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綿箆雑記帳

メンヘラ雑記。生きづらさ考察、創作、本、映画、音楽。

Watabera Miscellaneous Notes

さよなら、鈍い感受性

【医学生】病院実習で洗脳されかけた話【ポリクリ】

 こんにちは、わたべらマナです。

 

 今日は、僕が病院実習で学んだことを書きたいと思う。

 

 それは、人を洗脳する方法である。

 

 誤解していただきたくないが、病院の先生はそんなことを言葉で伝えるような非倫理的なことはしない。

 

 ただ、"実践"して教えてくれただけである。

 

 

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病院実習での出来事

 

 僕が病院実習である科を回っているとき、毎日指導医の先生に怒られていた。

 

 もちろん、もとは僕の不勉強が原因である。しかし、指示されたことに応じるたびに、自分には想定してなかった部分で叱られた。

 

 また、自分の意見を言うたびに叱られていたので、返事以外で自分の意見を言うのはやめていた。そうしたら、今度はそれが理由で怒られた。

 

 また、朝は早く夜は遅く、また課題も多く出されたために、実習期間中はずっと睡眠不足で思考力もなく、ただ叱られることに怯える日々が続いていた。

 

 しかし、疲れきった実習の期間の最後の日に、突然指導医の先生に褒められた。今までの不機嫌はなんだったのかというくらいに褒められた。

 

 そのとき、僕のなかに不思議な気持ちが湧き上がってきた。

 

「この期間辛かったけど、頑張ってよかった」

 

 それまでは、その先生に対して怯えしかなかった。しかし褒められると、先生がずっと自分のことを考えていてくれたのだと思えてきた。

 

 こころが満たされ、謎の全能感が僕を包んでいた。

 

 この人について行きたいと思っていた。先生に、入局(その大学病院の診療科の医者になること)を勧められて、真剣に考えはじめた。

 

 ところが、実習が終わって数日後に、ネットで新入社員研修の記事を読んだ。

 

 その記事では、『数週間の研修で、毎日人格否定を繰り返し、疲労で思考力を奪う。そして、研修の最後で全肯定することで、洗脳が完了する』と書いてあった。

 

 完全にコレじゃん!!

 

 例の科の例の先生の指導の仕方と完全に一致していた。僕は危うくプチ洗脳されかけていたのだ。

 

 というわけで、僕は病院実習を通して、人を従順にさせ、価値感を押しつけ洗脳する手法を実践で学んだのだった。

 

 洗脳の方法を、僕なりに具体例を入れつつまとめてみたので、是非参考にしてみてほしい(?)。

 

カンタン!洗脳のための5ステップ!

①相手の欠点を指摘する

 単に相手のミスや不出来な点があればそれを指摘すればよい。

 

 相手にあからさまな欠点がない場合も、回答によらず叱責できるような質問を投げかければ、失敗を生み出すことができる。

 

 たとえば、最初から「君は相手の気持ちに寄り添うつもりがない」という叱責するつもりで、「いつも患者(客)に接しているように私に話しかけてみなさい」という質問を投げかける。

 

 相手がどのような反応しても、こじつけの理由をつけて、叱責すればよい。なので、相手の回答によらず欠点を指摘、欠点を生み出すことができる。

 

 他にも、曖昧な指示を出すことで、言語化してない部分への相手の対応が不十分だと叱責する方法もある。

 

 たとえば、「Aという事項について調べてこい」と指示して、相手が調べてきたときに、「どうしてBを利用して調べてないんだ。やる気ないのか」と、指示で言語化していない部分で叱責することで、相手の失敗を誘導できる。

 

②欠点を切り口にして相手を否定する

 いかに今の相手が不十分であるか、"正論"を用いて否定する。①で指摘した欠点がもっともらしいほどよい。

 

 最初は、相手の失敗を切り口にして、徐々に相手の人格への否定にすり替えていくとよい。

 

 また、なんらかの事件に対し、相手に責任があると押しつけるのもよい。

 

たとえば、
「このようなミスは、君に誠実性がないから起こるのだ。誠実性のない人間は将来必ず失敗する」
「この事態は全部君の責任だ、分かっているのか」
「全然ダメじゃないか、どうして君はそんな人間なんだ。君みたいなやつはなにをやらせても失敗する」など。
これらは今適当に考えたが、なるべく相手の人格にダメージを与えられればなんでもいい。

③自分に従うように促す

 相手には自分に従う以外に選択肢がないことを強調し、指示に忠実に従うことを要求する。

 

 またこのときに、自分の「正論」を披露し、それが如何に間違っていないかを、論理的(に見えるよう)に相手に説き伏せるとよい。

 

