑をかけてしまった」や「自分の行為は不快に思われたかもしれない」という罪悪感をやわらげてくれる。よって、僕は「ありがとう」より「ごめんなさい」を使いがちだ。

 

 しかし、「ごめんなさい」は、相手になかば許しを強要しているとも言える。「ごめんなさい」を聞いた相手に、許すという行為を無理やりにでも通過させることになる。負担を強いているのだ。

 

 謝罪じゃなくてもいい場面で、感謝でなく謝罪を選ぶのは、自分の罪悪感をやわらげたいエゴが含まれている。そして、謝罪の言葉は相手に許しを強要する。感謝は罪悪感の解消は得られないが、相手に負担をかけない。

 

 罪悪感解消のための「ごめんなさい」に逃げずに、感謝の「ありがとう」を使っていきたいと思う。

 

 まぁ。「他人の力を借りたあと」という文脈での「ありがとう」は多少なりとも謝罪の要素をもつので、「ごめんなさい」も「ありがとう」も変わらないという説もある。

 

 超眠いしんどい。

72時間限定、50オーブでやる気メーター増量!!

 

 最近、ブログをあんまり更新していない。読書や映画鑑賞もあまりできていない。

 

 理由は最近部活の個人練の内容を増やしたからだ。

 

 しかし、だからといって時間がないわけではない。個人練を終えても、本をめくる時間や映画1本見る時間や体力は十分に残っている。

 

 なにが、ないのか。気力がないのだ。

 

 部活の個人練を終えたら、自分のなかのやる気メーターを使い切ってしまう。そうなると、いくら時間が余って暇でもなにもする気が起きない。

 

 もの凄く暇で退屈だけど、なにもしたくない。なにもしたくないのに、その退屈が耐えられない。そんな状況に最近しばしばおちいる。

 

 僕のなかのやる気メーターの満タン値が決まっていて(しかも通常時はわりと低い)、それを消費しきると、能動的な行動がなにもできなくなる。本はページをめくれないし、映画は見始めることができない。だから、どんなに暇で退屈だとしても、能動的なムーブのためのガソリンがなく、退屈に身を置き続けるはめになる。

 

 そこで、この状況を打破するために、やる気メーターが0になってから映画をみてみようと思った。個人練を終えて気力は尽きていたが、渾身の力を振り絞り、なんとか映画の再生ボタンを押すことに成功した。そうすると、観終わったときの疲労感がすさまじかった。気を遣う飲み会で朝まで起きていたような体の感触だった。気力がないのに無理してはいけない。もしくは、観たのが『悪魔のいけにえ』だったのが、疲労の要因だったのかもしれない。

 

 とかく、人間には体力だけてなく、気力というものが明確に存在するとわかった。やる気メーターの上限をあげるアイテムがほしい。課金するから。

 

側頭葉「行き止まりの世界です」

 

 最近、睡眠のコントロールができない。

 

 実習が早めに終わる日もある。そんな日は有意義な一日にしようと、足取りも軽く、コンビニにもよらず自室に帰る。

 

 リュックを投げ出して、本棚から前から積んでいる一冊を取り出す、ねじの回転。もしくは、弾けないギターをチューニングしはじめる。

 

 僕の部屋にはカーペットがない。だから、ベッドに腰かけて、種々の物事を済ます。

 

 布団にのって、ページをめくる。もしくは、ギターの基礎練習に取り掛かる。30分もしないまに、頭の左隅がぼんやりしてきたことに気づく。覚醒時は、たどたどしくも球形の脳のすべての範囲にアクセスできる。しかし、眠気が訪れると、まず頭の左隅がアクセス不能になる。(おそらくは本当に)電気が通じなくなって、脳のその部分から返事がなくなる。

 

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(ちょうどこんな感じ)

 

 物語が進むたびに、あるいはピッキングするたびに脳のなかのアクセス不可領域が増える。行き止まりが進行すると、頭の中全体がのぼんやりしてくる。こうなってくるともう座るのすら面倒になって、ベッドに横になりながらページをめくる。あるいは、する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然、電源がはいる。身体をベッドから起こす。首から下はまだ眠気を引きずっているが、頭だけが妙に冴えている。スマホを開く。Twitterで最後にみたツイートの時間表示が2時間前である。また寝過ごしてしまった。時計はもう18時になっていて、予約していた整体の時間は過ぎていた。

 

 整体の先生に電話する。スマホの向こう側の先生は怒ることもなく(客商売だからね)、新しい予約を入れてくれた。ベッドに座ったまま、一呼吸つく。また時間を無駄にしてしまった。さらに人との予定をないがしろにした。明日もまたすぐ実習だから空き時間はとても貴重なのに。もうすぐ本腰を入れて国試の勉強をしないといけないから自由時間は無駄にしたくなかったのに。そういってしばらく、だれでもある自己嫌悪に沈む。

 

