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Watabera Miscellaneous Notes

人生やめてません

(軽度)発達障害者に「気にするな」「誰でもある」と言わないで

 

 発達障害についての話。

 

 

 

発達障害と親子関係(メンヘラ.JPの記事より)

 

 今日、このメンヘラ.jpの記事を読んだ。内容は、タイトルの通り。母親に発達障害について相談しても認めてもらえず、逆に否定された、というもの。発達障害的な失敗に悩む部分と、発達障害をカミングアウトしたときの親の反応に共感できる部分が多かった。

 

 それで、今回は発達障害とカミングアウトについて書きたいと思う。

 

 まずは、うえの記事の内容の要約から(もし記事の内容と違うようであれば教えてください)

 

記事の内容

 記事の著者は、ADHD的な失敗を繰り返すたびに母親に叱られていた。そして、自分がADHDだと疑うようになり、それを母親に相談するも、相手にされなかった。

 

「あんたの悩みなんて大したことない」「(失敗なんて)みんなする。あんたは直す気がないだけ」と言われて育った。言われると実際そんな気もしてくる。本当のことなんてわからない中で、母親は正しいことを言っているように見えた。

 

 そして、著者は大学で発達障害診断用のIQテストを受ける。自分の社会不適合な部分が発達障害によるのか、ただの自身の怠慢なのか区別したかったのだ。結果、ADHDと診断された。

 

 著者は、母親にADHDの診断を伝えることにした。今までADHDを否定した母親に、事実を認めさせ、一言謝罪が欲しかったからだ。しかし、結局、母親はその診断を娘の「甘え」と一蹴して終わらせた。

 

最後に笑顔で聞かれた。
「それであんたは納得したの?」
私は関係ありませんよ、という顔だった。曖昧に笑って誤魔化した。

 

 著者は、母親に見切りをつけ、自分で生きていくつもりだ、と最後を閉めている。

 

発達障害を認めてほしい子、認めない親

よくあるパターン

  発達障害と向き合い、なんとか生きづらさに折り合いをつけようとする子どもと、子どもが発達障害だと認めずに「誰でもあることだ」「気にするな」と主張する親

 

 このパターン、軽度発達障害の子ども(青年)には多いのではないだろうか。

 

 子ども側は、今までの自分の失敗経験(や、それで親に叱られたこと)に発達障害の影響があった、と親に認めてもらうことで、楽になろうとしているのだ。なぜなら、「障害のせい」という不可抗力の存在を親に認めてもらうことで、今までの失敗の自分の責任が消え、自分を苦しめる低い自己評価から解放されるからだ。この「楽になろうとする行為」は、別に悪いことだと僕は思わない。ただ、発達障害で二次的に生じた認知のゆがみを直しているだけだからである。

 

 一方で、親側は子どもの主張をそう重く取り合わない。発達障害に関する知識が少ない、自分の子どもが「障害」だと認めたくない、など理由は色々ある。このパターンにおいて親は、「気にしすぎ」「その程度みんなある」「お前の甘えだ」というように、暗に「お前は発達障害じゃない」と子どもに伝えるだけで終わる。「お前の悩みは分かったが、それはよくあることで、わざわざ障害というほどのものじゃないから頑張れ」大体こんな感じが親の主張の終着点だ。

 

 そういう反応された子ども側のダメージは大きい。なぜなら、親が気づかないだけで、子どもからしたら「今までのお前の失敗は、発達障害が原因じゃなくて、お前自身が悪いだけだ」と言われたのと同じだからだ。さらに、自分が深刻に考えたうえで相談したことを軽くあしらわれたら、実の親に拒絶されたという記憶しか残らない。

 

 もちろん、親のほうも悪気がない場合がほとんどだろう。むしろ、自分の子どもに元気になってほしくて、障害を否定している場合もあるだ。しかし、それが大きなすれ違いを生んでいる。少なくとも、子どもは心に傷を負って終わる。

 

 ここでは、親と子どもについて書いたが、友人同士の発達障害のカミングアウトでも同じだと思う(そのことも記事の著者は書いている)。

 

悩みの受け手へのお願い

 相手(子ども、友人)はそれなりに深刻に考えたうえで、あなたを信頼して相談してきている。相手の悩みが取るに足りない誰にでも当てはまるようなものに見えても、最初から否定するのはやめてほしい。よければ、悩みを聞いてあげて、たしかにそういうところもあったかもしれないね、と曖昧にでも同調してあげてほしい。少なくともあなたが否定せずに言葉をかけてあげることで、きっと相手は救われる。ただ、もちろん発達障害診断は医療機関でしかできない。よって、未診断の人で、悩み続けるほど生活に影響がある人には、最終的に受診を勧めたほうがよい

 

僕の発達凹凸と親への相談

 最後に僕の話を。

 