「君はこんな状態だから、私がなんとかしてあげよう。私の指示に従いなさい、それ以外に道はない」

 

「私は〜〜だから、君のような失敗はしない。君も私のように振る舞いなさい」(②相手の否定との合わせ技)

④手順①〜③を繰り返す。

 人格を否定(②)し、相手の精神に穴をあける。逃げ道をなくしたうえで、その穴を自分の価値観で満たす(③)。

 

 これをなんども繰り返すことで、相手に元々あった価値観を壊し、自分の価値観で塗り固めることができる。

 

 その間は睡魔時間を与えないことで、思考力を奪うとよい。思考力がないと、①〜③の過程に論理的な矛盾があってもその存在に気づきにくい。

 

 また、①のときに、「一度言ったよな?(前に言ってなくても可)」という叱責をすると効果的である。

⑤最後の最後で全肯定する

 仕上げである。①〜③を十分に繰り返して、相手のなかで元々の価値感が薄れているのを確認してから行う。

 

 相手が自分の指示に従ったとき、もしくはそのあとになんらかの成果をあげたときに、無条件に全肯定し褒め称える。

 

 相手は度重なる人格否定で承認に飢えている。そこにたっぷりと、過剰なくらいに自分からの承認を注いでやるのだ。

 

 まずは抽象的な肯定から始め、自分の言葉の説得力を高めるために徐々に具体的な褒め言葉に変えるとよい。

 

「本当によくやった、よく耐えて頑張った。もうなにも言うことはない。君の〜〜な部分や〜〜なところは本当に評価されるべきだと思う」

 

 ここぞとばかりに今まで言いもしなかった、褒め言葉を並べ立てる。自分で作った相手の心の穴を、自分の言葉で埋めてやれば、相手を支配できる。

 

 これによって、相手のもともと価値判断は完全にぶっ壊され、自分に従順になる。洗脳の完成である。

 

洗脳5ステップまとめ

様々なやり方で相手の失敗を誘導し(①)、


その失敗を元に相手の人格を否定する(②)。


そして、唯一の救済者である自分に従う他ないと説き伏せる(③)。


これらをなんども繰り返し、相手の精神に重大なダメージを与えたところで(④)、


突然全肯定することで、自分の価値感で相手を支配する(⑤)。


これが、相手を自分に従順にさせ、自分の価値感を押しつけて洗脳する方法である。

 

最後に

 この方法でみんなも、コントロールしたい奴を自分の意のままにしよう!

 

 ……ではなくて、こういうやり方で接してくる人がいたら、その人はあなたのことを考えているのではなくて、自分のエゴを押しつけようとしているだけなので、注意しよう!ということである。

 

 この方法をやっている人は意識的にしろ、無意識にしろ、現代社会に多く存在する。あなたの周りの人も良く考えてみればこのタイプかもしれない。

 

 また、小説/映画『クリーピー』や、漫画『ウシジマくん(洗脳くん編)』にもこの手法を使う登場人物がいる。また、これらの作品に影響を及ぼしたであろう『尼崎事件』の主犯の女も、この手法を用いたのではないか。

 

 自分のエゴのために、他人の価値判断を壊そうとする人間には注意しよう。プチ洗脳の恐怖は意外とあなたの側で機会を窺っている。

 

 

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【社会人】飲み会のお作法やマナーは本当に必要なのか【上司】

 

 こんばんは、綿箆マナです。


 今回は、飲み会のお作法について、僕の考えを書こうと思う。

 

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飲み会のお作法は必要?不必要? 

 

 前も書いたが、医学生も高学年になると、実習や就活の関係で、現役のお医者さんと知り合う機会が増える。そうすると、仲良くさせていただいた先生に、飲み会へ連れていってもらったりする。

 

 そういう飲み会に参加するとなると、学生の身であっても(だからこそ)お作法を身につけておく必要がある。もちろんお作法以前に、マナーや常識として目上の人には敬語を使うとか、失礼な振る舞いをしないとかは大前提だが。

 

 いわゆる飲み会のお作法とは、

・目上の人には奥の席(上座)に座ってもらう

・目上の人のグラスが空いたらお酒が必要か確認する

・瓶ビールを注ぐ際はラベルの上にして両手で注ぐ

・目上の人と乾杯するときは自分のグラスを少し下げてグラスを当てる

などがあげられる。

 

 こうしたお作法は、社会人の飲み会では必須とされているしかしその一方で、全く意味がない、価値のない価値観の押しつけ、無駄なガラパゴス文化などの批判もある。飲み会のお作法などなくしてしまえばよいという意見もみられる。

 

 たしかに、ビールを注ぐときにラベルを上にしたからといって味が変わるわけでもない。そういう意味では無駄である。

 

