【オタク】果たしてTwitterは出会えるのか【出会い】
こんにちは、ワタベラマナです。
僕はいわゆるTwitterヘビーユーザーである。始めてから5.6年は経っているし、呟くこともないのにタイムラインを眺めているし、ごくたまにオフ会に参加したりする。
僕みたいなTwitterヘビーユーザーは、Twitter、とくに僕のアカウント(@homuty)のフォロワーにたくさんいると思う。ということは、そこまでさせる魅力がTwitterにはあるのだろう。
では突然だが、Twitterの魅力とはどのような点だろうか?
僕なりの考えになるが、Twitterの魅力(および便利な使い方)は、3つあると思う。
今回はその3つの魅力と、隠されたもう1つの危険な魅力(そして出会い関連)について書きたい。
Twitterの正常な魅力3つ
リア垢
1つは、現実の人間関係の範囲内で交流する(いわゆるリア垢)のに便利である点。
Twitterでは、現実の知り合いと実際に会わなくて交流できる。家にいても、出先でも知り合いの情報を得られる。昔の知り合いなど、距離の離れた人物とも交流できるわけだ。
また、LINEなどは特定の個人に向けて情報を発信するが、Twitterでは「知り合い」というぼんやりした概念に向かって自分の情報を発信する。特定の個人ではなく、「誰かしら」に向けて発信するため、他のユーザーはその情報を受け止めても流してもよい。その気軽さも、この使い方の魅力である。リプライを使えば、指向性のあるコミュニケーションも行える。
趣味の共有
次は、現実では関われない人たちと関われる点である。
現実の周囲にはいないけれど、関わってみたい人たち。Twitterではそれらの人と交流したり、彼らからの情報を受け取ることができる。Twitterに距離や現実のコミュニティ(学校など)は関係ないからだ。
たとえば、同じ趣味や環境を共有している人たちが周りにいなくても、Twitterなら関わることができる。アニメ好きならアニメ好きと、ミリオタならミリオタと。現実の知り合いとはできない話を彼らとすることができる。
僕は医大生なので、他の大学の医学科の人をフォローしている(あとメンヘラ界隈)。
他にも、自分の好きな表現者(アーティスト)の作品や情報を得ることができる。アマチュアの絵かきさんがTwitterで絵を発表していたら、その人をフォローしてその人の作品を楽しめる。アイドルや音楽アーティストの新曲やライブ情報も受け取ることができる。
僕でいえば、ラブライブの漫画を描いてるいなばさん(@kayotin_code10)などをフォローしているわけである。あとはツイートが魅力的な人なんかも。
インスタ女子め…インスタ映えする墓にいれてやろうか…
— 挽歌ちゃん (@banka_bunker) 2017年9月26日
表現の発信手段
最後の1つは、情報の発信手段として便利な点である。
漫画や絵、写真や音楽など、自分が表現、創作したものを他人に知ってもらう手段としてTwitterは有用である。リツイートによって多くの人に広がれば、一気に知名度が上がる。
たとえば、僕であれば、自分のブログを発信する手段の1つとしてTwitterを使っている。
親に禁止されたものは、反動で大学時代に無駄にハマる
— ワタベラマナ (@homuty) 2017年9月22日
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【毒親】ゲーム禁止が引きこもりゲーマーを生み出すメカニズム【束縛】 - 綿箆雑記帳https://t.co/49HYKx1iJ6
小まとめ
まとめるとTwitterの大きな魅力は以下の3つである。
①現実の人間関係の交流手段として便利
②趣味などを共有する人間との交流が可能
③表現や創作や意見を発表する手段として便利
しかし、実は、Twitterには禁じ手の4番目の魅力がある。
危険な4番目の魅力となぜ危険なのか
4番目の魅力は、現実の人間関係を補填することができる点だ。
現実での欠けた人間関係を満たすツールとして、Twitterは機能する。
具体的には、現実で周りと上手くいってない人が、Twitterで友人や恋人(orセックスさせてくれる人)を探したり、Twitter上の馴れ合いで承認欲求を満たすのである。
だが、経験則として、現実の人間関係をTwitterで補填しようとしてもろくなことにならない。だから、Twitterのこの使い方はしないほうがいい。
