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Watabera Miscellaneous Notes

人生やめてません

【趣味】「単に◇◇が好き」なの?「◇◇が好きな自分」が好きなの?

 

 本が積み重なっている。

 

 僕の部屋の本棚には、買ったはいいが手もつけていない本が、どの段にも積まれている。もともと、未読の本を入れる段が用意してあった。しかし、買う量に読む量が追いつかず、その段だけでは足りなくなって、本棚中に適当に積み重ねている。いわゆる積読というやつである。

 

 ここ最近本をまったく読んでいないのに、たまに目についた本を買ってしまうので、賽の河原の石のごとく本が積まれていく。金は減るが、読書量は増えない。このまえ買ったサブカルやオタクに関する分析本にいたっては、まえがきだけ読んで、(難しすぎて)そっと本棚に戻した。

 

 本屋で手に取ったときには、「これおもしろそうやな!」と思っているのに、いざ家に帰ると、なかなかページをめくる手が進まない、もしくは、そもそも開くのがおっくうになって積んでしまう。

 

 そうして、自分のやる気や集中力のなさに嫌になり、自分に発破をかけて読書に取り組もうとする。しかし、そもそも読書ってそんな無理やりするものなのか?など考え始めてしまい、頭がゴチャゴチャして、結局まとめサイトを読んで時間がつぶれる。積まれた本は積まれたままである。

 

 なんだか積まれた本たちが、自分の怠惰性を象徴しているように思えて、しんどくなるまでなってしまった。

 

 果たして、ここまでくると自分は、「本が好き」なのか「本好きな自分が好き」なのか、分からなくなってきた。

 

 「本が好き」なら別に深く考えなくていいと思う。けれど、「本好きな自分が好き」なら別に自分を偽ってまでしんどい思いをしなくていいし、本当に「本が好き」な人からしたらそういう人の自己アピールは鬱陶しい。よって、行動を再考する必要がある。

 

 僕自身について、小説を読み始めて集中すると止まらないところや、面白いエッセイで共感しうんうん言ってるところや、暇だとなんらかの情報を頭にいれたがるところ(しばしばTwitterで代用される)から考えると、「本が好き」なのだと思う。

 

 しかし、本棚に既読本をならべて悦に浸っているところや、病院実習の合間に同期の横で本を読んだり、本に関してのツイートをしたり、こういう記事を書いたり、「本が好き」だと暗に他人に主張しがちなところから考えると、「本好きな自分が好き」なだけの部分も大いにある。

 

 「本が好き」ならあんまり気負わずに、気になるものは買って、読める範囲で読んでいけばいい。逆に、「本好きな自分が好き」ならいい恰好して無駄に本を買うのをやめればいい。しかし、今考えたところ、どうも自分は複合型のようだ。

 

 だから、下手に気合入れずに適当に読んで面白い本ならそれでよし、面白くなければ気軽に一度放っておくことにする、と同時に、周りに対する「本好き」アピールで無駄に買い物したり不必要な自己主張をしてないか、を気を付けることにする。

 

 この、「趣味自体が好き」か「趣味が好きな自分が好き」かという議論は、ほぼすべての趣味領域に及ぶ話だろう。そうして、大概の場合、後者の「趣味が好きな自分が好き」な人はろくなことにならない。前者からは煙たがられ、実際はそこまで興味のない趣味が彼の負担になってくるなど、周りにも本人にも悪影響がでる。

 

 たとえば、音楽に関して、色々な音楽を聴いている人がいるとしよう。その人が「単に音楽が好きで、好きなものにたくさん手を伸ばしていたら、いつの間にか量が増えていた」のか、「『音楽に詳しい』と思われたいからたくさん音楽を聴いた」のか、一見分からない。

 

 しかし、その人と音楽について話してみると、また違ってくる。前者は単純に自分の好きなものについて話す喜びで話しているのが分かるが、後者は「よく思われたい」という願望が大元にあるので、会話がどうしても知識自慢やマウンティングに傾いてくる。そして後者は、音楽に興味ない人からはともかく、前者からしたら不快で迷惑でしかない。

 

 このように、「趣味が好きな自分が好き」な人は、趣味の根本的な部分への興味や努力よりも、体裁的な部分や周囲の視線を重視するので、趣味が上達しなかったり、同じ趣味コミュニティの人に迷惑をかけたり、その趣味に通じていない人にマウンティングをとるなどしがちである。要は、このタイプの人は、他人から不快や滑稽に思われる存在なのである。

 

 趣味に対していまいちハマりこめない、趣味仲間のなかで自分だけ疎外感がある人は、自分が本当に「その趣味が好き」なのか、「それを趣味にしている自分が好き」なのか、考えてみるといい。おのずと、その趣味への自分の本当の思いが見えてくるだろう。

 

 もちろん、考えてみた結果、自分はやっぱりその趣味が好きだが、現在は少し疲れてしまっているので離れたい、という結論になることもあるだろう。しかし、そうでなくて、自分が本当はその趣味自体はそこまで好きでなくて、その趣味の「響き」に憧れていただけだった、と分かったならば、趣味への向き合い方をもう一度考慮する必要があるだろう。

 

 以上、最近自分がサブカルイキりオタクみたくなっているので、自戒を込めて書きました。ワタベラマナでした。 

 

 

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【Twitter】SNSでの幸せ報告が鬱陶しい人へ【マウンティング】

 

 こんにちは、ワタベラマナです。

 