 果たして、飲み会のお作法というものは、無駄で意味がない、排除してしまってもいいものなのだろうか。

 

 僕は、そうではないと思う。詳しく言うと、飲み会という社交的な場を運営するにあたって、お作法は便利な道具として使用できるため、無駄ではなく排除する必要もないと思っている。以下に詳しく述べる。

 

 

お作法は実用性より敬意の表現である

 

 現代において、飲み会のお作法の多くは、実用性よりコミュニケーションとしての意味の方が大きい。ビールのラベルの例のように、実用性の観点で見ればお作法にはほぼ意味をなしていないものもあり、不要だといって構わない。しかし、飲み会での上下関係を円滑にするための道具としては、非常に便利なのだ。

 

 たとえば、上座として目上の人に奥に座ってもらうのは、入り口から危険な人が入ってきたとき、目上の人がすぐに襲われないようにするためという、昔のしきたりである。実用性の観点でみれば殆ど意味をなさない。むしろトイレに行きやすい入り口のほうが便利なのではないか。

 

 しかし、上座のしきたりを後輩が行うことによって、先輩へ「私はあなたを目上として尊重しています」という意思表示になる。ここにこそ、上座のしきたりの本当の意味がある。上座が、実用性よりも、コミュニケーションの1つとして利用されているのがわかるだろう。

 

 つまり、こういった飲み会のお作法は、目上に敬意を示すための、パターン化されたコミュニケーションなのである。あなたのこと尊敬しています」とわざわざ言葉にしない代わり、簡単な行動でそれを伝えているのだ。


 お作法は実用性を元にしてはいるが、その実、相手に敬意を簡単に示すための便利な道具としてのほうが本質に近い。お作法は相手に悪い印象を与えることは決してなく、かつ簡単に相手の好意を引き出せる。そういう道具だと思えば、無理矢理捨てるほどのものでもないと思う。

 

 また、少し話は逸れるが、レストランのドレスコードやテーブルマナーも「自分はこの場に相応しい人間だ」と主張するための簡易的な手段である。

 

 まとめると、飲み会でのお作法は、上下関係を円滑にするためのコミュニケーションアイテムであり、無駄で意味のないものや、排除して構わないものではないのだ。

 

目上と目下のすれ違いを解決するには

 

 しかし、実は、お作法が無駄だ不必要だという主張は、実用性がなく無駄という点に端を発しているのではない。

 

 現在の社会において、目下がお作法を守ることは当たり前である。後輩は先輩に敬意を払うために実用性のない行為を強制されるのが普通、という状況なのである。

 

 現代のこのような状況への目下の立場の人間からの反発が、お作法無意味論争の原点になっているのである。結果、目上と目下のすれ違いが発生している。

 

 この問題を解決するには、目上の立場の人の意識に変化が必要だと思う。

 

 目上の立場の人に敬意を払うのは社会人として当たり前である。しかし、目下の人間は自分へ敬意を払うために、ひと手間をかけてくれているのである。そこへの感謝を目上の人は忘れてはいけないと思う(偉そうにすんません)。

 

 自分より立場上では下でも、相手は自分と同じ人間なのだ。当然、存在を尊重しなければならない。だから、自分への敬意を示すための手間をかけさせることを当たり前だとは思っていけない。

 

 具体的には、目上の人は、お作法ができていない後輩を叱ってはいけないと思う。お作法ができていないからといって、必ず相手のことを尊敬してないわけではないのだ。ただその表現の仕方を知らないだけかもしれないのだ。

 

 そういうとき目の上の人は、「お作法は便利なものだから覚えておいて損はないし、社会で必要だから今後はお作法を守った方が都合がいい」と伝えるのがよいのではないだろうか。

 

 また、お作法に沿って敬意を示してくれた後輩には、それを当たり前として扱うのではなく、その手間に感謝し、相手に尊重の意を示すことが必要だろう。

 

 たとえば(?)、僕が現役の医者の先生と飲み会に行って、(ほとんど気が利かないけど)たまに気が利いた振る舞いができたときには、先生方は学生の僕に対しても丁重にありがとうを言ってくださる。そう言ってもらえれば、とてもうれしい。

 

 互いの尊重は感謝は、決して人間関係を悪くはしない。

 

 以上より、僕はお作法に関する目上目下のすれ違いを解消するためには

・目上目下ともに、お作法はコミュニケーションのための手段という認識をもつ

・目下は、目上には敬意を払うという前提のもとで、お作法を便利な道具だと捉えて利用する

・目上は、目下が自分への敬意のために手間をかけていることを当たり前と思ってはいけない

・目上は、お作法に守る目下に対して、その敬意と手間に感謝の態度が必要である

以上の項目が必要だと思っている。

 