その理由を以下に書く。
現実の人間関係が上手くいかない人は、Twitterでも上手くいかない
まず前提として、Twitterで人間関係を補填するのにはどのようなメリットがあるだろうか。
・顔や身だしなみなど外見が考慮されない
・立ち振る舞いの不自然さが分からない(キョドりがバレない)
・現実の周囲にはいない趣味や意見が合致する人と出会える(かもしれない)
・ネット上の人間関係だから失敗しても現実にダメージがない
この辺だと思われる。これらの理由があるから、多くの人が、現実というステージから逃げてTwitterで他人と触れ合おうとするのである。
しかし、これらのメリットは、「現実で上手くいかない人」には、ほとんど関係ない。だから人間関係を築く場所としてTwitterを選ぶのは優れた選択肢ではない。
まず上2つのメリットについて、現実で上手くいかない人は、Twitterでも現実と同じように、他人の気持ちを考えない行動をしてしまい、Twitterでも人間関係の構成に失敗する。そこに外見や振る舞いが隠されていることは関係ない。
たとえば、女性ツイッタラーにキモいDMを送ったり、反応もないのにうっとおしいリプライを送りつけたりしてしまうのである。他には、絵かきの人にただでアイコンを描けと迫ったりするやつとかも好例であろう。
というわけで、たとえ外見や立ち振る舞いの欠点を隠せても、そもそもの人間性に問題があるので、現実の人間関係に問題がある人はTwitterでも結局他人と上手くやっていけない。むしろ、自分の欠点が隠れたせいで、無駄に他人に対して強気になっている節すら見られる。なので、外見や振る舞いを隠せるという上2つのメリットは大体意味がない。
また3つめのメリットについて、現実にはいない趣味があう人とTwitterで出会えても、それだけでは人間関係を構成はできない。人間性が必要なのだ。よって、根本的な解決にはならない。
唯一のまともなメリットは、4番目の「ネット上の人間関係だから失敗しても現実にダメージがない」ぐらいしかない。面を合わせた会話が苦手な人が、ネット上でまずは文字だけのコミュニケーションから始め、失敗しながら最終的にその経験を現実にフィードバックするにはいいかもしれない。
結局、Twitterで現実の人間関係を補填するメリットはあまりない。それゆえ、現実で上手くいかない人はTwitterでも上手くいかないといえる。
現実でセックスできない奴はネット通してもセックスできねぇよ。
仮に関係が築けても、いずれ崩壊し、大きな傷跡を残す
仮にTwitterで承認を得たいやつ同士が出会って、需要と供給が一致したとしよう。一見、なにもかもが上手くいきそうにみえる。
ただし、そういう場合、相手もただ承認を得たい人間である。なので、相手は、こっちの人格を考慮していない。つまり、互いに機械的に承認を与え合うだけの歪な人間関係になってしまう(それでいいならいいけど)。
さらに最も重要なのは、相手はこちらを生身の人間として捉えていないので、こちらの承認欲求が重いと感じたらすぐに切り落としてくることだ。そのときの自分の受けるダメージは計り知れない。
たとえば、君は相手のことをネットで出会った運命の人と思っていた。毎日連絡を交換していたし、互いに愛情を確認していた(気になっていた)。ところが、ある日突然連絡が途絶えてしまう(相手が飽きた)。きっかけはLINEがちょっと面倒だったとか、そんなことだ。どうやっても返事がない。捨てられてしまったようだ。その相手に酷く依存している君はどれくらい傷つくだろうか。
ネットで互いの需要が一致して、共依存になった場合、簡単にその依存が深いところまでいってしまう。大分ずぶずぶになったところで片方が飽きて共依存からサッと抜け出す。残された一方は、相手がいないまま、泥沼の底に置いていかれるわけだ。
ネットで出会えても、相手も自分と同じ他人の気持ちの考慮できない人間の可能性が高く、結果簡単に捨てられ、心に大きなダメージを負うことになる。よって、Twitterで人間関係(とくに恋愛)を築くのはおすすめできない。
もちろん自分が相手に傷を負わせるパターンもある。
根本的なコンプレックスの解決にはならない
Twitterで人間関係が築けても、その関係を現実生活に持ち込めるようになるのは、ごく少数である。結局、Twitter内の人間関係はTwitter内にとどまる。