 SNSには、よく「幸せ報告」が転がっている。TwitterからInstgramやFacebookまで、幸せ報告の場所は多岐にわたる。「今日は久々のメンツで飲んだ!!超楽しかった!!(飲み屋の画像付き)」「~~に行ってきました。素晴らしい景色で眼福でした」「この仲間で過ごした時間に感謝!!」などなど。

 

 SNSで幸せ報告する人をみると、僕はそれを斜めに読んで、本当に幸せならわざわざ書かなくていいんじゃない?幸せだと思い込むために書いてない?それともマウンティングすることで幸せになろうとしてるの?とかひねくれたことを、ついつい考えてしまうことがある(自分もSNSで幸せ報告を結構やっている癖、に)。

 

 しかし、昨日ある出来事があったので、幸せ報告」はそう悪いことではないのではないか、と思いはじめた。

 

 昨日の出来事はホントに単純である。働きはじめてからあまり会わなくなった看護師の友人とすれ違って挨拶しただけである。お互いに自転車だったから、邂逅はほんの一瞬だった。すれ違った瞬間に、互いの存在に気づき、ちょっと手を振って、「お疲れ!」とだけ言った。そのあとは、両者とも進行方向へとただ自転車を漕いだ。ただそれだけである。

 

 しかし、この簡単な出来事は、僕にとっては、心象的サイズのある出来事だった。すれ違いざま、友人だとわかったときに、僕はなぜかすごく嬉しくなって、満面の笑み(多分)で挨拶したのだ。そしたら、向こうも笑顔で返してくれた。そのあと、僕の心窩部には、ふかふかした暖かい感触があった。それはなんだろうと、言語化してみた。この暖かい感触はいったいどういう気持ちからきているのか、考えたのである。結果、「こうやって、たまにでも会えてにこやかに挨拶できる友人がいるのは幸せだな」という感情だった。


 曖昧な暖かい気持ちを詳しく言語化することで、より自分の幸せについて具体的に理解できた。その幸せが、自分のなかの一部として、より自然なやり方で精神に組み込まれた。

 

 下の記事に書いたように、僕は、人はたまには自分がもっている幸せを再確認するべきだと思っている。

 

 

 だから、SNSに「〜〜〜〜で楽しかった!!」とか「本当に幸せです!!」とか書く行為は、言語化によってその幸せに対する理解を深められるので、自分の幸せを再確認する手段として非常に健全な行為なのではないかと思う。

 

 「幸せ報告」は、それをSNSに投稿する過程で、自分の幸せの言語化が行われる。そして、幸せの言語化は、自分の幸せへの理解や再認識に役立つ。なので、「幸せ報告」は、幸せの再認識の手段として、そう悪いものではないのだ。

 

 もちろん、「言語化したものをわざわざ他人に見せるためにSNSに載せる必要はあるの?」という意見もあるだろう。しかし、現代日本では、個人用の日記でも書かない限り、他人に見せる体でしか起こった出来事を言語化することはない。だから、積極的な言語化の手段としてのSNS投稿という選択肢は、そう責められるものではないと思う。


 なにが言いたいかって、下手に斜に構えずに、楽しかったら楽しかった、幸せなら幸せ、ってSNSに載せたらいいんじゃないの?てことです。

 

(ただし、マウンティングの目的の幸せ報告は、他人から見たら鬱陶しいだけでよろしくないと思う)

 

 

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自分で自分を論破した話

 

 こんにちは、ワタベラマナです。


 僕はしばしば、他人の気持ちへの配慮が足りず、失礼な言動であったり、我儘な言動を取ってしまう。

 

 だから、なるべく自分の行動を反省して、ブログにまとめてみたりして、"間違った行動"をしないように、意識している。なるべく。

 

 すると、他人が"間違った行動"をするのが、目につくようになった。

 

 僕は、以下の記事で書いたように、「他人への自分の価値観の押しつけ」が嫌いである。"間違った行動"だと思っている。

 

 

 

 

 

 「あなたが間違っているから、正しい方向に導こう」という形で行われるそれは、たしかに正論な場合も多いが、しばしば押しつけている側の支配欲や承認欲求に端を発した行為である。僕はそれを、"間違った行動"だと考える。

 

 だから、自分の目の前で価値観の押しつけが行われるのをみると、「自分の正しさが他の人にとっても正当性があると思わないでくれ!」と考えてしまう。願わくば、それをやめてほしい、と思う。それが目の前で行われているのが、どうしてだか、かなりのストレスである。

 

 「価値観の押しつけは間違ってるからやめてくれ!」は、僕から見たら、間違っていない主張のように見えた。

 

 しかし、なんと悲しいことか、よくよく考えてみれば、この主張こそが「価値観の押しつけ」ではないか。

 

 僕からすれば、「価値観の押しつけ」は間違った行為である。しかし、それは、僕の価値観に基づいた判断である。その判断に基づいて、他人に「価値観の押しつけをやめろ!」と言うことこそ、まさしく「価値観の押しつけ」である。

 

 だから、いま僕は、「価値観の押しつけは間違っていると思っており、なおかつそれを見せられるのが非常にストレスなので、だからそれをやめてほしいと主張したい。しかし、その主張こそが価値観の押しつけに他ならない」というジレンマに陥っている。そして、そのストレスの回避方法を、思いつかない。

 

 価値観の押しつけをやめてほしい!!

 しかし、それを主張すると自分も同じことになる!!  

 でも、目の前でされたら凄いストレスだ!!逃げられる状況でもない!!

