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Watabera Miscellaneous Notes

人生やめてません

読書は俺たちを救う

 

就活の履歴書に『趣味 : テニス』と書こうとした。体育会系畑の人間だとアピールしたかった。しかし、テニスをしていたのは数年前だ。張ってるガットの種類を聞かれても答えられないのでやめた。結局、『趣味 : 読書、釣り』になった。外出はするアピールだけはしておいた。

 

(仕事)社会受けを気にせずに履歴書を書くなら『趣味 : 読書、映画鑑賞』だと思う。釣りが趣味なのは嘘ではない。ただ海に行く回数よりTSUTAYAに行く回数の方が多い。大事なことを忘れていた。社会受けを無視するならそもそも履歴書は書かない。二郎系ラーメンを食べたその足で面接会場にアポ無し訪問する。そして、胸元の油染みを見た面接官が僕に100点をつける。

 

読書も映画鑑賞も誇れるほど作品を知らない。昔の名著や名画にも詳しくない。しかし、最近は自信を持って趣味だと言えるようになった。やがて、会話中に承認欲求が暴走することが少なくなった。僕が本や映画が好きなのは僕がよく知っている。会話のふとした弾みに人に見せつける必要はなくなった。

 

先日、医局の飲み会で会話の暴走族みたいな人に出会った。見た目は真面目で自信なさげな彼は、他人の話題にバイクで乗り込み、会話のキャッチボールでインターセプトしまくった。人が喋っている最中に彼は遮った。「あっ、僕も……でした」「僕の部活では……」「僕の友達で……したやつがいて」自分の引き出しの使えそうな物は全て皆にかざしてくる勢いだった。正直言って聞かされても相槌を打つしかない内容ばかり。発話が被ったときも話を継続するのは話題主ではなくて彼だった。今他の人が話している途中だろうと何度も思った。しかし、薄々気づいてはいたが、彼の姿は自分にそっくりだった。自己の確立を人に仮託しようと会話で空回りする自分だった。

 

黙る。それが想像しうる最良の選択肢だ。が、直感で沈黙をセレクトできるほど僕(或いは僕ら)はかしこくない。同族は分かるのではないだろうか。置いていかれた話題のなかに自分の共通事項を見つけた喜びを。話に混ざり話題に相応しい人間だと認めさせる希望を。僕(ら)はとうとう「あっ、それ僕もやってました!僕の所では……」と他人に先んじて語り出さずにはいられないのである。

 

そして読書が僕らを救う。

 

僕(ら)は酒の席で場を楽しませられない。中学時代の人気者のように上手くおちゃらけたりできない。場のたづなを握ろうとすれば、会話暴走族のように人の話題を強奪するのがオチである。しかし、読書が自己形成の不足分を補えば、人の会話を奪おうする衝動を抑えることができるのではないか。読書が好きな20代前半の男と自己完結できたとき、人にその真偽を訪ねる必要はなくなる。蓄積された言葉と感性が不用意な口を抑え、必要な量だけの文言を用意してくれる(というとあまりに高尚で到達していない次元になるが)。(読書)趣味によるセルフエスティームは沈黙を選び相槌を打つ余裕を与える。そしてそれは僕(ら)を会話の地獄から救ってくれるのだ。

 

当然話は読書に限らない。ただ、自分の趣味分野の素人に口を出してしまう人は趣味に救われていない。糾弾されるべきでない素人のミスに喧しくして自分と趣味との結びつきを確かめるのは愚かしいことだ。

 

隅っこの僕らを読書は救ってくれる。スマホを捨てよ、書を手に取ろう。

 

平成最後の夏の終わりと一緒に世界も終わりにしよう

 

我ながら悪くない提案だと思う。

 

世界が続いて人間が生殖する限り人間の苦しみは消えない。人間は食べなければ生存し生殖できないが、誰かが食事を得たそのときは誰かが食われる瞬間だからだ。

 

タダで済むならボランティアを使うのが上の人間だと、おおよその日本人は気づいただろう。しかし、そのニュースにせっせと火を焚べる人たちは立場が入れ替わったとき自分が同じ判断をしないと言い切れるだろうか。僕は無理だ。

 