とはいえ、Twitter内の人間関係も自分の承認欲求を少しは満たしてくれるため、どうしてもそれに依存しがちである。擬製の承認で生き長らえるわけである。
しかし、そもそもTwitterに人間関係を求めるようになったのは、「現実の人間関係がうまくいかなったから」である。Twitterの人間関係に閉じこもっていては、結局大元の問題は解決せず、コンプレックスは解消しない。
たとえば、Twitterではネタツイートで有名に、フォロワーも多く、彼らとの交流に満たされている。……ように見えても、結局現実に友達が一人もいなかったら、満たされないのは想像に難くない。
Twitterの人間関係を足掛かりして、現実にフィードバックし、現実生活での周囲との関係を改善しようとするのならば、また別だ。それに関しては、僕はTwitterのある種正しい使い方だと思う。
しかし、そうでないのなら、Twitterで人間関係を構築しても、大元のコンプレックスは解消されずに苦しみ続けることになる。
仮にオフパコできてもお前の身体から童貞臭は消えない。
まとめ
以上3つの理由により、現実の人間関係の補填をTwitterで行おうとするとろくなことにならないので、やめたほうがいいと言える。
Twitterは、一番最初にあげた3つの魅力に沿って使えば、便利なツールである。しかし、人間関係を求めて使うとろくなことにならないのだ。
「キモいDMきた!」といって晒されたり、メンヘラに依存されていると思ったいたらこっちが依存してしまった挙句捨てられたり、Twitterに籠っていつまでも現実に踏み出せなくなったりしたくなければ、Twitterに人間関係を求めるのはやめたほうがいい。
……というのを、僕の長いTwitterr歴のなかでひしひしと感じたのでした(非常に痛い目を何度もみた)。
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【社会人】飲み会のお作法やマナーは本当に必要なのか【上司】
こんばんは、綿箆マナです。
今回は、飲み会のお作法について、僕の考えを書こうと思う。
飲み会のお作法は必要?不必要?
前も書いたが、医学生も高学年になると、実習や就活の関係で、現役のお医者さんと知り合う機会が増える。そうすると、仲良くさせていただいた先生に、飲み会へ連れていってもらったりする。
そういう飲み会に参加するとなると、学生の身であっても(だからこそ)お作法を身につけておく必要がある。もちろんお作法以前に、マナーや常識として目上の人には敬語を使うとか、失礼な振る舞いをしないとかは大前提だが。
いわゆる飲み会のお作法とは、
・目上の人には奥の席(上座)に座ってもらう
・目上の人のグラスが空いたらお酒が必要か確認する
・瓶ビールを注ぐ際はラベルの上にして両手で注ぐ
・目上の人と乾杯するときは自分のグラスを少し下げてグラスを当てる
などがあげられる。
こうしたお作法は、社会人の飲み会では必須とされている。しかしその一方で、全く意味がない、価値のない価値観の押しつけ、無駄なガラパゴス文化などの批判もある。飲み会のお作法などなくしてしまえばよいという意見もみられる。
たしかに、ビールを注ぐときにラベルを上にしたからといって味が変わるわけでもない。そういう意味では無駄である。
果たして、飲み会のお作法というものは、無駄で意味がない、排除してしまってもいいものなのだろうか。
僕は、そうではないと思う。詳しく言うと、飲み会という社交的な場を運営するにあたって、お作法は便利な道具として使用できるため、無駄ではなく排除する必要もないと思っている。以下に詳しく述べる。
お作法は実用性より敬意の表現である
現代において、飲み会のお作法の多くは、実用性よりコミュニケーションとしての意味の方が大きい。ビールのラベルの例のように、実用性の観点で見ればお作法にはほぼ意味をなしていないものもあり、不要だといって構わない。しかし、飲み会での上下関係を円滑にするための道具としては、非常に便利なのだ。
たとえば、上座として目上の人に奥に座ってもらうのは、入り口から危険な人が入ってきたとき、目上の人がすぐに襲われないようにするためという、昔のしきたりである。実用性の観点でみれば殆ど意味をなさない。むしろトイレに行きやすい入り口のほうが便利なのではないか。