 

 どうしたらいいんだ〜〜〜〜

 

 

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医学部受験に才能でなく努力だけで合格する勉強法①

 

 こんにちは、ワタベラマナです。

 

 今回から何回かに分けて、僕の経験に基づいた、医学部受験の勉強法の記事を書いていこうと思う。

 

 (動機はアクセス欲しさだが)読んだ時間に報いる価値は保証するので、医学科志望の受験生はぜひ目を通してほしい。なんとしても医学科に受からなければならないあなたの役に立てるだろう。

 

 というか別に医学部でなくても、もはや受験でなくても、勉強全体に使えると思えるので、受験生以外も読んでほしい(CBTや国試勉強にも使えるのでは)。

 

 勉強法をまとめるにあたって、才能がなくても努力だけで合格に至れるものを目指した。もちろん、才能はあるに越したことはない。しかし、僕は特出した才能がなくても医学科には合格できると思う。努力から最大限の効率を生み出せば、才能にも勝てるはずだ。だから、その手段として「努力と思考法でなんとかなる」勉強法を考えた。対応範囲は地方国公立医学科レベル~地方旧帝医学科レベルである。

 

 記事の順番として、「毎日の勉強を効率的に進めるための考え方」「勉強計画など全体的な事項」「科目や分野ごとの具体的な勉強法」に分けて書いていこうと思う。というわけで、今回はこの勉強の基本的な方針や考え方について書いていく。

 

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 受験勉強の3要素

 受験勉強というのは、大きく3つの要素に分けられる(医学部受験に限らず)。この3要素を順番にこなすことで問題が解けるようになる。そして、3つの要素を理解し、「自分が今どの要素を鍛えるために勉強しているか」を意識することで、勉強の効率を大いに上げることができる。これが、この勉強法の大きな方針である。以下に3要素を示す。

 

暗記/理解

パターン化

思考/実践

 

 それぞれの要素について説明する。

 

暗記/理解

 暗記は、そのまま、知識を覚えることである。英単語、英文法、古文単語、古文法、周期表、数学の定理など。受験勉強には覚えなければならないことがたくさんある。当然であるが、暗記は非常に重要である。暗記事項を覚えてなければ、問題を解くスタート地点にすら立てないからだ。たとえば、英単語も知らないのに英語の文章の要約するのは不可能だし、数学の定理を覚えておかなければいくら考えても問題は解けない。

 

 また、理解とは、各科目ごとの基礎的な論理や事項を自分なりに納得して覚えることである(多くは理系科目)。たとえば、物理で波の問題を解くには波の性質を理解しる必要がある。また、化学の熱力学で化学反応時に熱がどんな役割をもっているのか理解しなければ、いつまでたっても適当に問題を解くはめになる。それでは安定した点はとれない。

 

 つまり、暗記/理解というのは受験において前提条件であり、頭に入れておかないと受かりようがないのだ。暗記の際はや新しい分野に入る際には、それを頭の隅に置いてほしい。

 

 どう暗記/理解したらいいかは、また各科目ごとに載せる。暗記に関しては、基本的には書いたり口に出して無理やり覚えるしかない(か語呂合わせ)。しかし、ここで一つ効率的な覚え方を紹介しておこう。

 

 それは、「問題との関連づけ」である。人間はただ覚えただけでは忘れやすい。しかし、なにかに関連付けると、覚えやすいし忘れにくい。そこで、問題演習中に暗記不足で間違えたときは、必ずそれをおざなりにするのではなく、その場で覚える時間を取ろう。頭のなかで、暗記事項とその問題を繋げて覚えると忘れにくい。また、覚えるとき、問題に出た暗記事項だけでなく、関連する暗記事項も覚えようとすると効率がよい。

 

 上のようにどんな手を使ってもいいから暗記事項や基礎論理・事項は頭に入れる必要がある。

 

パターン化

 僕の勉強法において最も重要なのは、この「パターン化」である。

 

 パターン化とはなにか。

 

 大学受験の出題範囲は、広大だが有限である。つまり、出題される問題も大まかには限られているのだ(東大京大はそう簡単ではないかも)。

 

 よって、各科目ごとの問題の出題パターンを覚えることで、 完全にブラックボックスだった問題の内容が、ある程度明確に見えてくるようになるこの問題は、問題集のあの問題と同じ種類の問題だな。では、~~することで解けるに違いない」と気づくことができれば、おのずと解答も近い。

 

 (特に理系科目で)まったく分からない問題というのは、「見たことがない種類の問題なので、解き方の検討が全然つかない」となることが多い。例題を多く解き、なるべく多くの出題パターンを頭に入れることで、まったく分からない問題を減らし、解答中の思考時間を大いに減らすことができる。

 

 たとえば、数学における軌跡の問題はパターン化の最たるものである。「(式の与えられた)円周上を動く点Pと原点Oとの中点Mの軌跡を求めよ」という問題では、「点Pが円の式を満たす」、「Mの座標を点Pを用いて表す」、「式変形し円の式に代入することで軌跡を求める」というのが問題を解くパターンである。

 

 ほかにも、化学の炭酸ナトリウムの二段階滴定の問題では、炭酸ナトリウムから炭酸水素ナトリウムが発生する第一段階反応と、炭酸水素ナトリウムから二酸化炭素と水が発生する第二段階反応があり、これを利用して問題を解くのがパターンである。

 

 これらのパターンを知らなければ軌跡の問題や二段階滴定の問題は絶対に解けないし、知っておけば悩むことなく問題に取り掛かることができる。このように問題をパターン化して頭に入れておくのは、受験勉強で非常に重要である。