 僕も大学に入ってから、「他人の会話への割り込み」「多動傾向」「暗黙の了解が理解できない」「動作が常にぎこちない」など、自分の発達障害を疑い、(それで二次的な障害が出たのもあって)、メンタルクリニックを受診し、WAIS-Ⅲ(発達障害診断用のIQテスト)を受けた。

 

 テストの結果を受けた主治医の判断は、「発達に凹凸があり、障害の傾向はあるが、典型例ではなく診断まではいかないグレーゾーン」だった。診断がつかず自分の生きづらさをどこにぶつけたらいいのだろうか、という思いと、それでも症状が重いよりは軽いことを自分個人については喜んでいいのではないかという思いで、しばらく混乱していた。しかし今は、ある程度の生きづらさを抱えても、なるべくそれに対応しながら生きていこう、と自分のなかではある程度まとまってきた。

 

 そのように自分のなかで整理がつく前、両親に相談したことがあった。親には話さまいと思っていたが、酒の席でつい親に相談したくなった。「今まで~~でしんどかったから、知能テストを受けた。結果はグレーゾーンで、診断はつかなった。でも、自分としてはやはり生きづらさがあって、これは障害だと思う」相談というより半ば愚痴だったのかもしれない。自分を育ててくれた親に、「たしかそういうとこもあったかもしれないな、それが原因だったのかな」などと、僕が生きづらさを抱えていると認めてほしかった。

 

 しかし、両親は(おそらく僕を心配させまいとして)、「そんなの私もあるし誰でもある」「考えすぎ」「それなら誰でも発達障害だ」と言った。両親が僕のことを思ってそう言ったのは分かっていた。それでもやはり僕は辛かった。自分が生きづらさを抱えていると親が認めてくれなかったこと、自分が深刻に考えたことを親が軽く流したこと、この2つが僕に与えたダメージは大きかった。ただただ、両親に拒絶されたような印象だけが残った。二度とこの件で親に相談しまい、と思った(結果、別のトラブルが生じたが)

 

まとめ

 最後にもう一度。発達障害診断済みの人、自分を発達障害かどうか悩んでいる人から相談されたら、誰にでもある悩みにみえても、「気にするな」「誰にでもあることだ」と言わないでほしい。相手のことが不快でなければ、その悩みに耳を傾けてあげてほしい。それだけで、相手の心は軽くなるのだ。

(ただ、個人でどうこうできる問題ではないので、最終的には医療機関に任せる)

 

 以上、ワタベラマナでした。ありがとうございました。

 

 

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夜景と高級ディナーの画像ばかりをTwitterにあげるやつは本当に富裕層か?

 

 今日、僕のタイムラインに流れてきたツイート。

 

 

 娘のいたずらに激怒した夫に八つ当たりされたので、ケーキを作ってプチ反論した。という内容のツイート。直接言ったら喧嘩になることでも、子どもっぽくケーキに書くことでユーモアに変わる、と結構ウケてバズっている。

 

 リプ欄には、奥さんのユーモアを称賛するツイートが殆どを占めている。たまに、奥さんのやり方を陰湿だと批難するものも見られたが、あくまでそれはほんの一部。ネットの民(この場合は既婚女性が有意に多い可能性があるが)の意見は、「夫の理不尽な怒りに、余裕をもった反論をする奥さんステキ!」という論調だった。

 

 そのあとに流れてきたツイートがこれだ。

 

 

 ツイート主のページを見る限り、明らかに上のツイートに対しての批判である。ただし、このツイートには、奥さんのやり方が陰湿だ、という先ほどのリプ欄の批難ツイートにはなかった新たな視点が備わっている。それはなんだろうか。

 

 その視点とは、「ネットに投稿されたものには必ずそれをアップした人間が存在する」というものである。この場合は、「1連の事件をネットにアップした奥さんの姿」に気づく視点である。

 

『こんな陰湿な行為をSNSにアップしてRT稼ぐような妻だけは持ちたくないですね。』

 

 ここで、白饅頭さんは、「メッセージケーキでの反論」「それをわざわざSNSを投稿する行為」の2点で、前ツイートの奥さんを批難しているの。

 

 ケーキでの反論の是非は、夫の八つ当たり度合いや普段の夫婦の関係にもよるので、なんともいえない。(ただ、1歳娘のいたずらという不可抗力といっても、テトリスの記録が消えたのは夫にとってショックだったはずなので、一生テトリスやってろという煽りは陰湿だと思う)(もちろん八つ当たりしていいわけではない)

 

 しかし、「八つ当たりしてきた夫に対してメッセージケーキで反論した」というツイートをアップして、夫をネタにネットの反応を集めている姿は間違いなく滑稽そのものである。批難されても仕方ない。これをTwitterにアップして、多くの人に自分を褒めさせ、同時に夫をネットの人間に攻撃させるのは、よい憂さ晴らしになることだろう。しかし、それは褒められた行為だろうか。決してそうではないだろう。