 そうやって生まれた、「1日の遅れ」を取り戻すべく、夜更かししてまた次の日に睡魔に負ける。

 

 こうみると原因は明白なのかもしれない。一度はぜんぶ忘れて10時頃から寝ようかと思う(きっと4時が覚める)。

 

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【書評】非道に生きる/園子温

 

 

 

 園子温さんの『非道に生きる』を読んだ。

 

 園子温さんは僕が好きな映画監督で、『ヒミズ』『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』などの作品を世に出されている。

 

 園さんの映画は、従来の日本映画とは違った手法で撮られることが多く(『地獄でなぜ悪い』『TOKYO TRIBE』)、最初は戸惑ってしまう。けれど、その思い切った演出のなかに、人間の「むきだしの部分」が切実に描き出されている。それが、僕が園さんの作品を好きな点だ。

 

 この『非道に生きる』は、園さんの自叙伝的エッセイである。園さんの幼少時の奔放ぶりから語られ、いかにして監督に道になったかが示されている。最近(2012年当時)の映画の内容について、園さん本人の言葉で解説に近いものも為されている。園子温ファンなら必読の一冊だ。

 

 『非道に生きる』では、いかにして園さんが今のような映画監督になったか、どのような思いで作品を作っているのかが、園さんありのままの言葉で書かれている。それはちょうど園子温映画と同じメッセージの伝え方なので、ファンなら楽しく読めるはずだ。

 

 詳しくは書かないが、園さんのことを詳しく知らなかった僕は、その苛烈な経歴に驚いた。また、園さんの人生に貫かれている『非道に生きる』ポリシーに、僕は胸をうった。同じ生き方はできないけれど、『非道に生きる』気持ちを持とうと思った。

 

 というわけで、園子温の『非道に生きる』は、ファンなら確実にワクワクしながら読める本である。さらに園さんのメッセージだけとしても多いに読む価値があった。

 

 当然、園さんの映画を観ていればこの本は何倍にも楽しめる。ぜひ、『ヒミズ』『希望の国』『恋の罪』(『紀子の食卓』『冷たい熱帯魚』)あたりを観て、読んで欲しい。

 

 ていうか、みんなTSUTAYA行って、『ヒミズ』借りて、観よう!!ラストが最高なんだ!!!!

 

サークラWiFiをほろぼせ

 

 部屋のまえでスマホをみた。電波が4Gだった。WiFiじゃなかった。いつもならスマホが勝手に嗅ぎつけて、家の前くらいから自室のWiFiに繋いでくれる。

 

 設定をみた。案の定、自分の手でWiFi接続がオフにしてあった。

 

 やつのせいである。サークラWiFiである。

 

 説明しよう!!サークラWiFiとは、モールとかで勝手に繋げてくるWiFiのことである。この種のWifiはだいたい電波が悪い。だからサークラWiFiにつながると、TwitterやLINEが全然更新しなくなる。WiFiの種類によっては、専用ページで会員登録しないと使えないものもある。勝手に接続してくるくせに、そのままだと全然ネットが使えなくなるのだ。まったく、ボディタッチだけ激しくて、結局やらせてくれないサークラサークルクラッシャー)そのものではないか。しかも、このサークルWiFi、苦労して手続きしても勝手に切れやがる。まさに、こっちが近づいたらすぐ逃げるサークラまんまである。

 

 さっきの外出でサークラWiFiに捕まってうっとおしかったので、自分でWiFiに繋がらないように設定していたのだ。だから、自室のWiFiに近づいても、4Gのままだったわけである。これに気づかずにスマホyoutube観て、通信制限でよく泣きをみる。これもどれも、サークラWiFiのせいである。

 

 ショッピングモールの運営者諸先生、勝手に繋がるWiFiを設定するのをやめてほしい。それともアレか、サークラWiFiを設定することで通信制限を引き起こし、携帯会社と癒着しているのか。とにかく、サークラWiFiをほろぼせ。サークラWiFiをほろぼせ。サークラWiFiをほろぼせ。ポアだ!ポアだ!ポアだ!ポア!ポアだ!ポアだ!ポアだ!ポア!ポアだ!ポアだ!ポアだ!ポア!ポアだ!ポアだ!ポアだ!ポア!ポアだ!ポアだ!ポアだ!ポア!ポアだ!ポアだ!ポアだ!ポア!ポアだ!ポアだ!ポアだ!ポア!ポアだ!ポアだ!ポアだ!ポア!(不老不死求め ナ〇ック星移動 宣戦布告 民に血担う……)

 


【MAD】「F」マキシマム ザ ホルモン × DRAGON BALL Z 【再アップ】

 

 

大人は立派だとモラトリアム人間に教えてくれ

 

 僕はモラトリアム人間だ。大人になりきれていない。もちろん年齢でいえば、とうに成人している。だが、僕の精神性や表出する言動は明らかに大人のそれでない。どちからというと小3に近い。自分勝手な行動で他人を困らせる。他人のことを自分と同じ人間だと理解していても実感しているか怪しい。