 

 暗記/理解ができたら、次は問題(とくに例題)をいくつか解いて、「それらの問題に共通するパターン」を掴もう。そうやって、パターン化した問題の数を増やすことで、模試や本番で対応できる問題を増やすのだ。

 

 問題を解くときには「この問題はどのようなパターンから出題されているのだろう」という意識を常に持とう。そうすること(パターン化)で、1つの問題を解くだけで他の同じパターンの問題がたくさん解けるようになる。パターン化の意識は勉強の効率を大きく上げる。そうすることで、才能でなく、努力だけで勉強の成果を生み出すのだ。

 

思考/実践

 思考/実践とは、解答に至るための最後に必要な要素である。

 

 暗記/理解で問題を解くのに必要な準備はバッチリ、パターン化によって前解いた問題と似たパターンの問題だと分かった。しかし、それだけでは、問題を解けない可能性がある。

 

 なぜなら、問題ごとに特有の要素があり、それについてはパターン化できず、その都度考えるしかないからだ。また、理系科目の計算など、他にもパターン化だけでは対応しきれない部分もある。(パターン化は本番における思考/実践の負担を減らすために行う)

 

 それらをカバーするための勉強が、思考/実践である。

 

 思考/実践は基本的に、パターン化を終えたあとに、実践練習として問題を解いていくしかない。問題ごとのパターン化できない不透明な部分への対応力をつけるのである。

 

 また、思考/実践は暗記/理解の再確認や、パターン化した問題のアウトプットの練習にもなるので重要である。

 

 思考/実践は、基本的には問題演習をすればよい。しかし、どうも上手くいかないとなった場合は、暗記/理解やパターン化が足りていないのである。一端そちらの復習をしよう。とくにセンター試験の理科は本質的な理解が重要である。解けない場合は教科書まで立ち返ろう。

 

まとめ

 受験勉強に大切なのは、以下の3要素を順々にこなしていくことである。

 

暗記/理解

パターン化

思考/実践

 

 まず、暗記/理解をすることで、問題解くのに必要な要素を覚え、また分野の本質を理解する。

 

 次に、パターン化により、例題などを解き出題パターンを覚えることを繰り返すことで、対応できる問題の種類を増やす。

 

 最後に、実際に問題を解く過程で、パターン化だけでは対応できない部分への思考/実践能力をつける。また、本当に暗記/理解できているのか、覚えたパターンを実際に問題に活用できているか確認する。

 

 この3つの過程を経ることで、入試問題が解けるようになる。

 

 実際のところ、ここまで僕は受験勉強のやり方について当たり前のことしか言っていない。しかし、世の受験生はその当たり前を理解せずに、「とりあえずがむしゃらに勉強しとけば合格する」と思っているのではないだろうか。がむしゃらに勉強することは否定しない。しかし、適当に勉強するだけでは、あまりに効率が悪すぎる。

 

 勉強をしている際には「今自分が3つの要素のどれを目的として勉強しているか」を常に意識しよう「取り敢えず問題を解いてみてるだけ」「問題を通して同じ分野の問題に通じるパターンを覚えよう」とでは、どれだけ効率が違うかは想像に難くない。

 

 医学部医学科受験生は以上の3要素を常に頭の片隅に置いて勉強しよう、というのが今回の記事の要点である。

 

 次は勉強の計画について書こうと思う。それでは、また。

 

 ワタベラマナでした。長文読んでくださりありがとうございました。

 

続きの記事

 

watabera.hatenablog.com

 

 

 

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【オタク】果たしてTwitterは出会えるのか【出会い】

 

 こんにちは、ワタベラマナです。

 

 僕はいわゆるTwitterヘビーユーザーである。始めてから5.6年は経っているし、呟くこともないのにタイムラインを眺めているし、ごくたまにオフ会に参加したりする

 

 僕みたいなTwitterヘビーユーザーは、Twitter、とくに僕のアカウント(@homuty)のフォロワーにたくさんいると思う。ということは、そこまでさせる魅力がTwitterにはあるのだろう。

 

 では突然だが、Twitterの魅力とはどのような点だろうか?

 

 僕なりの考えになるが、Twitterの魅力(および便利な使い方)は、3つあると思う。

 

 今回はその3つの魅力と、隠されたもう1つの危険な魅力(そして出会い関連)について書きたい。

 

 

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Twitterの正常な魅力3つ

リア垢

 1つは、現実の人間関係の範囲内で交流する(いわゆるリア垢)のに便利である点。

 

 Twitterでは、現実の知り合いと実際に会わなくて交流できる。家にいても、出先でも知り合いの情報を得られる。昔の知り合いなど、距離の離れた人物とも交流できるわけだ。

 

 また、LINEなどは特定の個人に向けて情報を発信するが、Twitterでは「知り合い」というぼんやりした概念に向かって自分の情報を発信する。特定の個人ではなく、「誰かしら」に向けて発信するため、他のユーザーはその情報を受け止めても流してもよい。その気軽さも、この使い方の魅力である。リプライを使えば、指向性のあるコミュニケーションも行える。

 

趣味の共有

 次は、現実では関われない人たちと関われる点である。

 

 現実の周囲にはいないけれど、関わってみたい人たち。Twitterではそれらの人と交流したり、彼らからの情報を受け取ることができる。Twitterに距離や現実のコミュニティ(学校など)は関係ないからだ。

 