 

 このように、「ネットに投稿されたものには必ずそれをアップした人間が存在する」という視点は、ネットで騙されないために重要である。

 

 SNSなどネットの投稿では、「こんなことがあったよ!」の「こんなこと」ばかりに焦点が当たりやすい。それを写真に撮ったり、文に書いたりして、ネットにアップしている人間の存在は、「こんなこと」の陰に隠れて見逃しやすい。そして、投稿の裏に隠された、それをネットにアップしている人間の姿は、非常に滑稽だったりする。

 

 たとえば、インスタやTwitterに、オシャレな高級料理店の食べ物の画像がアップされたする。それに対して、アップされた情報のみに注目すると、お洒落だなぁとか美味しだなぁとかいいなぁ、などの感想が予想される。しかし、「ネットに投稿されたものには必ずそれをアップした人間が存在する」の視点からこの投稿を見てみると、高級料理店でスマホを取り出して料理の写真を取り出す人間の姿が浮かび上がってくる。「オシャレな高級料理の画像」はよいものだ。しかし、「SNSにアップするために高級料理店でスマホで写真をとる人間」の姿は、周囲からしたら笑いものである。高級料理の写真に騙されると、その人を品のある人だと思ってしまうかもしれない。しかし、実際は「高級料理の写真をネットにアップする人」でしかないのだ。

 

 (くだけた話をすると、今日は六本木の~~でディナーとかいって、料理と夜景の写真を撮ってる人とかいるでしょ。白衣俳優の医者垢とか。アレ、ネットにあげるために、要は高級な店に通う俺を異性にアピールするために、オシャレな店でわざわざスマホ出して写真撮ってるんだよ。ダサくない?本当にそういうとこに通うのが当たり前な人は、そういうアピールする必要もないから、そんなことし)

 

 2ch(5chか……)やTwitterの匿名の書き込みにも、当然それを書き込んでいる人間がいる。まっとうな主張のような顔を批難されると、その文面だけを受け取って、それが正論だと信じてしまいがちである。しかし、その書き込みも、現実にそれを入力した奴が存在する。そして、そいつが実際どのような人間なのかは分からないし、同時にその書き込みの信憑性や意図も不明である。愉快犯で嘘を書いているのかもしれない。ネットでよく見られるように、叩きたいから叩いてるだけかもしれない。そう考えると、不確実な情報に踊らされたり、批難に無駄に心乱されたりせずにすむ。

 

 また、この視点は、自分がネット上の誰かを不快にさせないためにも重要である。Twitterではアイコンとツイートだけが連なって、その奥に生身の人間がいることをしばしば忘れてしまいがちである「ネットに投稿されたものには必ずそれをアップした人間が存在する」と頭の隅に置いておけば、画面の向こうの人間を気遣うことができる。

 

 「ネットに投稿されたものには必ずそれをアップした人間が存在する」という視点、ネット社会で過ごすには、非常に重要な知見ではないだろうか。

 

 ワタベラマナでした、ありがとうございました。

 

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家庭教師のお姉さんにおっぱい揉ませてもらいたい

 

「先生、いつもありがとうございます。家庭教師、先生にお願いして、本当によかったです」

 

「どういたしまして。でも、どうしたの。急に改まったりして」

 

「じつは……僕、先生に言いたいことがあるんです」

 

「なに?」

 

「僕、家庭教師のお姉さんにおっぱいを揉ませてもらいたいんです」

 

「……」

 

「……すみません、急にこんなこと言ってしまって……でも僕は本気なんです」

 

「冷静になって」

 

「いえ、僕はいたって冷静です」

 

「さっきの発言は冷静じゃないよ。とりあえず落ち着こうか」

 

「…………落ち着きました」

 

「よかった、じゃあ今の変な発言は聞かなかったことにするから」

 

「いえ、なかったことにされては困ります。話は続くんです」

 

「続かないよ!!」

 

「続きます」

 

「なんで突然そんな話してくるのか、全然分からないよ……」

 

「それはですね。僕が中2のときに、家庭教師のお姉さんに筆おろしされるAVを観て、以降のそのシチュでしか抜けなくなってしまったからです。さすがに、現実で筆おろし無理です。でも、おっぱい揉ませてもらうのなら、頼み込めばチャンスがあるんじゃないか、と思いまして」

 

「そう言われても分からないって!!」

 

「分からない?……あぁ、女優の名前ですか、綾城ゆりなです」

 

「ちがうよ!!」

 

「どうちがうんですか」

 

「そもそも、さ」

 

「はい」

 

「それ、俺にする話じゃないよね」

 

「え、なんでですか。これは先生に向かう話すための話題ですよ」

 

「おかしいよ。仮に、仮にね。もし俺が女の子だったら、それを言う意味は分かるよ。いやもちろん言っちゃダメだけど」

 