しかし、上座のしきたりを後輩が行うことによって、先輩へ「私はあなたを目上として尊重しています」という意思表示になる。ここにこそ、上座のしきたりの本当の意味がある。上座が、実用性よりも、コミュニケーションの1つとして利用されているのがわかるだろう。
つまり、こういった飲み会のお作法は、目上に敬意を示すための、パターン化されたコミュニケーションなのである。「あなたのこと尊敬しています」とわざわざ言葉にしない代わり、簡単な行動でそれを伝えているのだ。
お作法は実用性を元にしてはいるが、その実、相手に敬意を簡単に示すための便利な道具としてのほうが本質に近い。お作法は相手に悪い印象を与えることは決してなく、かつ簡単に相手の好意を引き出せる。そういう道具だと思えば、無理矢理捨てるほどのものでもないと思う。
また、少し話は逸れるが、レストランのドレスコードやテーブルマナーも「自分はこの場に相応しい人間だ」と主張するための簡易的な手段である。
まとめると、飲み会でのお作法は、上下関係を円滑にするためのコミュニケーションアイテムであり、無駄で意味のないものや、排除して構わないものではないのだ。
目上と目下のすれ違いを解決するには
しかし、実は、お作法が無駄だ不必要だという主張は、実用性がなく無駄という点に端を発しているのではない。
現在の社会において、目下がお作法を守ることは当たり前である。後輩は先輩に敬意を払うために実用性のない行為を強制されるのが普通、という状況なのである。
現代のこのような状況への目下の立場の人間からの反発が、お作法無意味論争の原点になっているのである。結果、目上と目下のすれ違いが発生している。
この問題を解決するには、目上の立場の人の意識に変化が必要だと思う。
目上の立場の人に敬意を払うのは社会人として当たり前である。しかし、目下の人間は自分へ敬意を払うために、ひと手間をかけてくれているのである。そこへの感謝を目上の人は忘れてはいけないと思う(偉そうにすんません)。
自分より立場上では下でも、相手は自分と同じ人間なのだ。当然、存在を尊重しなければならない。だから、自分への敬意を示すための手間をかけさせることを当たり前だとは思っていけない。
具体的には、目上の人は、お作法ができていない後輩を叱ってはいけないと思う。お作法ができていないからといって、必ず相手のことを尊敬してないわけではないのだ。ただその表現の仕方を知らないだけかもしれないのだ。
そういうとき目の上の人は、「お作法は便利なものだから覚えておいて損はないし、社会で必要だから今後はお作法を守った方が都合がいい」と伝えるのがよいのではないだろうか。
また、お作法に沿って敬意を示してくれた後輩には、それを当たり前として扱うのではなく、その手間に感謝し、相手に尊重の意を示すことが必要だろう。
たとえば(?)、僕が現役の医者の先生と飲み会に行って、(ほとんど気が利かないけど)たまに気が利いた振る舞いができたときには、先生方は学生の僕に対しても丁重にありがとうを言ってくださる。そう言ってもらえれば、とてもうれしい。
互いの尊重は感謝は、決して人間関係を悪くはしない。
以上より、僕はお作法に関する目上目下のすれ違いを解消するためには
・目上目下ともに、お作法はコミュニケーションのための手段という認識をもつ
・目下は、目上には敬意を払うという前提のもとで、お作法を便利な道具だと捉えて利用する
・目上は、目下が自分への敬意のために手間をかけていることを当たり前と思ってはいけない
・目上は、お作法に守る目下に対して、その敬意と手間に感謝の態度が必要である
以上の項目が必要だと思っている。
まとめ
飲み会のお作法はコミュニケーションのための便利な道具で決して無駄ではないが、
目上がお作法を当たり前のものとして目下に押しつけるとすれ違いが生じてしまうので、
互いに歩み寄り尊重しあうことが大切なのである。
とは言ったけど
飲み会お作法ではないが、個人的に、判子を上司に向けてお辞儀をするように斜めに押す、というお作法には生理的な嫌悪感を覚えてしまう……(というそんな作法本当に存在するのか。誰かが最近作ったんじゃなくて?)。
あと、就活のESは必ず手書きという、敬意に対して手間や労力が釣り合っていないお作法もおかしいと思う。目上から目下への同じ人間としての尊重が存在していない作法の好例だ。
就活をしたことないが、就活のお作法は、敬意と労力が釣り合っていないものが多い気がする。採用する側とされる側という立場があるから仕方ないのだろうか。それか全部リクルート系企業のマッチポンプなのだろうか????