みんなで道を譲り合って生きていければいいがそうはいかない。道は狭い。道徳、こころの授業では教えてくれなかったが、カイジの鉄骨を並んで渡るのは不可能だ。

 

世界が続く限り、誰かが苦しむのだ。

 

だから、平成最後の夏の終わりと一緒に世界も終わりにしよう。

 

外国からすれば平成だか平安だか知ったこたないだろうけど、次のオリンピック開催国に免じて許してほしい。

 

平成最後の夏と世界が心中してくれれば、僕らはまた夏物語の主人公になれなかったと嘆かなくても済む。それどころか僕らは巨大な群像劇の登場人物になる。たとえ自分のパートがヒロインが一人も出てこないシナリオだったとしても。

 

全員が夏の虚像に囚われたままこの季節から動けなくなってしまえばいい。

 

常に誰かを食って生きてきた僕らは平成最後の夏に食われて世界を終えるのだ。

 

『孤狼の血』はアダルトなムービーだった【感想】

 

孤狼の血

 

2018年/日本

監督:白石和彌

原作:柚月裕子

出演:役所広司松坂桃李真木よう子ピエール瀧江口洋介竹野内豊

 

 

 『孤狼の血』、白石和彌監督の最新作ということでワクワクで映画館に行きました。

 

 すごくよかったです。よかったから書いているですけど。なんと言っても演者汁が濃い。警察役もヤクザ役もみんな顔からなんか出てました。どうしたらあんな濃い演技になるんだろう。周りの人間に毎日あの濃さで過ごされたら胸焼けするレベルです。日本人俳優の極まった演技は必見でした。

 

あらすじ

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 昭和63年、ヤクザ抗争の火種がくすぶる広島県呉原市の警察署に、広大出身のエリート日岡(松坂桃李)が赴任する。日岡はベテラン刑事の大上(役所広司)と組むことになった。しかし、大上は違法行為を平気で行い、ヤクザと癒着し賄賂まで貰う悪徳マル暴だった。呉原では、新規勢力の加古村組と地元の尾谷組との抗争が起ころうとしていた。それを抑えるため、合法違法問わずあらゆる手で働きかける大上と日岡。しかし、事態はどんどん悪い方向へ転がっていき……。

 

感想

 やっぱり役者さんの演技が抜群です。(以下も以上も個人名敬称略

 

大上役の役者の役所広司(分かりにくいな)

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 演者汁の量が一番多い。

 

 この人が画面に出ている間(要はほぼずっと)、悪徳マル暴のイデアみたいな顔面と観客は闘わなくてはなりません。完全に負け戦です。繰り返されるド違法☆行為にも、やがて笑うしかなくなります。警察じゃけぇ、何をしてもえぇんじゃ、らしいので。

 

 ただ、無茶苦茶で自分勝手なだけか、というとそうでもなく。法とは全く別のルールに沿って大上は働いています。劇中で語られるその哲学は賛否分かれるところですが、妙な説得力があります。顔面の完成度のせいかも。

 

 良くも悪くも完全されたそのアダルトな姿がこの映画の屋台骨です。

 

松坂桃李

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 個人的にこの映画で一番良かったのは松坂桃李です。松坂桃李演じる日岡は、元々無垢でピュアピュアなエリート青年です。純粋な青年が大上に振り回され、後半怒涛の展開のなかで男としての自分を確立していく、その一連の変化がイケメン俳優イメージをぶっ壊していきました。最初と最後で全然違う。お前その渋さはどこに隠してたんだよってぐらい渋くなります。

 

 特に印象的なのが劇中使われる広島弁です。序盤の日岡が使う広島弁は、広島弁のもつ強く荒いイメージと噛み合わず、ちぐはぐな感じを受けました。しかし、物語が進むにつれて広島弁がどんどん板につき、凄まじいかっこよさを誇るようになります。耳から入って脳のシワを全て埋めてくれます。

 

 ヤングな日岡のアダルトへの変貌がこの映画最大の見ものだと思います。

 

真木よう子

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 えっちです。

 

阿部純子

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 えっちです。

 

江口洋介

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 えっちです。いや別に江口洋介がえっちなことをする映画ではないです。