「はぁ……」

 

「でも、俺は男だよ。男の家庭教師に、『家庭教師のお姉さんのおっぱい揉みたい』って言ってもどうしようもなくない?」

 

「どうしようもあります」

 

「ないよ!!」

 

「いえ、ですから、話は続くんです。最後まで聞いてください」

 

「?」

 

「僕は、どうしても家庭教師のお姉さんにおっぱい揉ませてもらいたいんです。ここまでは、OKですね?」

 

「あ、うん」

 

「でも、男である先生が家庭教師の状態では、絶対無理な話です。このままだと、この夢を叶えられないまま、高校を卒業してしまいます。なんとかして、家庭教師のお姉さんが家にくるシチュエーションを作らねばならないのです。そこで、非常に申し訳ないのですが……」

 

「なによ」

 

「新しい家庭教師を呼ぶために、先生には今日限りで家庭教師をやめていただこうと思いまして……」

 

「え、あ、あぁ、うん…………やめるわ」

 

「本当にすみません。今までお世話になりました」

 

「いいよいいよ、もう」

 

「あと、できたら……」

 

「うん」

 

「先生のお知り合いの女性を、家庭教師として紹介してもらえませんか?」

 

 

 

(注:綾城ゆりなが家庭教師モノにでてるかは不明です)

 

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watabera.hatenablog.com

 

感動コンテンツとして消費される映画と小説

 

 小説とか映画とか音楽とか漫画とか、そういう芸術作品を、僕はぜんぶ自分の感情を動かすために消費している気がする。

 

 『黒い家』とか、『クリムゾンの迷宮』とか、貴志祐介のホラー小説が好きだ。あの人の作品が、恐怖を可能な限り実在化させて、生死のかかったヒリヒリするスリルを味わせてくれるからだ。

 

 『凶悪』とか、『アウトレイジ』とか、『冷たい熱帯魚』とか、過度な加虐描写がある映画が好きだ。これらの作品が、日常では味わうことのない加虐する感情の昂ぶりを与えてくれるからだ。なんか中二病ぽくなってしまった。

 

 『The Autumn Song』とか、『コバルトブルー』とか、『Welcome To The Black Parade』とか、喪失を歌った曲が好きだ。これらの作品が、大事なものを失う悲しみを仮想的にでも体験させてくれるからだ。

 

 『空が灰色だから』とか、『死にたくなる~(略)~日々』とか、阿部共実の漫画が好きだ。これらの作品が、僕の人間関係によるコンプレックスを刺激するからだ。

 

 こんな風に、様々な種類の作品を、僕は自分の感情に揺さぶりをかけるために消費している。

 

 自分の感情に揺さぶりをかけたいということは、普段から感情の動きに飢えているのだろうか。僕の生活は、感情の動きのない、退屈で平坦なものなのだろうか。

 

 考えてみると、たしかに、特定の場合を除いて、僕の生活において感情の暴発的なものは、可能な限り抑えられている。感情を無暗に動かしてしまうと、非常に本能に沿った、自分の欲求に素直な行動を取ってしまう。それを防ぐために、なるべく平坦な心理状況を心がけているようだ。

 

 しかし、その生活を続けるうちに心理状況が活動のない状態に凝り固まってしまった。水族館の魚を見ても、桜が満開なのを見ても、なにも分からないときもあった。肩こりならぬ、感情こりが発生していた。

 

 どうやら僕は、感情へのマッサージとして、小説/映画/音楽/漫画を利用していたらしい。

 

 ここまで考えたことは、あくまで僕個人に関する分析である。しかし、こういう状況は、日ごろストレスを浴び続けている社会人では、珍しくないのかもしれない。

 

 鈍麻した感情へのマッサージとして、誰かの創作物を消費する行為ははたして是なのだろうか。べつに、絶対的に悪い行為ではないはずだ。しかし、もっと、創作物に対する態度があるのではないか、とも思う。

 

 創作物で感動することは当然、悪ではない。しかし、その感情の動きだけを求めて、作品の細かい部分を無視するのはよろしくない。なぜなら、その細かい部分を作者が工夫したからこそ、全体としての作品が大きな力をもって、客の感情を動かすからだ。感動の立役者である細部に敬意を払わずに、作品を自分の価値観でぼんやりと雑に捉えてしまうのは、決して作品や作者に対して礼儀のある行為とはいえない。そういう捉え方をすると、作品が「泣ける」とか「怖い」とか、画一化した枠組みでしか認識されなくなり、そのまま消費されてしまう。しかし、僕も含め、その「作品の画一的消費」が現代日本では横行している気がする。

 