 たとえば、同じ趣味や環境を共有している人たちが周りにいなくても、Twitterなら関わることができる。アニメ好きならアニメ好きと、ミリオタならミリオタと。現実の知り合いとはできない話を彼らとすることができる。

 

 僕は医大生なので、他の大学の医学科の人をフォローしている(あとメンヘラ界隈)。

 

 

 他にも、自分の好きな表現者(アーティスト)の作品や情報を得ることができる。アマチュアの絵かきさんがTwitterで絵を発表していたら、その人をフォローしてその人の作品を楽しめる。アイドルや音楽アーティストの新曲やライブ情報も受け取ることができる。

 

 僕でいえば、ラブライブの漫画を描いてるいなばさん(@kayotin_code10)などをフォローしているわけである。あとはツイートが魅力的な人なんかも。

 

 

表現の発信手段

 最後の1つは、情報の発信手段として便利な点である。

 

 漫画や絵、写真や音楽など、自分が表現、創作したものを他人に知ってもらう手段としてTwitterは有用である。リツイートによって多くの人に広がれば、一気に知名度が上がる。

 

 たとえば、僕であれば、自分のブログを発信する手段の1つとしてTwitterを使っている。

 

 

小まとめ 

 まとめるとTwitterの大きな魅力は以下の3つである。

 

①現実の人間関係の交流手段として便利


②趣味などを共有する人間との交流が可能


③表現や創作や意見を発表する手段として便利

 

 しかし、実は、Twitterには禁じ手の4番目の魅力がある。

 

 危険な4番目の魅力となぜ危険なのか

 4番目の魅力は、現実の人間関係を補填することができる点だ。

 

 現実での欠けた人間関係を満たすツールとして、Twitterは機能する

 

 具体的には、現実で周りと上手くいってない人が、Twitterで友人や恋人(orセックスさせてくれる人)を探したり、Twitter上の馴れ合いで承認欲求を満たすのである。

 

 だが、経験則として現実の人間関係をTwitterで補填しようとしてもろくなことにならない。だから、Twitterのこの使い方はしないほうがいい。

 

 その理由を以下に書く。

 

現実の人間関係が上手くいかない人は、Twitterでも上手くいかない

  まず前提として、Twitterで人間関係を補填するのにはどのようなメリットがあるだろうか。

 

・顔や身だしなみなど外見が考慮されない

・立ち振る舞いの不自然さが分からない(キョドりがバレない)

・現実の周囲にはいない趣味や意見が合致する人と出会える(かもしれない)

・ネット上の人間関係だから失敗しても現実にダメージがない

 

 この辺だと思われる。これらの理由があるから、多くの人が、現実というステージから逃げてTwitterで他人と触れ合おうとするのである。

 

 しかし、これらのメリットは、「現実で上手くいかない人」には、ほとんど関係ない。だから人間関係を築く場所としてTwitterを選ぶのは優れた選択肢ではない。

 

 

 まず上2つのメリットについて、現実で上手くいかない人は、Twitterでも現実と同じように、他人の気持ちを考えない行動をしてしまい、Twitterでも人間関係の構成に失敗する。そこに外見や振る舞いが隠されていることは関係ない。

 

 たとえば、女性ツイッタラーにキモいDMを送ったり、反応もないのにうっとおしいリプライを送りつけたりしてしまうのである。他には、絵かきの人にただでアイコンを描けと迫ったりするやつとかも好例であろう。

 

 というわけで、たとえ外見や立ち振る舞いの欠点を隠せても、そもそもの人間性に問題があるので、現実の人間関係に問題がある人はTwitterでも結局他人と上手くやっていけない。むしろ、自分の欠点が隠れたせいで、無駄に他人に対して強気になっている節すら見られる。なので、外見や振る舞いを隠せるという上2つのメリットは大体意味がない。

 

 また3つめのメリットについて、現実にはいない趣味があう人とTwitterで出会えても、それだけでは人間関係を構成はできない。人間性が必要なのだ。よって、根本的な解決にはならない。

 

 唯一のまともなメリットは、4番目の「ネット上の人間関係だから失敗しても現実にダメージがない」ぐらいしかない。面を合わせた会話が苦手な人が、ネット上でまずは文字だけのコミュニケーションから始め、失敗しながら最終的にその経験を現実にフィードバックするにはいいかもしれない。

 

 結局、Twitterで現実の人間関係を補填するメリットはあまりない。それゆえ、現実で上手くいかない人はTwitterでも上手くいかないといえる。

 

 現実でセックスできない奴はネット通してもセックスできねぇよ。

 

仮に関係が築けても、いずれ崩壊し、大きな傷跡を残す

 仮にTwitterで承認を得たいやつ同士が出会って、需要と供給が一致したとしよう。一見、なにもかもが上手くいきそうにみえる。

 

 ただし、そういう場合、相手もただ承認を得たい人間である。なので、相手は、こっちの人格を考慮していない。つまり、互いに機械的に承認を与え合うだけの歪な人間関係になってしまう(それでいいならいいけど)。

 

 さらに最も重要なのは、相手はこちらを生身の人間として捉えていないので、こちらの承認欲求が重いと感じたらすぐに切り落としてくることだ。そのときの自分の受けるダメージは計り知れない。

 

 たとえば、君は相手のことをネットで出会った運命の人と思っていた。毎日連絡を交換していたし、互いに愛情を確認していた(気になっていた)。ところが、ある日突然連絡が途絶えてしまう(相手が飽きた)。きっかけはLINEがちょっと面倒だったとか、そんなことだ。どうやっても返事がない。捨てられてしまったようだ。その相手に酷く依存している君はどれくらい傷つくだろうか。