 

 江口洋介は地元の暴力団尾谷組の若頭、一之瀬役です。スーツのビチバチに着こなす姿はもはやこの世のものとは思えないエロさ。もしフェロモンに色がついていたら、画面がピンクに曇って映画として成立しなかったでしょう。オタクが理想の美少女を創造するのに対し、白石監督は美しいほどかっこいいヤクザを創造したみたいです。

 

 えっちです。

 

若い俳優さんたち

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 他の俳優さんたちも皆さんに真に迫った演技です。ベテランの俳優陣の方々は勿論のこと、若い俳優さんの下っ端暴力団員の役も素晴らしいです。本当にキレて殴りかかったり、本当に組のために死のうとしていたりするようにしか見えません。人はクスリをキメてなくてもあんな表情ができるのだと感動しました。

 

 (追記:画像の俳優さんは中村倫也さんという方だそうです。すごくかっこいい!)

 

まとめ

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 孤狼の血はアダルトな男たちの映画です。ビジュアルはどう見ても男向けですが、男性俳優陣があまりにかっこいいところを鑑みると女性にも勧められると思います。特に江口洋介と後半の松坂桃李にはどハマりしてしまう人もいるのではないでしょうか。尤も、観るのに結構なバイオレンス耐性が必要ですが……。

 

 女性にオススメだからといって、男性陣がこのアダルト映画にガッカリすることはありません。ちゃんと手錠を使ったえっちなシーンもあります。お楽しみに。

 

 孤狼の血、俳優さん方の濃い演技がこれでもかと詰まった作品です。まだ観てない方、役所広司松坂桃李から滲み出る演者汁に溺れましょう。

 

 

 

watabera.hatenablog.com

 

【映画】ロストパラダイス・イン・トーキョー 感想【白石和彌】

  ロストパラダイス・イン・トーキョーという映画の感想です。

  

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 監督は白石和彌さんで、『凶悪』や『彼女がその名を知らない鳥たち』で有名。僕は白石監督の『凶悪』が堪らなく好きである。なので、白石監督の長編デビュー作品であるこの映画を観るにいたった。

 

 

あらすじ

 マンションの電話営業会社で働く幹生は、両親の死をきっかけに、知的障害者である兄の実生と暮らし始める。ある日、実生の性欲処理のために幹生はデリヘルを呼んだ。やってきたのは根無し草のデリヘル嬢(かつアキバの地下アイドル)・マリン。マリンはすぐに実生と親密になり、幹生の想定よりも頻繁にアパートに出入りするようになった。さらに、マリンは自身の夢である「アイランド」に実生を連れていくことを約束する。最初は絵空事だと馬鹿にしていた幹生だが、マリンの言葉を聞き、幹生の本当の幸せを考え始め、本気で「アイランド」を手に入れようとする。奇妙だが幸せな3人の関係。しかし、社会はその平穏を許してはくれなかった……。

 

 以下若干本編の内容に言及しているので、気になる方はブラウザバックを。

 

 

よかったポイント

突きつけられる不条理

 この作品は、現実に存在する不条理から目を離さずに描いている。会社ではパワハラを受け、家では実生に手一杯な幹生の生活。それ以外にも普段は目につかない、しかし間違いなくこの世界に存在する不条理や不幸が、画面に提示されるのだ。ある種の問題提起のような作品でもある。胸がざわつきながらも、画面から目を離せなくなる。

 

 日常的なパワハラに苦しむ幹生、知的障害をもつ実生。デリヘル嬢や年増の地下アイドルとして社会に排斥されるマリン。彼らは不条理や「生きづらさ」に悩まされながらも、毎日を懸命に生きていく。例え褒められない形でも、そこに彼らなりの努力がある。この映画では不条理を叩きつけられると同時に、それに抗うキャラクターたちに心を焚きつけられる。

 

 白石監督の別の作品『牝猫たち』でも、社会的に困難な状況の女性たちの姿が描かれている。 これは日活ロマンポルノリブート作品で18禁だがおススメである。エロという材料を駆使して、不条理に抗い傷ついても前に進む主人公の姿が描かれている。

 

 