 

まとめ

 

飲み会のお作法はコミュニケーションのための便利な道具で決して無駄ではないが

 

目上がお作法を当たり前のものとして目下に押しつけるとすれ違いが生じてしまうので、

 

互いに歩み寄り尊重しあうことが大切なのである。

 

とは言ったけど

 飲み会お作法ではないが、個人的に、判子を上司に向けてお辞儀をするように斜めに押す、というお作法には生理的な嫌悪感を覚えてしまう……(というそんな作法本当に存在するのか。誰かが最近作ったんじゃなくて?)。

 

 あと、就活のESは必ず手書きという、敬意に対して手間や労力が釣り合っていないお作法もおかしいと思う。目上から目下への同じ人間としての尊重が存在していない作法の好例だ。

 

 就活をしたことないが、就活のお作法は、敬意と労力が釣り合っていないものが多い気がする。採用する側とされる側という立場があるから仕方ないのだろうか。それか全部リクルート系企業のマッチポンプなのだろうか????

 

ともかく

 まぁ飲み会のお作法に関してはそんな悪いもんじゃないってことでよろしく頼む。

 

 

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【毒親】ゲーム禁止が引きこもりゲーマーを生み出すメカニズム【束縛】

 

 親の過度な制限は、必ずこどもの将来に悪影響を及ぼす

 

 僕は親ではないし、この先親になる予定も特にない。しかし、これだけは日本の育児界に提言しておきたい。

 

 親の過度な制限は、必ずこどもの将来に悪影響を及ぼす。どういうことか。

 

 たとえば、親がこどもに「有害なもの」に徹底的な制限を強いたとする。ゲーム完全禁止、アニメはドラえもんサザエさんのみ、漫画完全禁止、ジャンクフード禁止、友達付き合いの制限、異性関係の制限などなど。

 

 これらのように、周囲のこどもたちにはある程度許可されているものを、自分のこどもだけに"我が子のよい発育"のためとして制限したとする。

 

 そうすると、こどもは周囲との差を感じ、親の不条理な制限に反発する。いくらその正当性を説明されても、親からの不条理に対しての反発は収まらない。なぜなら、まわりのこどもたちは制限されていないからだ。他の子がよくて、自分だけダメなのはどう考えてもおかしい。ここでしばしば、伝家の宝刀「よそはよそ、うちはうち」が発動されるが、こどもはまったく納得できない。抑圧されたまま少年〜青年期を過ごす。

 

 もちろん、犯罪やそれに近いものに我が子が関わろうとしていたら制限するのは、親として当然である。しかし、犯罪に繋がらなければ、こどもが暮らしている環境の中で標準的な許可から少し厳しいぐらいの許可は与えてもよいのではないだろうか。理由はまたあとで書く。

 

 そうした青年が、大学や就職で実家を離れ、親の制限から解放される。となると、どうなるか。

 

 親の束縛がなくなった結果、「有害」だけど魅力的なものにのめり込んでしまう。今まで親から受けていた制限は、彼にとっては正当性のない理不尽なものでしかなかった。なぜなら、先に書いたように、彼の周りの友人たちはその制限を受けていなかったからだ。だから、その不当な束縛の分を取り戻そうとのめり込んでしまう。

 

 もし「有害」なコンテンツにのめり込んでも、彼に自制心があればよい。しかし、成人の財力をもって、親の監視もなしにコンテンツにハマったら、生活に影響がでるくらい深入りしてしまうかもしれない。

 

 他のこどもたちは、親の監視下でかつ、こどもの財力の範囲で、それらのコンテンツを楽しんでいた。だから、彼らの多くは、「有害」コンテンツとのいい距離の取り方をこども時代に学んでいる。

 

 多くの厳しい教育ママの下す「有害」の判断は、魅力的だがそれゆえにのめり込みすぎて害をでかねないコンテンツにくだされる。つまり、そういうコンテンツは、メリットとデメリットのバランスを考えながら使用すれば、QOLを上昇させるのに、大いに役に立つのである。

 

 しかし、こどもの頃にそれらに触れることなく過ごしてきた彼には、メリットとデメリットのバランスが取れない。どこまでならやってよくて、どこまではやっちゃいけないのかわからない。程度が感覚として備わっていないのだ。結果、後先省みずにコンテンツにのめり込んでしまう。

 

 こどもの頃は親が制限していたものに、一人暮らしになってからどハマりしてしまい、生活に悪影響がでるくらい深入りしてしまう。これはそう少ない事態ではないだろう。

 

 ネットでも、『こどもの頃は一切ゲームさせてもらえなかったけど、今は毎日ゲームしている。ちな30台無職』、『こどもの頃は親が厳しくてお菓子を殆ど食べられなかったけど、大学に入ってからお菓子にドハマりしてしまい、とてつもなくデブったなどの典型例をよく見かける。