 

 ネットで互いの需要が一致して、共依存になった場合、簡単にその依存が深いところまでいってしまう。大分ずぶずぶになったところで片方が飽きて共依存からサッと抜け出す。残された一方は、相手がいないまま、泥沼の底に置いていかれるわけだ。

 

 ネットで出会えても、相手も自分と同じ他人の気持ちの考慮できない人間の可能性が高く、結果簡単に捨てられ、心に大きなダメージを負うことになる。よって、Twitterで人間関係(とくに恋愛)を築くのはおすすめできない。

 

 もちろん自分が相手に傷を負わせるパターンもある。

 

根本的なコンプレックスの解決にはならない

 Twitterで人間関係が築けても、その関係を現実生活に持ち込めるようになるのは、ごく少数である。結局、Twitter内の人間関係はTwitter内にとどまる。

 

 とはいえ、Twitter内の人間関係も自分の承認欲求を少しは満たしてくれるため、どうしてもそれに依存しがちである。擬製の承認で生き長らえるわけである。

 

 しかし、そもそもTwitterに人間関係を求めるようになったのは、「現実の人間関係がうまくいかなったから」である。Twitterの人間関係に閉じこもっていては、結局大元の問題は解決せず、コンプレックスは解消しない。

 

 たとえば、Twitterではネタツイートで有名に、フォロワーも多く、彼らとの交流に満たされている。……ように見えても、結局現実に友達が一人もいなかったら、満たされないのは想像に難くない。

 

 Twitterの人間関係を足掛かりして、現実にフィードバックし、現実生活での周囲との関係を改善しようとするのならば、また別だ。それに関しては、僕はTwitterのある種正しい使い方だと思う。

 

 しかし、そうでないのなら、Twitterで人間関係を構築しても、大元のコンプレックスは解消されずに苦しみ続けることになる。

 

 仮にオフパコできてもお前の身体から童貞臭は消えない。 

 

まとめ 

 以上3つの理由により、現実の人間関係の補填をTwitterで行おうとするとろくなことにならないので、やめたほうがいいと言える。

 

 Twitterは、一番最初にあげた3つの魅力に沿って使えば、便利なツールである。しかし、人間関係を求めて使うとろくなことにならないのだ。

 

 「キモいDMきた!」といって晒されたりメンヘラに依存されていると思ったいたらこっちが依存してしまった挙句捨てられたりTwitterに籠っていつまでも現実に踏み出せなくなったりしたくなければTwitterに人間関係を求めるのはやめたほうがいい。

 

 ……というのを、僕の長いTwitterr歴のなかでひしひしと感じたのでした(非常に痛い目を何度もみた)。

 

 

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【社会人】飲み会のお作法やマナーは本当に必要なのか【上司】

 

 こんばんは、綿箆マナです。


 今回は、飲み会のお作法について、僕の考えを書こうと思う。

 

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飲み会のお作法は必要?不必要? 

 

 前も書いたが、医学生も高学年になると、実習や就活の関係で、現役のお医者さんと知り合う機会が増える。そうすると、仲良くさせていただいた先生に、飲み会へ連れていってもらったりする。

 

 そういう飲み会に参加するとなると、学生の身であっても(だからこそ)お作法を身につけておく必要がある。もちろんお作法以前に、マナーや常識として目上の人には敬語を使うとか、失礼な振る舞いをしないとかは大前提だが。

 

 いわゆる飲み会のお作法とは、

・目上の人には奥の席(上座)に座ってもらう

・目上の人のグラスが空いたらお酒が必要か確認する

・瓶ビールを注ぐ際はラベルの上にして両手で注ぐ

・目上の人と乾杯するときは自分のグラスを少し下げてグラスを当てる

などがあげられる。

 

 こうしたお作法は、社会人の飲み会では必須とされているしかしその一方で、全く意味がない、価値のない価値観の押しつけ、無駄なガラパゴス文化などの批判もある。飲み会のお作法などなくしてしまえばよいという意見もみられる。

 

 たしかに、ビールを注ぐときにラベルを上にしたからといって味が変わるわけでもない。そういう意味では無駄である。

 

 果たして、飲み会のお作法というものは、無駄で意味がない、排除してしまってもいいものなのだろうか。

 

 僕は、そうではないと思う。詳しく言うと、飲み会という社交的な場を運営するにあたって、お作法は便利な道具として使用できるため、無駄ではなく排除する必要もないと思っている。以下に詳しく述べる。

 

 

お作法は実用性より敬意の表現である

 

 現代において、飲み会のお作法の多くは、実用性よりコミュニケーションとしての意味の方が大きい。ビールのラベルの例のように、実用性の観点で見ればお作法にはほぼ意味をなしていないものもあり、不要だといって構わない。しかし、飲み会での上下関係を円滑にするための道具としては、非常に便利なのだ。

 

 たとえば、上座として目上の人に奥に座ってもらうのは、入り口から危険な人が入ってきたとき、目上の人がすぐに襲われないようにするためという、昔のしきたりである。実用性の観点でみれば殆ど意味をなさない。むしろトイレに行きやすい入り口のほうが便利なのではないか。

 

 しかし、上座のしきたりを後輩が行うことによって、先輩へ「私はあなたを目上として尊重しています」という意思表示になる。ここにこそ、上座のしきたりの本当の意味がある。上座が、実用性よりも、コミュニケーションの1つとして利用されているのがわかるだろう。