 最近のテレビでやってる映画のCMで、観客が「~~サイコー!!」とか「本当に泣きました!!」とか感情を高ぶらせて感想を述べるCMをよくみる。アレこそまさに、「作品の画一的消費」の象徴ではないか。現に、ああいうCMは映画の内容がどうであろうと、ほとんど同じ光景が繰り広がられて終わる。映画にたいして、自分を感動させるモノという捉え方をしているからこそ、自分の感情の動向ばかりの感想を言い、そして同じようなやり方で多くの作品を消費していく。

 

 べつに創作物に対する正しい楽しみ方があるとか押しつけるつもりはない。そして、正しい楽しみ方の定型などおそらく存在しない。しかし、いろいろな創作物をすべて「感動コンテンツ」と捉えて消費するのは、作品や作者に無礼であるとして間違いないだろう。

 

 僕も他人の創作物への接し方を改めたい。ワタベラマナでした。

 

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医学部受験に才能でなく努力だけで合格する勉強法②~勉強計画~

 

 こんにちは、ワタベラマナです。

 

 今回は、医学部受験に才能でなく努力だけで合格する勉強法②ということで、高校入学から受験期までの勉強計画について、書いてこうと思う。

 

 ①を読んでない人は、先にこちらから。

 

 

 それでは、「高1~2年の勉強の仕方」、「受験勉強の開始時期」、「高3(浪人)の勉強計画」にわけて解説していく。高3生や浪人生は、3つ目まで飛ばしてもらって構わない。

 

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高1~2年の勉強の仕方

高1~2年の勉強の重要性

 「高1~2年間の勉強で、自分の行ける大学や学部が決まってしまう」と言ったら、驚かれるだろうか。しかし、これはある意味真実なのである。

 
 なぜなら、高校1~2年が「受けれられる大学が決まる時期」で、高校3年は「その大学に受かるかどうかが決まる時期」だからである。

 

 高3になったら誰もが勉強する。にも関わらず、高3になった時点で志望校を受験する集団のレベルに入っていなかったら、どうなるだろうか。自分よりも元々レベルが高い集団が、合格のために勉強してさらにレベルがあがるのである。いくら自分が勉強しても彼らも勉強している。その差を埋めることが果たしてできるだろうか。結局、彼らのなかで合格争いが行われて、自分はその集団にすら入れないという事態におちいる。

 

 もちろん、勉強の効率や努力の差で、立場が逆転することもあるだろう。しかし、それは決して容易なことではない。現に、高校時代、多くの同級生が最終的に志望を落としていくのを見た。合否争いの集団に入れないレベルなら、最初から合格は望めない。志望を下げるしかないのだ。そうならないに越したことはない。

 

 つまり、高校1~2年で勉強を疎かにすると、そもそも目標の大学を受験するレベルに辿りつかないので、結果として自分の行ける大学や学部が決まってしまうのだ。

 

 浪人しても、この状況はそう変わらない。現役時代に、目標の大学を受験できるレベルに到達している人は、1年間「合格するための勉強」に専念できる。しかし、そうでない人は、まず「その大学を受験するレベルを獲得する勉強」をしなくてはいけないので、余計な時間を取られるのだ。この差は非常に大きい。

 

 高1~2年で、「目標の大学の受験するレベルに到達する勉強」しておくことが、受験で自分の目標達成に非常に重要なのである。

 

高1~2年の勉強法

 高校1~2年での勉強の大切さを分かってもらったところで、具体的な話に入っていく。

 

 では、目標の大学、つまりここでは地方国公立~地方旧帝医学科だが、を受験するレベルに到達する勉強と言っても、なにをしたらよいのだろうか。

 

 それは、「穴を作らないような勉強」だ。

 

 では、さらに具体的に、穴を開けない勉強とは、どういうことか。「分からない分野を作らない」「忘れてもよいので一度は暗記、もしくは理解する」「完璧でなくても80%には到達させる」といったことを「穴を作らないような勉強」という。

 

 穴、知識や理解が不十分な分野、を作ってしまうと、高3になってからその穴を埋めるために勉強しなくてはいけなくなる。すべての科目、すべての分野で高い完成度が求められる医学部医学科受験勉強では、そのような穴は大きなロスを生む。

 

 だから、医学科受験生は、高1~2の間に習う分野について、すべてある程度の完成度にしてから次に進む必要がある。「今はよく分からないから、また勉強すればいいや」は全然よくないのである。

 

定期テストが便利

 そこで、穴を作らない勉強に役立つのは、学校の定期テストである。もちろん、学校によって、定期テストのレベルや内容は変わる。しかし、定期テストは、名前通り定期的に分野ごとに行われるので、忘れてもよいので一度は暗記、もしくは理解する」ために、非常に便利である。穴を作らないために、活用しない手はない。

 

 よって、高1~2医学科受験生には、学校の定期テストで高得点を取るように勉強し、分野ごとに一度は完璧に状態にすることが、お勧めされる。定期テストで高得点をとり、それを積み重ねれば、受験への盤石な土台となるのだ。