 

 僕の周りでもいくつかこのケースがあった。

 

 たとえば、僕の友人の1人は家が厳しく、裕福な割にお小遣いの額が周りより少なかった。周りの友人をまねて彼に変なものを買わさないためだった。中学時代に友達同士でご飯を食べるときも、彼だけはレシートを取り、それを親に渡して必要な分だけお金をもらっていた。先にお金を渡してもらえないので、余計なものを買う自由が彼にはなかった。そのため、彼は昼飯を我慢し、僕の昼飯のレシートを代わりに親に提出することで、お小遣いを稼ぐようになった。そんな彼は今、大学入学で晴れて一人暮らし、バイト代も仕送りも自由に使えるとなって、パチスロに大ハマりしている。

 

 また、中学時代の別の友人は、ジャンプを買うたびに母親がToLOVEるのページだけを切り離していた。彼は中学以来会っていないので、彼がToLOVEオタクになっているかは定かではないが、中学生にもなって少年誌のエロいマンガを親が毎週毎週切り取るなんてどう考えても正気の沙汰じゃない。

 

 例を出したところで、親の過度な制御がこどもの将来に悪影響を及ぼすことを、きちんと証明したい。

 

 こどもはいずれ親元を離れて、「有害」なコンテンツがそこら中に溢れている世界で生活しなければならない。

 

 先に書いたように、「有害」なコンテンツは、距離の取り方を間違えなければ、あまり害なく利用できる。大事なのはメリットとデメリットのバランスが取れるかどうかなのである。

 

 それなのに、「有害」なコンテンツから親の手によって切り離されてしまうと、距離間を学ぶ機会がなくなってしまう。距離感が分からないと、デメリットも顧みずに自分の生活を破壊するほどコンテンツにハマるかもしれない。つまり、「有害」をこどもから遠ざけることで、親は自らこどもが社会で生きる術を奪っているのである。

 

 こういうわけで、親の過度な制御はこどもの将来に悪影響を及ぼすのだ。

 

 本当に親がすべきなのは、部分的に「有害」なコンテンツをこどもに開放し、親の監視や介入の下で、こどもが適切な距離感を学ぶのを補助することである。
 

 問題点は、当の親本人には、自分の制限が過度であるという認識がないことである。親本人はこどものためを思って(と自分で思い込んで)、「有害」なコンテンツを制限しているのである。

 

 先入観やこどもに押しつけているエゴを一度捨ててこどもの保護と自立の2つの観点から、なにが本当にこどものためになって、なにがこどものためにならないか考えるべきではなかろうか。

 

  ちなみに僕は親が健康のためにビーフジャーキーを一切食べさせてくれなかったので、大学入って一時期ビーフジャーキー厨になってしまった(値段的に買い続けられなくてやめた)。

 

 

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【医者】口は災いのもと、指は炎上のもと【飲み会】

 

 しょうもないこと。

 

 医学生も高学年になると、医者の先生方にご飯を連れて行ってもらえたりする。実習後だとか、病院説明会の懇親会とか、おいしい料理やお酒をいただける。

 

 そうなると、色々なお話を先生方から伺うことになる。実際の勤務の内情とか、今まで大変だったこととか、遊びのやり方とか。人生経験の違い分、沢山のことを教えていただける。

 

 この前もそんな機会があった。飲み会にて、よい医者になるための研修医時代の過ごし方などを教えていただいた。そんなとき、ふとよく分からない考えが、僕の頭に浮かんだ。

 

 これ、怖くないか?

 

 どういうことか。なにが怖いのか。

 

 僕などの学生は、お話してくださる先生方にとってほぼ初対面の存在である(病院実習の飲み会除く)。先生方は、そんなよく素性の分からない学生に色々話してくださっているわけである。

 

 もし、素性の知れない学生であるところの僕が、仮に飲み会中の先生方の発言を無理やり切り取ってさらに曲解して、「~~会の人、~~~って言ってたんだけど、これどうなの?」とTwitter等に載せたらどうなるか。炎上させられる。程度によっては、一人の医師の立場が危うくなるところまでいくはずだ。

 

 なにを妄想を。と思うかもしれない。しかし、医学科高学年の方、よくよく考えてみていただきたい。Twitterに書き込むだけで一人の医師を炎上させかねないネタを持っていたりはしないだろうか?結構そういう医学生は多いはずである。常識や信頼関係として書かないだけで。

 

 病院説明会で素性の分からない学生に色々思ったことを話すのは、SNS時代の現在ではなかなか危険なことではないだろうか?