 

 つまり、こういった飲み会のお作法は、目上に敬意を示すための、パターン化されたコミュニケーションなのである。あなたのこと尊敬しています」とわざわざ言葉にしない代わり、簡単な行動でそれを伝えているのだ。


 お作法は実用性を元にしてはいるが、その実、相手に敬意を簡単に示すための便利な道具としてのほうが本質に近い。お作法は相手に悪い印象を与えることは決してなく、かつ簡単に相手の好意を引き出せる。そういう道具だと思えば、無理矢理捨てるほどのものでもないと思う。

 

 また、少し話は逸れるが、レストランのドレスコードやテーブルマナーも「自分はこの場に相応しい人間だ」と主張するための簡易的な手段である。

 

 まとめると、飲み会でのお作法は、上下関係を円滑にするためのコミュニケーションアイテムであり、無駄で意味のないものや、排除して構わないものではないのだ。

 

目上と目下のすれ違いを解決するには

 

 しかし、実は、お作法が無駄だ不必要だという主張は、実用性がなく無駄という点に端を発しているのではない。

 

 現在の社会において、目下がお作法を守ることは当たり前である。後輩は先輩に敬意を払うために実用性のない行為を強制されるのが普通、という状況なのである。

 

 現代のこのような状況への目下の立場の人間からの反発が、お作法無意味論争の原点になっているのである。結果、目上と目下のすれ違いが発生している。

 

 この問題を解決するには、目上の立場の人の意識に変化が必要だと思う。

 

 目上の立場の人に敬意を払うのは社会人として当たり前である。しかし、目下の人間は自分へ敬意を払うために、ひと手間をかけてくれているのである。そこへの感謝を目上の人は忘れてはいけないと思う(偉そうにすんません)。

 

 自分より立場上では下でも、相手は自分と同じ人間なのだ。当然、存在を尊重しなければならない。だから、自分への敬意を示すための手間をかけさせることを当たり前だとは思っていけない。

 

 具体的には、目上の人は、お作法ができていない後輩を叱ってはいけないと思う。お作法ができていないからといって、必ず相手のことを尊敬してないわけではないのだ。ただその表現の仕方を知らないだけかもしれないのだ。

 

 そういうとき目の上の人は、「お作法は便利なものだから覚えておいて損はないし、社会で必要だから今後はお作法を守った方が都合がいい」と伝えるのがよいのではないだろうか。

 

 また、お作法に沿って敬意を示してくれた後輩には、それを当たり前として扱うのではなく、その手間に感謝し、相手に尊重の意を示すことが必要だろう。

 

 たとえば(?)、僕が現役の医者の先生と飲み会に行って、(ほとんど気が利かないけど)たまに気が利いた振る舞いができたときには、先生方は学生の僕に対しても丁重にありがとうを言ってくださる。そう言ってもらえれば、とてもうれしい。

 

 互いの尊重は感謝は、決して人間関係を悪くはしない。

 

 以上より、僕はお作法に関する目上目下のすれ違いを解消するためには

・目上目下ともに、お作法はコミュニケーションのための手段という認識をもつ

・目下は、目上には敬意を払うという前提のもとで、お作法を便利な道具だと捉えて利用する

・目上は、目下が自分への敬意のために手間をかけていることを当たり前と思ってはいけない

・目上は、お作法に守る目下に対して、その敬意と手間に感謝の態度が必要である

以上の項目が必要だと思っている。

 

 

まとめ

 

飲み会のお作法はコミュニケーションのための便利な道具で決して無駄ではないが

 

目上がお作法を当たり前のものとして目下に押しつけるとすれ違いが生じてしまうので、

 

互いに歩み寄り尊重しあうことが大切なのである。

 

とは言ったけど

 飲み会お作法ではないが、個人的に、判子を上司に向けてお辞儀をするように斜めに押す、というお作法には生理的な嫌悪感を覚えてしまう……(というそんな作法本当に存在するのか。誰かが最近作ったんじゃなくて?)。

 

 あと、就活のESは必ず手書きという、敬意に対して手間や労力が釣り合っていないお作法もおかしいと思う。目上から目下への同じ人間としての尊重が存在していない作法の好例だ。

 

 就活をしたことないが、就活のお作法は、敬意と労力が釣り合っていないものが多い気がする。採用する側とされる側という立場があるから仕方ないのだろうか。それか全部リクルート系企業のマッチポンプなのだろうか????

 

ともかく

 まぁ飲み会のお作法に関してはそんな悪いもんじゃないってことでよろしく頼む。

 

 

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【毒親】ゲーム禁止が引きこもりゲーマーを生み出すメカニズム【束縛】

 

 親の過度な制限は、必ずこどもの将来に悪影響を及ぼす

 

 僕は親ではないし、この先親になる予定も特にない。しかし、これだけは日本の育児界に提言しておきたい。

 

 親の過度な制限は、必ずこどもの将来に悪影響を及ぼす。どういうことか。

 

 たとえば、親がこどもに「有害なもの」に徹底的な制限を強いたとする。ゲーム完全禁止、アニメはドラえもんサザエさんのみ、漫画完全禁止、ジャンクフード禁止、友達付き合いの制限、異性関係の制限などなど。

 

 これらのように、周囲のこどもたちにはある程度許可されているものを、自分のこどもだけに"我が子のよい発育"のためとして制限したとする。

 