 

 僕は立派な大人になりたい。自分が未熟なモラトリアム人間だからだ。立派な大人に……と思っているのだが、しばしばその気持ちは削がれる。身近でも、世間でも大人たちの行動に、がっかりさせられるからだ。大人たちのエゴ丸出しの醜い言動が目につくたびに、大人になる気が削がれる。

 

 いい歳して毎日人前で部下をいびることが趣味の人(本当にいるんだなこれが)。この人の存在が大きかった。人間は歳をとるだけでは愚かさから脱却できなのだと証明してしまった。

 

 他にも、自分の理想を押しつけ、そこに元からそぐわない人たちは視界にすら入れない人。自分の思考が他人にとっても正義だと疑わない人。年や立場が上だからと言って、自分が人間存在として上だと勘違いした言動をとる体育会系の人。自分の利益のために過労自殺で若者を殺す人。disるだけでなにひとつ生産的なことが言えない政治家の人。

 

 大体この人らはエゴに捉われているくせに、自分がエゴに捉われていると気づいていない。自分を疑うことをしらない。最悪だ。正義をまき散らそうとする。他人に自分の正義を押しつけるのは、多分ハシカンとセックスするより気持ちいいんだろう(いやハシカンだったら怪しいか)。

 

 何年生きてきてそんな精神状態なんだ。今までの年月でなにも学んだんだ。権力にあぐらをぁいて、他人を乏して得た承認欲求で腹を満たしてきたのか。ガッカリさせないでくれ!!大人は立派だと証明してくれ。大人になりたいと思わせてくれ。大人がこれなんじゃ、小3のままのほうがまだマシだ。

 

 もしかして、

 

 世の中に大人なんていないのではないか。全員モラトリアム人間なのではないか。だったら彼らのエゴに捉われた言動にも説明がつく。

 

 どいつもこいつも肉体年齢だけとって、精神は大人と子どものはざまなのだ。だから、エゴに捉われた行動をしてしまうし、自分がエゴに捉われていることすら気づけないのだ。子どもに近いから。子どもはお腹減ったら泣く。モラトリアム年増は自己効力感が減ったら他人を貶す。そうやって自分を相対的に高い位置において自己肯定する。子どもも年増も大差ない。自分のことしか頭にない。

 

 地球にはモラトリアム人間しかいない。みんな大人になれないまま死んでいくのだ。

行為が善なら、動機がどうであれ、自分を責めたてる必要はない


  最近、自分の行動の動機が、善だか偽善だかわからないことが多い。

 

  大学の部活で色々後輩に教えることが多い。自分で言うのは恥ずかしいが、僕はそれを積極的にやっている方だと思う。後輩が上手くなってくれればいいと考えてやっている。

 

  しかし、本当にそうなのだろうかと思うときがある。初心者だった後輩を上手にさせて一緒に結果を出したという実績を手に入れたいだけではないか。そんな疑いが生まれるのである。

 

  僕の自己評価はアテにならないが、よく考えると、僕が部活の後輩を色々と教えているのはその後輩本人のことを思っているのではなくて、後輩を上手にした自分になりたいだけではないか、という気がしてきた。

 

  となると、僕の行為は偽善である。やらない善よりやる偽善、なのかは置いといて、心理的にはあまり美しくない状態である。自分のなかでは後輩のためだと思っているのなら、なおさら醜い。

 

  自分の行動の動機が、善なのか偽善なのかわからなくなっている。偽善ならば、それは褒められたことでないのでは、改めるべきなのではないか、と思って混乱している。

 

  ところで、本来、物の感じ方は個人の自由であるはずだ。というよりコントロールできない。なにかに対して嫌悪感を覚えてそれを所構わず主張するのは間違っている。だが、嫌悪感を覚えること自体は制御できないし、禁止されてよいことではない。

 

  それを踏まえると、自分の行動が固定されている状態だと、その行動に至るための動機は自由であってもいいのではないだろうか。この場合、後輩になにかを教える行為を続けるならば、その行為の動機自体はなんでもよい、ということだ。

 

  もちろん、その行為が誰かに対しての押しつけであったり、自分が善を成していると主張するのであれば、話は別だ。そうでなければ、自分の行為が善だと誰かに言わなければ、行為の動機自体は別になんでもよいのだ。なぜなら、動機は自分のなかから湧き出てくるとので、コントロール不可能であるからだ。

 

  なので、相手に対して押しつけにならない程度に、深く考えずに部活をやっていこうと思う。

 

  ただ、どこまでが押しつけにならないのか、向こうが押しつけに思ってなくても自分の行為が相手の成長を妨げてないか(僕の母が僕に過干渉だったように)など、問題は尽きないのだが……

 

  ワタベラマナでした、ありがとうございました。