 

 医者になっても口には気をつけようと思った。

 

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お酒の入ったあなたをみるのがいやなの

飲み会。パーティ?

 

バッカみたい、訳もわからず飲んで、それがなんのためになるわけでもないのに。

 

しょうもない自尊心のままに飲み続ける。誰も強制してないのに。挙げ句の果てに他人に迷惑かけるなんてどうかしてるよ。

 

飲み会ってあくまでコミュニケーションの場所でしょ、君のエゴや欠落感を満たす場所じゃないんだよ。自分のまえに他人のことを考えなよ。  

 

なんで、なんで、なんでいっつもいつも自分のことしか考えられないの!!!自分のことしか考えられないやつなんて自分を幸せできるわけない!!

 

しんじゃえ!!

 


【受験生】医学部に入ったらモテる?【合コン】

 

 医学部に入ればモテる!!


 そんな甘い言葉に希望を抱いて、受験勉強に励む男子高校生もいると思う。


 今まではまったくモテず、彼女の1人もできなかったけど、医学部医学科に入って人生逆転だ!!的な。


 今日は、せっかくなので、そんな自分本位の欲望を抱いているキモオタ受験生諸君の希望を粉砕したい。


 まず、よく考えてほしいのだが、医学部には医学生が掃いて捨てるほどいる


 そして、総合大学だとしても一般教養が終われば、医学生は基本的に医学部のコミュニティのなかで生活することになる。男子医学生があまっている空間で、ずっと暮らすのだ。


 さらに、同時に入学する医学生は、君のように勉強だけが取り柄の人間ばかりではない。勉強以外のことにも一生懸命に取り組んだ経験をもち、様々な特技があったり、コミュ力も高かったりするのだ。


 医学生の名札が役に立たず、「スペック」の点から見て君より優れた人間が多い環境のなかで、君は果たして魅力的な人間になれるだろうか。


 もちろん、「スペック」なんてのは本質ではない。他人に対しての思いやりとか、そういう面こそ大事だろう。しかし、画面ばかりで他人に向き合ってこなかった人に、そんな芸当ができるはずもない。


 となると、医学生の名札が価値を持つかもしれない医学部の外側で戦うしかなくなる。医学部の外側の例としては大まかに、一般教養、バイト、合コンが挙げられると思う。


 一般教養やバイトで女の子に出会うとする。そうしたとき、恋愛が主眼に置かれていないコミュニティのなかで、自分から魅力的なアプローチができるだろう経験やスキルがあるだろうか。ないんじゃない。


 合コン。医学部に行ったら合コンでウハウハみたいなことを昔聞いた気がする。けれど、合コンは「合コンを開いてくれるような友達」がいないと参加できない。もしくは、自で開くとしても、それだけの人脈が必要である。医学科に入っても、アニメ観てドゥフドゥフ言ってるだけでは、合コンにすら参加できない。


・医学部には医学生は捨てるほどいるので、なんのステータスにもならない
医学生のなかに勉強しかしてこなかったやつは少ない
・医学部の外側でも、スキルがないとアプローチはできない
・友達がいないと合コンは参加できない


 以上より、「医学部に入ったらモテる」というのは、一定以上のコミュ力やスキルをもった人に限るといえる。


 というかそもそも、そんなしょうもないネームバリューを売りにしようとするのが間違っている。だから……


 勉強だけしとけば、あとからモテるみたいな考えは捨てて、高校生の間に他人を気遣える人間になっておこうな!! 

 

って昔の自分に言いたいわ……。

 

 

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文章力アップに必要な"抽象化”と”具体化”、そのトレーニング法

 

 このブログを書き始めてからしばらく(1年3ヶ月)になる。しかし、思ったような文章はまだまだ書けない。そこで自分の文を反省したところ、文を書くにあたり「抽象化」と「具体化」という能力が必要で、自分にはそれが足りていないことがわかった。

 

 今回は、「抽象化」と「具体化」とはなにか、なぜ文章に必要なのか、そしてその視点から文章力のトレーニング方法を(自分用に)書きたい。

 

 抽象化と具体化の話は様々な媒体に通じると思うので、別にブロガーとか物書きでなくてもぜひ色んな人に読んでほしい。というかアドバイスがほしい。

 

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抽象化と具体化

 

抽象化と主張文


 このブログやメンヘラ.jpに投稿する記事では、日々の出来事や過去の経験から共通する教訓や論理を取り出してそれを文章の形にして主張文を書いている。

 

 

 僕はこの過程を「抽象化」と呼んでいる。日々の出来事や過去の経験という「具体」から、共通するもの、具体性を切り落とした「抽象」を取り出すのである。

 