 

 ただし、国語や英語の読解に関しては、定期テストの点をあげることがそのまま「穴を作らない勉強」に繋がるとは言い難い。よって、それらに関しては、個人の好きにすればよい(古文法、古文単語、漢文句法、英単語、英文法は穴を空けないこと)。

 

模試も便利

 定期テストと同じように、模試も便利である。模試にむけてその範囲の完成度を高めることが、あとあと効いてくる。

 

 

受験勉強の開始時期

 開始時期の定め方

 ここでの受験勉強とは、「学校や塾の課題以外に自分で計画立てて勉強を進める」「1日の自由時間は基本的に勉強に使う」ことである。

 

 一体、いつから本格的な受験勉強を始めたらよいのだろうか。

 

 言ってしまえば、人それぞれである

 

 人それぞれではあるのだが、それでは解説にならないので、もう少し詳しく書きたい。

 

 上に述べた通り、高校1~2年は「受けれられる大学が決まる時期」で、高校3年は「その大学に受かるかどうかが決まる時期」である。

 

 それを考慮すると、受験勉強を始めるのは、「自分が志望校のレベルに到達するのにかかる期間を、高2の春休みから引いた時期」が最低ラインだろう。

 

 たとえば、自分が志望校の受験生レベルに到達するのに3ヶ月としたら、高2の12月から受験勉強を始めるわけだ。12月から2月終わりにかけて、自分の足りていない分野を勉強して、なんとか志望校のレベルまで到達する。そして、3月から合格するために、各分野の完成度をさらにあげていくのだ。

 

 ただし、これは最低ラインなので、もっと安定させたい場合はより早くから始めるに越したことはない。

 

模試の判定結果を利用しよう

 そして、「自分が志望校のレベルに達しているか否か」を判断するのには、当然模試が便利である。駿台とか河合とかそういうやつだ。模試を受けて返ってくる評価表には、志望校の判定から自分が苦手な分野まで、役立つ多くの情報が載っている。活用しない手はない。

 

 具体的に何判定なら志望校のレベルだとかは、時期と場合によるのでなんともいえないので、学校や塾の先生やチューターに聞いてほしい。ただ、たとえば、地方国公立医で高2の冬までD判が続いているのであれば、志望校のレベルに達しているとは言えないだろう。

 

高3(浪人)の勉強計画 

 さて、いざ高3になったらあとはもう勉強するしかない。

 

 いくら模試の判定が悪くても、苦手な科目があっても、勉強以外に合格に近づく方法はない。悩んでても偏差値は上がらない。

 

 とはいっても、がむしゃらに勉強するよりも、科目ごとの特色を考えて計画立てた勉強を行ったほうがいい。「1年間のどの時期に、どの科目を重点的に勉強するか」は、塾の先生などと相談してある程度決めておこう。もちろん志望校の2次試験に必要な科目や配点によって変わってくるが、ここには科目等ごとに、僕の考えを書く(具体的な勉強法についてはまたつぎの記事で)。

 

数学・英語

 基本的に数学や英語は2次試験で使用されるうえに、短期間でどうこうできるものではない。重点的に勉強するのは早いほうがいい(とくに苦手な場合は)。高2の春から高3の夏までかけて、じっくり詰めていくのが よいだろう。それでも満足できる水準に達しなかった場合は、他の科目との兼ね合いを考えながら、続けていくしかない。

 

国語

 2次試験には使われない大学が多いが、センター試験での配点は間違いなく侮れない。毎年多くの受験生がセンター国語に泣いている。

 

 古文漢文の暗記事項も含めて、この科目も短期間でどうこうできるものではない。かといって、2次試験に使われないのに、あまりにも力を入れすぎるわけにはいけない。よって、高2の春から高3の夏まで、英数の裏で少しづつ勉強し、模試で出来を確認するのがよいだろう。

 

理科

 多くの医学科受験で、センターでも2次試験でも必要な科目である。理解すべきことや暗記事項も多い科目だが、それらの基礎がある程度あれば、重点的に問題演習するのは多少あとまわしにする手もある。高3の夏休みまでのメインは英数に譲って、秋の間に理科を重点的に勉強するのは、戦略としてアリである。

 

社会

 基本的にセンター試験のみの科目である。さらに多くの大学で、その配点は他の科目の半分である(理科は物化、生化で1科目として)。点数配分を考えると、この科目にあまりにも時間を割くのは吉とはいえない。よって、センター前までは、基本的に学校の授業をメインにし、模試の前に詰めるように勉強するのがよいのではないだろうか。ただし、どうしても苦手な傾向があるなら、夏休みなどの時間がある時に時間を割くのも悪くはない。

 

センター試験

 医学部医学科受験は、ほかの難関受験よりもセンター試験の点数の配分が大きい(場合が多い)。よって、センター試験で高得点をとることが肝だと言われる。

 