 そうすると、こどもは周囲との差を感じ、親の不条理な制限に反発する。いくらその正当性を説明されても、親からの不条理に対しての反発は収まらない。なぜなら、まわりのこどもたちは制限されていないからだ。他の子がよくて、自分だけダメなのはどう考えてもおかしい。ここでしばしば、伝家の宝刀「よそはよそ、うちはうち」が発動されるが、こどもはまったく納得できない。抑圧されたまま少年〜青年期を過ごす。

 

 もちろん、犯罪やそれに近いものに我が子が関わろうとしていたら制限するのは、親として当然である。しかし、犯罪に繋がらなければ、こどもが暮らしている環境の中で標準的な許可から少し厳しいぐらいの許可は与えてもよいのではないだろうか。理由はまたあとで書く。

 

 そうした青年が、大学や就職で実家を離れ、親の制限から解放される。となると、どうなるか。

 

 親の束縛がなくなった結果、「有害」だけど魅力的なものにのめり込んでしまう。今まで親から受けていた制限は、彼にとっては正当性のない理不尽なものでしかなかった。なぜなら、先に書いたように、彼の周りの友人たちはその制限を受けていなかったからだ。だから、その不当な束縛の分を取り戻そうとのめり込んでしまう。

 

 もし「有害」なコンテンツにのめり込んでも、彼に自制心があればよい。しかし、成人の財力をもって、親の監視もなしにコンテンツにハマったら、生活に影響がでるくらい深入りしてしまうかもしれない。

 

 他のこどもたちは、親の監視下でかつ、こどもの財力の範囲で、それらのコンテンツを楽しんでいた。だから、彼らの多くは、「有害」コンテンツとのいい距離の取り方をこども時代に学んでいる。

 

 多くの厳しい教育ママの下す「有害」の判断は、魅力的だがそれゆえにのめり込みすぎて害をでかねないコンテンツにくだされる。つまり、そういうコンテンツは、メリットとデメリットのバランスを考えながら使用すれば、QOLを上昇させるのに、大いに役に立つのである。

 

 しかし、こどもの頃にそれらに触れることなく過ごしてきた彼には、メリットとデメリットのバランスが取れない。どこまでならやってよくて、どこまではやっちゃいけないのかわからない。程度が感覚として備わっていないのだ。結果、後先省みずにコンテンツにのめり込んでしまう。

 

 こどもの頃は親が制限していたものに、一人暮らしになってからどハマりしてしまい、生活に悪影響がでるくらい深入りしてしまう。これはそう少ない事態ではないだろう。

 

 ネットでも、『こどもの頃は一切ゲームさせてもらえなかったけど、今は毎日ゲームしている。ちな30台無職』、『こどもの頃は親が厳しくてお菓子を殆ど食べられなかったけど、大学に入ってからお菓子にドハマりしてしまい、とてつもなくデブったなどの典型例をよく見かける。

 

 僕の周りでもいくつかこのケースがあった。

 

 たとえば、僕の友人の1人は家が厳しく、裕福な割にお小遣いの額が周りより少なかった。周りの友人をまねて彼に変なものを買わさないためだった。中学時代に友達同士でご飯を食べるときも、彼だけはレシートを取り、それを親に渡して必要な分だけお金をもらっていた。先にお金を渡してもらえないので、余計なものを買う自由が彼にはなかった。そのため、彼は昼飯を我慢し、僕の昼飯のレシートを代わりに親に提出することで、お小遣いを稼ぐようになった。そんな彼は今、大学入学で晴れて一人暮らし、バイト代も仕送りも自由に使えるとなって、パチスロに大ハマりしている。

 

 また、中学時代の別の友人は、ジャンプを買うたびに母親がToLOVEるのページだけを切り離していた。彼は中学以来会っていないので、彼がToLOVEオタクになっているかは定かではないが、中学生にもなって少年誌のエロいマンガを親が毎週毎週切り取るなんてどう考えても正気の沙汰じゃない。

 

 例を出したところで、親の過度な制御がこどもの将来に悪影響を及ぼすことを、きちんと証明したい。

 

 こどもはいずれ親元を離れて、「有害」なコンテンツがそこら中に溢れている世界で生活しなければならない。

 

 先に書いたように、「有害」なコンテンツは、距離の取り方を間違えなければ、あまり害なく利用できる。大事なのはメリットとデメリットのバランスが取れるかどうかなのである。

 

 それなのに、「有害」なコンテンツから親の手によって切り離されてしまうと、距離間を学ぶ機会がなくなってしまう。距離感が分からないと、デメリットも顧みずに自分の生活を破壊するほどコンテンツにハマるかもしれない。つまり、「有害」をこどもから遠ざけることで、親は自らこどもが社会で生きる術を奪っているのである。

 

 こういうわけで、親の過度な制御はこどもの将来に悪影響を及ぼすのだ。

 

 本当に親がすべきなのは、部分的に「有害」なコンテンツをこどもに開放し、親の監視や介入の下で、こどもが適切な距離感を学ぶのを補助することである。
 

 問題点は、当の親本人には、自分の制限が過度であるという認識がないことである。親本人はこどものためを思って(と自分で思い込んで)、「有害」なコンテンツを制限しているのである。

 

 先入観やこどもに押しつけているエゴを一度捨ててこどもの保護と自立の2つの観点から、なにが本当にこどものためになって、なにがこどものためにならないか考えるべきではなかろうか。

 

  ちなみに僕は親が健康のためにビーフジャーキーを一切食べさせてくれなかったので、大学入って一時期ビーフジャーキー厨になってしまった(値段的に買い続けられなくてやめた)。

 

 

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