 抽象化の過程で具体性が削ぎ落とされることにより、教訓や論理がよくみえるようになり、非常に分かりやすくなる。逆にいえば、抽象化とは、具体的な事象から論理や本質を明らかにすることである。いわゆる帰納法的な側面がある。


 たとえば、この記事では、『ネタツイートを作るためにアホなことをする』や『飲み会中の写真をアップしよう、と始まる前から考える』や『かわいい動物の写真がバズったから、毎日写真を撮るになった』という具体例から、「我々は現実のフィードバックのためにSNSを使っていたはずなのに、SNSのために現実の我々の行動が左右されてしまっている」という抽象を取り出している。


 このように、具体例からその奥のロジックやテーマを取り出すのが、抽象化である。


 主張文では、抽象化が非常に重要だ。主張文においてもっとも重要なのは、作者の主張(論理)である。しかし、抽象化がうまくいかないと、作者自身が自分がなにを主張したいのか分からないまま、文章を書くことになってしまう。

 

 仮に、入念な抽象化なしに主張文を書こうとすると、漠然と関連ありそうな文が論理的な繋がりもなく並ぶだけで終わってしまう。主張とは、論理に基づいてこそ意味をもつ。抽象化によって論理を明らかにされていない主張は、非常に弱い。主張の弱い主張文は誰も納得させられない。

 

(ただし、抽象化の手段として書くことを利用するのはアリ)

 

 また抽象化は、生きづらさを抱える人にも有用な思考法である。

 

 生きづらさを抱える人、つまり雑に言って人生が上手くいかない人は、多かれ少なかれ失敗の経験があるはずだ。その失敗の経験から教訓を抽象化して、生きるための道具として覚えておく。そうすると、次に似たような事態になったときに、その教訓を用いて前よりもうまく振る舞えるだろう。


 たとえば、自分は楽しかった会話が、相手にはまったく楽しそうでなかったという経験が何回かあったとする。そういう具体的経験から、「自分ばかり話していると、自分は楽しくても、相手はつまらないかもしれない」という教訓を抽象化によって手に入れる。一度その教訓を手に入れたなら、次の会話からは「自分ばかりではなく、相手の話を聞く姿勢を取ろう」という風に考え方を変えられる。

 

 失敗でなく、成功体験から抽象化を行うのも、つぎの成功に繋げることができる。

 

 話が逸れた。まとめると、抽象化とは具体例から教訓、論理、テーマなどの抽象的なものを取り出す思考である。そして、主張文では抽象化が重要である。

 

具体化と創作

 

 僕に関して、抽象化は今までやってきたので、そこまで苦手ではない。しかし、抽象化の逆、つまりは「具体化」はてんで不得意である。

 具体化というのは、抽象から具体を生み出す、もしくは再現することである。

 たとえば、上の文章での、「失敗から抽象化によって教訓を得て、次に活かそう」という教訓(抽象)から、「会話で自分ばかり話して失敗した経験から、相手の話も聞く態度を持つべきという抽象化を行う」という例(具体)を生み出すことが、具体化である。


 このように、概念やテーマから、実際の例を出すことを具体化という。


 主張文にも、読者に理解してもらうために例が不可欠である。主張だけを訴えても読者はしっくりこない、読者に主張を我が身のものとして理解させるのに具体例が必要だ。なので、抽象化がメインである主張文にしても、具体化のスキルは必要なのである。


 しかし、本当に具体化が重要なのは、主張文よりも創作である。文章においては、小説、詩(歌詞)、俳句、短歌などが創作に挙げられる。


 まず、創作においても主張文と同じく、伝えたいことは抽象化されたテーマである。しかし、抽象をそのまま創作で表現しても、だれの心も揺らせない。

 たとえば、「君がいなくてさびしい」という抽象は、『家の犬まで一生愛されてると思ってたよ』『一段低いところに置き換えたシャワーがたまらなくこのうえなく愛しかったよ』と具体例で表現したほうが、心で実感として理解できる。(愛の標識/クリープハイプ より)


 たとえば、「夏が恋しい」というテーマは、「秋はご飯だって美味しいし、友達もと一日中遊んでいられる。僕は幸せなはずだ。なのにどうして、夏が終わってからこんなにもさみしいのだろう。きっと僕はもう馬鹿になってしまったのだ、自分の家への帰り道すら忘れてしまったよ」のように具体的にまで表現したほうが、心情が伝わる。(The Autumn Song/ELLEGARDEN より)


 たとえば、魔法学校が舞台の物語を描こうとする。となると、魔法学校の名前、立地、内部構造、科目、教師、生徒、そういったディティールまで描かないと、物語がチープになってしまう。

 

 創作では、具体が積み重なって抽象を生むのである。


 このように、具体化とは、抽象的な概念やテーマから細部を生み出すことである。具体化は、創作においては必要不可欠である。

 