 しかし、センター試験の勉強ばかりしても2次試験で点が取れなければ、結局落ちてしまう。そして、センター試験の内容は、2次試験の勉強で対応できる部分も多い。つまり、(国語、社会を除いて)2次試験に対応する力をあげることがまず肝要で、センター試験特有の対策はセンター試験が近づいてからしたほうがよい。

 

 では、いつからセンター試験の対策すればよいのか。これもまた、2次試験勉強など人にはよるが、大体11月~12月だ。自分で時期を決めて、その時期が来たら一気にセンター試験の模試演習や過去問演習で、センター試験の勉強に専念しよう。12月終盤や1月からだと、センター試験の問題の癖に慣れるのに時間が足りないだろう。

 

高3になったら

 これは恩師の受け売りだが、高3になったら志望校の赤本を買って、昨年度の問題をまるごと解いて自己採点するとよい。

 

 そうすることで、今の自分と合格との間にどれくらい距離があるのかどれくらい勉強したらいいのか、実感できる。それがやる気に繋がる。

 

 また、その際には、志望校の配点もちゃんと確認しておこう。勉強時間の配分に大きく関わってくる。

 

まとめ

 まず、高1~2年の間には、定期テストや模試の前にしっかり勉強して穴を作らない。

 

 受験勉強の開始時期は、「自分が志望校のレベルに到達するのにかかる期間を、高2の春休みから引いた時期」が最低ラインで、早いに越したことはない。

 

 高3になったらまずは志望校の赤本を1年分解いて自己採点しよう。また、1年間の勉強計画を、先生と相談しつつ立てよう。

 

追記

 ここまで偉そうに色々書いたが、僕もこのすべてを実践できていたわけではない。高2の冬なのに、化学が全然わかっていなかったし、定期テストの勉強をサボったこともあった。

 

 勉強計画というのは、基本的に上手くいかないものである。だから、目標に失敗してもへこむのではなく、また計画を修正してやっていけばよい。

 

 つぎはとうとう、科目・分野ごとの具体的な勉強法/参考書について書く予定である。それでは。

 

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お月見旅行記

 

  こんにちは、ワタベラマナです。昨日書きました

 

 十五夜がどうの、中秋の名月がどうの、という情報をネットで手に入れた。今日は、月が綺麗らしい。そこで、僕は、月見をすべく、コンビニにビールを買いにいくことにした。

 

 コンビニについた。しかし、家を出てすぐのコンビニには、アサヒとかサッポロとか定番のビールしかなかった。なので、僕は、遠くのコンビニまで、オシャレビールを探して歩くことにした。水曜日のエール?とかそういう名前の、常時発売ではないやつが飲みたかった。普段と違う気分に浸りたかったのだ。

 

 秋の夜は、さすがに部屋着では寒かった。半ズボンの隙間から風が侵入してくる。ベガス(バンド)のパーカーを着てこなければ、確実に戦略的撤退におちいっていた。空気自体がすべて冷え切っているのだ。この温度だと、どうせすぐ冬になるのだろう。

  

 歩いていると、二階の部屋から盛大に音漏れさせている家があった。低音が回りやすいのか、道路でまでブンブンいっている。なんの曲だろうと、しばらくその家の前で立ち止まっていた。

 

 結局なんの曲か分からないままにその家の前を去った。なぜなら、その家の住人の高校生が自転車に乗って帰ってきたからだ。自転車が角を曲がってきて、もしやと思ったら、案の定、彼がその家の横に自転車を止めた。彼は、明らかに不審な人を見る目で、僕を見つめた。とりあえず、僕は下手なステップを少しかましてごまかしてみた。どうやら効き目がなかったので、そそくさと早足で去った。そしてそのまま、二軒目のコンビニに逃げ込んだ。

 

 めでたいことに、二軒目のコンビニでお目当てのお洒落ビールはあった。2種類のお洒落ビールを取り出して満足した僕は、つまみも買わずにレジに向かった。金がないのだ。

 

 ビニール袋を左手で握ったまま、コンビニから出た。そして、そのまま1つ目のビールの封を開けた。帰り道すがら飲んでやろうとしたのである。中島らもとかのアル中系アーティスト、そういうのになりきってみたかったからだ。それでも、他の人に飲み歩き(まさに言葉通り)を見られるのは、恥ずかしかった。イキってると思われたくなかった。なので、コンビニの明かりが届かなくなってから、ビール瓶(最近のお洒落ビールは小さい瓶に入っているのだ)に口をつけた。

 

 苦い!!口に液を入れた瞬間、舌から鼻腔までぜんぶが苦くなる。僕は思わず、渋い顔になった。いや、こいつを嫌いになるのは、まだ早い。もう一口飲んでみよう。うぇっ、やっぱり苦い。これがお洒落ビールなのか?お洒落は、まだ僕には早かったのか?いや、お洒落ビールのお洒落とは、世間では苦みを指すのかもしれない。……言い訳しようと、どう考えても苦いもんは苦い。