ともかく
まぁ飲み会のお作法に関してはそんな悪いもんじゃないってことでよろしく頼む。
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【毒親】ゲーム禁止が引きこもりゲーマーを生み出すメカニズム【束縛】
親の過度な制限は、必ずこどもの将来に悪影響を及ぼす
僕は親ではないし、この先親になる予定も特にない。しかし、これだけは日本の育児界に提言しておきたい。
親の過度な制限は、必ずこどもの将来に悪影響を及ぼす。どういうことか。
たとえば、親がこどもに「有害なもの」に徹底的な制限を強いたとする。ゲーム完全禁止、アニメはドラえもんとサザエさんのみ、漫画完全禁止、ジャンクフード禁止、友達付き合いの制限、異性関係の制限などなど。
これらのように、周囲のこどもたちにはある程度許可されているものを、自分のこどもだけに"我が子のよい発育"のためとして制限したとする。
そうすると、こどもは周囲との差を感じ、親の不条理な制限に反発する。いくらその正当性を説明されても、親からの不条理に対しての反発は収まらない。なぜなら、まわりのこどもたちは制限されていないからだ。他の子がよくて、自分だけダメなのはどう考えてもおかしい。ここでしばしば、伝家の宝刀「よそはよそ、うちはうち」が発動されるが、こどもはまったく納得できない。抑圧されたまま少年〜青年期を過ごす。
もちろん、犯罪やそれに近いものに我が子が関わろうとしていたら制限するのは、親として当然である。しかし、犯罪に繋がらなければ、こどもが暮らしている環境の中で標準的な許可から少し厳しいぐらいの許可は与えてもよいのではないだろうか。理由はまたあとで書く。
そうした青年が、大学や就職で実家を離れ、親の制限から解放される。となると、どうなるか。
親の束縛がなくなった結果、「有害」だけど魅力的なものにのめり込んでしまう。今まで親から受けていた制限は、彼にとっては正当性のない理不尽なものでしかなかった。なぜなら、先に書いたように、彼の周りの友人たちはその制限を受けていなかったからだ。だから、その不当な束縛の分を取り戻そうとのめり込んでしまう。
もし「有害」なコンテンツにのめり込んでも、彼に自制心があればよい。しかし、成人の財力をもって、親の監視もなしにコンテンツにハマったら、生活に影響がでるくらい深入りしてしまうかもしれない。
他のこどもたちは、親の監視下でかつ、こどもの財力の範囲で、それらのコンテンツを楽しんでいた。だから、彼らの多くは、「有害」コンテンツとのいい距離の取り方をこども時代に学んでいる。
多くの厳しい教育ママの下す「有害」の判断は、魅力的だがそれゆえにのめり込みすぎて害をでかねないコンテンツにくだされる。つまり、そういうコンテンツは、メリットとデメリットのバランスを考えながら使用すれば、QOLを上昇させるのに、大いに役に立つのである。
しかし、こどもの頃にそれらに触れることなく過ごしてきた彼には、メリットとデメリットのバランスが取れない。どこまでならやってよくて、どこまではやっちゃいけないのかわからない。程度が感覚として備わっていないのだ。結果、後先省みずにコンテンツにのめり込んでしまう。
こどもの頃は親が制限していたものに、一人暮らしになってからどハマりしてしまい、生活に悪影響がでるくらい深入りしてしまう。これはそう少ない事態ではないだろう。
ネットでも、『こどもの頃は一切ゲームさせてもらえなかったけど、今は毎日ゲームしている。ちな30台無職』、『こどもの頃は親が厳しくてお菓子を殆ど食べられなかったけど、大学に入ってからお菓子にドハマりしてしまい、とてつもなくデブった』などの典型例をよく見かける。
僕の周りでもいくつかこのケースがあった。
たとえば、僕の友人の1人は家が厳しく、裕福な割にお小遣いの額が周りより少なかった。周りの友人をまねて彼に変なものを買わさないためだった。中学時代に友達同士でご飯を食べるときも、彼だけはレシートを取り、それを親に渡して必要な分だけお金をもらっていた。先にお金を渡してもらえないので、余計なものを買う自由が彼にはなかった。そのため、彼は昼飯を我慢し、僕の昼飯のレシートを代わりに親に提出することで、お小遣いを稼ぐようになった。そんな彼は今、大学入学で晴れて一人暮らし、バイト代も仕送りも自由に使えるとなって、パチスロに大ハマりしている。