抽象化具体化と文章力

 

 抽象化と具体化の出来不出来は、文章力に大きくかかわってくる。

 

 文章とは、「主張文」「創作」「それ以外」に大きく三分される。そのなかで、主張文には抽象化が必要不可欠であり、創作には具体化が必要不可欠である(その他エッセイなどは半々だろうか)。

 

 つまり、抽象化と具体化のトレーニングによって、文章力はアップできるのではないだろうか。

 

 抽象化能力の向上によっては、論理が通った文章、文章全体のよい構成、分かりやすい文章、他の人にはない視点の文章などが期待できる。

 

 具体化能力の向上によっては、描写力の向上、豊富な発想力、豊かな語彙力と教養、言葉選びのセンス、読ませる文章などが期待できる。

 

 

抽象化具体化トレーニング

 

 文章において肝要な抽象化と具体化、どうしたらこれらの能力を鍛えられるだろうか。僕自身の経験をもとに考えてみたい。

 

抽象化トレーニング法


 抽象化能力をあげるには、ひたすら抽象化を行えばよい。なぜなら、抽象化で自分に必要なものは思考力だけで、思考力を反復訓練のなかで鍛えればよいからだ。具体的な方法を以下に挙げる。

・小説、映画、漫画のあらすじを書く

→あらすじを書くことは、場面ごとの要約をすることである。この要約こそが抽象化である。あらすじを書いたら、作品のテーマや伝えたいことを、自分なりに分析するのもよい。これはさらにハイレベルな抽象化である。また、あらすじが面倒なら、感想を書くだけでも、自分の頭のなかのゴチャゴチャを抽象化する練習になる。

・自分の考えについて文章でまとめてみる

→自分の考えというのは、頭のなかではまとまっているつもりでも、いざ文章化してみると、自分でもなにが言いたいのかわからない、ということがザラにある。そこで、自分の主張とそれを立証する論理とを明確にすることが、抽象化の練習になる。

 

・論理的な文章を書くための本を読んで実践する

→『20歳の自分に受けさせたい文章講義』と『数学文章作法』、この2冊には論理的な文章を書くための方法が載っている。実際にその方法に則って文章を書くことで、論理的思考力をつける。

 

 抽象化自体は頭のなかで行えるが、その精度は文章にした方が格段に高いのでなるべく書きながら抽象化を行ったほうがよい。

 

具体化トレーニング法

 

・インプット(作品から)
具体を自分から放出するには、まず具体を自分のなかにいれる必要がある。小説、詩集、エッセイ、映画、音楽をなるべく沢山体験する。しかし、インプットの仕方が雑ではいけない。つまり、流し読みや流し観、流し聴きでは、具体化のトレーニングにならない。各々の作品の「具体」を自分に吸収する必要がある。小説なら、情景描写、言葉遣い、台詞回し、とにかく細部まで読む必要がある。映画なら、人物の表情、台詞回し、風景などに注目する。ストーリー展開のための演者や情景としてではなく、映画という芸術の主要なものとして演者や情景に注目する。


・アウトプット

→いくらインプットしても、出せなければ意味がない。アウトプットの練習も必要である。目の前の景色や物体を言葉で描写してみると、自分の語彙の少なさにびっくりする。また、実際に短い小説を書いてみるのもよい。発想力と語彙力の両方のアウトプットになる。

 

・書き写し

→小説などの好きなフレーズを書き写すのもよい。インプットとアウトプットの両方の練習になり、手間に見合うだけの価値がある。

 

・日々の過ごし方

→小説や映画などのフィクションでは、多くの具体を体験することができる。しかし、もっとも身近で印象に残る具体といえば、自分の日常である。日常生活のなかで、自分の思考にこもるのではなく、周りの人や風景に目をやることで、なにより新鮮な具体を手に入れることができる。また、自ら様々な体験に積極的になることも、人生経験だけでなく、具体化の能力向上に繋がる。

 

 具体化のトレーニングは、インプットとアウトプットを繰り返すことが肝要である。

 

まとめ

 

 抽象化とは、具体例から本質や論理を取り出すことであり

 

 具体化とは、抽象的な概念からテーマから実例や細部を生み出すことである。

 

 抽象化は主張文に重要で、具体化は創作に重要であり、2つの能力は文章力に寄与している。

 

 抽象化のトレーニング法は、ひたすら実際に抽象化を行うことで、

 

 具体化のトレーニング法は、インプットとアウトプットを繰り返すこと、日常生活で観察眼をもつことである。

 

 センスある文とか小説とかを書きたいので、具体化のトレーニングをしたいと思います……。

 

 

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