 

 そこまで考えて気づいた。これでは台無しではないか!!ほんとは、アル中アーティストよろしく、一杯ひっかけながらご機嫌で、自宅まで戻る予定だったのだ。それが、今の僕はどうだ。似合わないビールを掴んだオタクが、渋い顔してとぼとぼ歩いてるだけではないか。もはやイキれてすらない。これは違う!断じて僕の計画と違う!僕が思い描いていたのは、もっとかっこいい……あぁ……。

 

 自分だか、このまずいビールだか分からないが、腹が立った。腹が立ったので、その場で残りをイッキした。くそう、やっぱり苦い。不味いぞコレは!!そして、家まで走って帰った。これ以上、今の自分の状態を維持したくなかった。はやく自分の部屋に戻りたかった。飲んで走ったら、当たり前のように気持ち悪くなった。くそ、いつも俺はコレだ。理想から、斜めに転げ落ちていく。いつも……。

 

 そうして、家に戻って、憂さ晴らしに、と今これを書いているわけである。月を見るためにビールを買ったが、今僕の部屋のカーテンは閉まっている。月は見えない。見ない。なにもかも本末転倒だ。なにをしに、僕は家を出たのか。

 

 ところで、前読んだ文章のハウツー本に、『飲んだら書くな 書くなら飲むな』、とどこかの標語をオマージュした言葉が載せてあった。要は、酔った状態で文章を書くのはやめろ、ということだ。理由は忘れたが、とにかくろくなことにならないらしい。今まさに僕はその標語を無視している。飲酒執筆である。

 

 いや、しかし、飲んで書くのは本当によくないのだろうか。先の故中島らもは、酔っ払って寝て起きたら、原稿が出来上がってたなんてことが、たまにあったらしい。中島らもだけじゃなくて、外国の作家でも同じような話はある。クスリをキメて記憶がないあいだに、一作書きあげたことがあるとかないとか……。やっぱり飲んでも書ける人には書けるのだろう、書ける人には。

 

 僕個人としても、飲酒執筆は悪い点ばかりではないと思う。普段は社会的理性に押さえつけられていた、自分も知らない本音がぽろんと出てきたりするからだ。

 

 よいとかわるいとかの前に、キーボード操作がおぼつかなくなってきた。2本目のせいか。この辺でやめにする。

 

 ちなみに、2本目のお洒落ビールは美味かった。お洒落ビールも捨てたものじゃない。

 

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ハタチは過ぎた、いつになったら大人になれるの?

 

 2chのまとめで『俺23だけど周りの奴らが車に興味なさすぎて泣ける』という記事タイトルを見つけた。

 

 23かぁ……。その数字は、僕にとってかなり上の年齢に聞こえた。しかし、冷静に自分の年齢を考えてみれば、かなり上でもなんでもない。6年制大学の高学年という時点で、20を超えてから幾年が過ぎている。

 

 にも関わらず、その23という数字は圧倒的な上の年齢の雰囲気を醸し出したままである。僕のなかで、23歳は若いけれど自立した大人のイメージだ。それが僕には非常に遠い。僕の実年齢はほぼ変わらないのに。

 

 23歳がもつ自立のイメージから僕は遠いところにいる。いまだに上手く部屋の片付けができないし、金銭的な部分は親に頼っているし、自分という個人を確立してもいない(或いは、そんな日は来ないのかもしれない)。僕は、僕自身をまだ幼いと思っている。だから、23歳が遥かな年上に見えるのだ。

 

 年齢が重なるスピードに、僕が成長するスピードが追いつかない。時間ばかりが経って、僕は同じ場所で足踏みしている。僕が幼さを捨て去ろうとする日が見えない。僕が23歳になったとき、僕の年齢としての23歳と想像上の23歳は一致するだろうか。いや、しないのだろう。

 

 普通に生きていけば、大人になれると思っていた。

 

 しかし、それがどうだ。同級生たちはもう社会に出て、労働し、自分の力で生活しているというのに、僕は親の金で暮らし、実習が終われば家でだらける日々だ。僕のなかの大人とは似ても似つかない状態である。

 

 時間だけをこなせば、能力と人格が身についた、大人という成虫になれると思っていた。しかし、待てども、羽化どころか蛹になる兆候すらない。こどもと大人が、連続する線上にあることに気づいたのは、ついこないだである。

 

 いや、わからない。もしかしたら、ある日突然背中に蝶の羽が生えて、僕は大人になれるのかもしれない。大人になった僕は、そのご自慢の羽とともに、自信たっぷりに生きていくのだ。そうなれば、僕はもう23歳になれるだろう。

 

 蝶よ、蝶の羽よ、はやく僕の背中に。

 

 

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