また、中学時代の別の友人は、ジャンプを買うたびに母親がToLOVEるのページだけを切り離していた。彼は中学以来会っていないので、彼がToLOVEオタクになっているかは定かではないが、中学生にもなって少年誌のエロいマンガを親が毎週毎週切り取るなんてどう考えても正気の沙汰じゃない。
例を出したところで、親の過度な制御がこどもの将来に悪影響を及ぼすことを、きちんと証明したい。
こどもはいずれ親元を離れて、「有害」なコンテンツがそこら中に溢れている世界で生活しなければならない。
先に書いたように、「有害」なコンテンツは、距離の取り方を間違えなければ、あまり害なく利用できる。大事なのはメリットとデメリットのバランスが取れるかどうかなのである。
それなのに、「有害」なコンテンツから親の手によって切り離されてしまうと、距離間を学ぶ機会がなくなってしまう。距離感が分からないと、デメリットも顧みずに自分の生活を破壊するほどコンテンツにハマるかもしれない。つまり、「有害」をこどもから遠ざけることで、親は自らこどもが社会で生きる術を奪っているのである。
こういうわけで、親の過度な制御はこどもの将来に悪影響を及ぼすのだ。
本当に親がすべきなのは、部分的に「有害」なコンテンツをこどもに開放し、親の監視や介入の下で、こどもが適切な距離感を学ぶのを補助することである。
問題点は、当の親本人には、自分の制限が過度であるという認識がないことである。親本人はこどものためを思って(と自分で思い込んで)、「有害」なコンテンツを制限しているのである。
先入観やこどもに押しつけているエゴを一度捨てて、こどもの保護と自立の2つの観点から、なにが本当にこどものためになって、なにがこどものためにならないか考えるべきではなかろうか。
ちなみに僕は親が健康のためにビーフジャーキーを一切食べさせてくれなかったので、大学入って一時期ビーフジャーキー厨になってしまった(値段的に買い続けられなくてやめた)。
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【医者】口は災いのもと、指は炎上のもと【飲み会】
しょうもないこと。
医学生も高学年になると、医者の先生方にご飯を連れて行ってもらえたりする。実習後だとか、病院説明会の懇親会とか、おいしい料理やお酒をいただける。
そうなると、色々なお話を先生方から伺うことになる。実際の勤務の内情とか、今まで大変だったこととか、遊びのやり方とか。人生経験の違い分、沢山のことを教えていただける。
この前もそんな機会があった。飲み会にて、よい医者になるための研修医時代の過ごし方などを教えていただいた。そんなとき、ふとよく分からない考えが、僕の頭に浮かんだ。
これ、怖くないか?
どういうことか。なにが怖いのか。
僕などの学生は、お話してくださる先生方にとってほぼ初対面の存在である(病院実習の飲み会除く)。先生方は、そんなよく素性の分からない学生に色々話してくださっているわけである。
もし、素性の知れない学生であるところの僕が、仮に飲み会中の先生方の発言を無理やり切り取ってさらに曲解して、「~~会の人、~~~って言ってたんだけど、これどうなの?」とTwitter等に載せたらどうなるか。炎上させられる。程度によっては、一人の医師の立場が危うくなるところまでいくはずだ。
なにを妄想を。と思うかもしれない。しかし、医学科高学年の方、よくよく考えてみていただきたい。Twitterに書き込むだけで一人の医師を炎上させかねないネタを持っていたりはしないだろうか?結構そういう医学生は多いはずである。常識や信頼関係として書かないだけで。
病院説明会で素性の分からない学生に色々思ったことを話すのは、SNS時代の現在ではなかなか危険なことではないだろうか?
医者になっても口には気をつけようと思った。
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【受験生】医学部に入ったらモテる?【合コン】
医学部に入ればモテる!!
そんな甘い言葉に希望を抱いて、
今まではまったくモテず、彼女の1人もできなかったけど、
今日は、せっかくなので、
まず、よく考えてほしいのだが、
そして、総合大学だとしても一般教養が終われば、
さらに、同時に入学する医学生は、
医学生の名札が役に立たず、「スペック」の点から見て君より優れた人間が多い環境のなかで、君は
もちろん、「スペック」なんてのは本質ではない。
となると、
一般教養やバイトで女の子に出会うとする。そうしたとき、
合コン。
・医学部には医学生は捨てるほどいるので、なんのステータスにもならない
・医学生のなかに勉強しかしてこなかったやつは少ない
・医学部の外側でも、スキルがないとアプローチはできない
・友達がいないと合コンは参加できない
以上より、「医学部に入ったらモテる」というのは、
というかそもそも、
勉強だけしとけば、あとからモテるみたいな考えは捨てて、
って昔の自分に言いたいわ……。
文章力アップに必要な"抽象化”と”具体化”、そのトレーニング法
このブログを書き始めてからしばらく(1年3ヶ月)になる。しかし、思ったような文章はまだまだ書けない。そこで自分の文を反省したところ、文を書くにあたり「抽象化」と「具体化」という能力が必要で、自分にはそれが足りていないことがわかった。
今回は、「抽象化」と「具体化」とはなにか、なぜ文章に必要なのか、そしてその視点から文章力のトレーニング方法を(自分用に)書きたい。
抽象化と具体化の話は様々な媒体に通じると思うので、別にブロガーとか物書きでなくてもぜひ色んな人に読んでほしい。というかアドバイスがほしい。
抽象化と具体化
抽象化と主張文
このブログやメンヘラ.jpに投稿する記事では、日々の出来事や過去の経験から共通する教訓や論理を取り出して、
僕はこの過程を「抽象化」と呼んでいる。
抽象化の過程で具体性が削ぎ落とされることにより、教訓や論理がよくみえるようになり、非常に分かりやすくなる。
たとえば、この記事では、『ネタツイートを作るためにアホなことをする』や『飲み会中の写真をアップしよう、と始まる前から考える』や『かわいい動物の写真がバズったから、毎日写真を撮るになった』という具体例から、「我々は
このように、具体例からその奥のロジックやテーマを取り出すのが、抽象化である。
主張文では、抽象化が非常に重要だ。主張文においてもっとも重要なのは、作者の主張(論理)である。しかし、抽象化がうまくいかないと、作者自身が自分がなにを主張したいのか分からないまま、文章を書くことになってしまう。
仮に、入念な抽象化なしに主張文を書こうとすると、
(ただし、
また抽象化は、生きづらさを抱える人にも有用な思考法である。
生きづらさを抱える人、つまり雑に言って人生が上手くいかない人は、多かれ少なかれ失敗の経験があるはずだ。その失敗の経験から教訓を抽象化して、生きるための道具として覚えておく。そうすると、
たとえば、自分は楽しかった会話が、
失敗でなく、成功体験から抽象化を行うのも、つぎの成功に繋げることができる。
話が逸れた。まとめると、抽象化とは具体例から教訓、論理、テーマなどの抽象的なものを取り出す思考である。そして、主張文では抽象化が重要である。
具体化と創作
僕に関して、抽象化は今までやってきたので、そこまで苦手ではない。しかし、抽象化の逆、つまりは「具体化」はてんで不得意である。
具体化というのは、抽象から具体を生み出す、
たとえば、上の文章での、「失敗から抽象化によって教訓を得て、
このように、概念やテーマから、実際の例を出すことを具体化という。
主張文にも、
しかし、本当に具体化が重要なのは、主張文よりも創作である。文章においては、
まず、創作においても主張文と同じく、伝えたいことは抽象化されたテーマである。しかし、
たとえば、「君がいなくてさびしい」という抽象は、『家の犬まで一生愛されてると思ってたよ』『一段低いところに置き換えたシャワーがたまらなくこのうえなく愛
たとえば、「夏が恋しい」というテーマは、「秋はご飯だって美味しいし、
たとえば、魔法学校が舞台の物語を描こうとする。となると、魔法学校の名前、立地、
創作では、
このように、具体化とは、抽象的な概念やテーマから細部を生み出すことである。具体化は、創作においては必要不可欠である。
抽象化具体化と文章力
抽象化と具体化の出来不出来は、文章力に大きくかかわってくる。
文章とは、「主張文」「創作」「それ以外」に大きく三分される。そのなかで、主張文には抽象化が必要不可欠であり、創作には具体化が必要不可欠である(その他エッセイなどは半々だろうか)。
つまり、抽象化と具体化のトレーニングによって、文章力はアップできるのではないだろうか。
抽象化能力の向上によっては、論理が通った文章、文章全体のよい構成、分かりやすい文章、他の人にはない視点の文章などが期待できる。
具体化能力の向上によっては、描写力の向上、豊富な発想力、豊かな語彙力と教養、言葉選びのセンス、読ませる文章などが期待できる。
抽象化具体化トレーニング
文章において肝要な抽象化と具体化、どうしたらこれらの能力を鍛えられるだろうか。僕自身の経験をもとに考えてみたい。
抽象化トレーニング法
抽象化能力をあげるには、ひたすら抽象化を行えばよい。なぜなら、抽象化で自分に必要なものは思考力だけで、思考力を反復訓練のなかで鍛えればよいからだ。具体的な方法を以下に挙げる。
・小説、映画、漫画のあらすじを書く
→あらすじを書くことは、場面ごとの要約をすることである。この要約こそが抽象化である。あらすじを書いたら、作品のテーマや伝えたいことを、自分なりに分析するのもよい。これはさらにハイレベルな抽象化である。また、あらすじが面倒なら、感想を書くだけでも、自分の頭のなかのゴチャゴチャを抽象化する練習になる。
・自分の考えについて文章でまとめてみる
→自分の考えというのは、頭のなかではまとまっているつもりでも、いざ文章化してみると、自分でもなにが言いたいのかわからない、ということがザラにある。そこで、自分の主張とそれを立証する論理とを明確にすることが、抽象化の練習になる。
・論理的な文章を書くための本を読んで実践する
→『20歳の自分に受けさせたい文章講義』と『数学文章作法』、この2冊には論理的な文章を書くための方法が載っている。実際にその方法に則って文章を書くことで、論理的思考力をつける。
抽象化自体は頭のなかで行えるが、その精度は文章にした方が格段に高いのでなるべく書きながら抽象化を行ったほうがよい。
具体化トレーニング法
・インプット(作品から)
→具体を自分から放出するには、まず具体を自分のなかにいれる必要がある。小説、詩集、エッセイ、映画、音楽をなるべく沢山体験する。しかし、インプットの仕方が雑ではいけない。つまり、流し読みや流し観、流し聴きでは、具体化のトレーニングにならない。各々の作品の「具体」を自分に吸収する必要がある。小説なら、情景描写、言葉遣い、台詞回し、
・アウトプット
→いくらインプットしても、出せなければ意味がない。
・書き写し
→小説などの好きなフレーズを書き写すのもよい。インプットとアウトプットの両方の練習になり、手間に見合うだけの価値がある。
・日々の過ごし方
→小説や映画などのフィクションでは、多くの具体を体験することができる。しかし、もっとも身近で印象に残る具体といえば、自分の日常である。日常生活のなかで、自分の思考にこもるのではなく、周りの人や風景に目をやることで、なにより新鮮な具体を手に入れることができる。また、自ら様々な体験に積極的になることも、人生経験だけでなく、具体化の能力向上に繋がる。
具体化のトレーニングは、インプットとアウトプットを繰り返すことが肝要である。
まとめ
抽象化とは、具体例から本質や論理を取り出すことであり、
具体化とは、抽象的な概念からテーマから実例や細部を生み出すことである。
抽象化は主張文に重要で、具体化は創作に重要であり、2つの能力は文章力に寄与している。
抽象化のトレーニング法は、ひたすら実際に抽象化を行うことで、
具体化のトレーニング法は、インプットとアウトプットを繰り返すこと、日常生活で観察眼をもつことである。
センスある文とか小説とかを書きたいので、具体化のトレーニングをしたいと思います……。
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