人は身近な幸せを見落としてしまう

 この映画は『青い鳥』系のストーリーとして、情感ある作品になっている。

 

 『青い鳥』系ストーリーとは、以下のような流れを辿るものである。

起)欠如を埋めるために目標を掲げる

承)目標のために努力する

転)目標を達成する、もしくは目標到達に失敗する

結)求めていたものは、既に手に入れていたことに気づく

展開や主人公の感情が大きく上下し、作品として見ごたえのあるものになる。この映画も上記のテンプレに当てはまり、心惹かせるストーリーになっている。

 

 ちなみに、本家『青い鳥』のあらすじは以下の通り。

2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。

wikipedia 青い鳥 より引用)

 

 『青い鳥』のテーマは「幸せは意外と身近にある」である。チルチルとミチルが鳥籠に青い鳥を見つけたように、身近なものを蔑ろにするなという教訓を含んでいる。「ここではない、よりよい何処か」を探すのは大抵徒労に終わるのだ。

 

 このテーマは古今東西繰り返されてきた(と言って上手な例えが出てこないが)。挙げるとするならば、『真夜中のカーボーイ』とか『明日に向って撃て!』とか。アニメ作品としてはまさに『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』が『青い鳥』系ストーリーの代表格である(安定で裕福な生活を求めて主人公ら鉄華団は発起するが、幾多の戦闘を経て最終的に鉄華団という存在こそが求めていたものだと気づく)。

 

 この作品でいう青い鳥は、マリンの夢である「アイランド」である。

 

 マリンは、南の島を購入すれば実生が自由に楽しく暮らせるようになると、幹生に説く。最初は馬鹿にしていた幹生もやがて、「アイランド」の購入を目標に掲げるようになる。

 

 「アイランド」さえ手に入れられれば、幸せな生活が手に入る。その目標を共有した幹生・実生・マリンの三人は奇妙は共同体を形成し、ともに生活しはじめる。幹生とマリンの給料で「アイランド」を購入するのだ。

 

 この「アイランド」、観客からすれば、どう見ても荒唐無稽な代物である。南の島を買ったところで、三人で生活していけるはずもない。にも関わらず、幹生とマリンは「ここではない、よりよい何処か」を目指して、「アイランド」を手に入れようとする。ひとつの現実逃避に違いない。しかし、叶うはずもない夢を一生懸命に追う二人の姿は、儚く刹那的で詩的な美しさに溢れている。

 

映画が提示するメッセージ

 最終的に幹生は、三人で夢を追った(世間的に)歪な生活こそが「アイランド」だと気づく。この展開は、悲歎で心掴むストーリーであると同時に、観客へのメッセージが提示される場面でもある。

 

 幹生とマリンはアイランドという非現実に逃避し、観客はこの映画という非現実に逃避している。それを踏まえると、「三人の本当の幸せは『アイランド』ではなく、日々の生活にあった」という展開は、「観客にとっての幸せは、映画(アイランド)ではなく画面の外にある」というメッセージを提示している。二重構造になっているのだ。

 

 幹生とマリンが普段の生活に本来の幸福を見出したように、我々も当たり前の事象に目を向けるべきなのかもしれない。

 

 

微妙だったポイント

長い

 後半になってからは怒涛の展開なので画面から目が離れたりしない。しかし、前半の「起」と「承」がかなり長いので正直だれる。

 

オチが拍子抜け

 ラストまでが現実の社会に忠実に描かれていた分、オチの突拍子のなさにあっけにとられてしまう。ワザとなのかもしれないし、よかったといえばよかったけど。

 

 

まとめ

  長さとかオチとか気になる部分はある。だが、この映画でひたすら描かれる社会の現実や、そのなかで生きる人々の姿は、今を生きる我々の感性を掴んで離さないだろう。さらにこの映画は、身近な幸せに気づけ、現実に目を向けろと叫んでいる。この気づきは、鑑賞体験以上のものをもたらしてくれる。欠点に余りある価値をもつ映画だと思う。

 

 

悪い夢

『「もう嫌だ!!助けてくれ!!」』

 

『なに、おはよう。どうしたの』

 

『……あれ、おはよう。今、俺なにか言ってたか?』

 

『叫んでたわ。もう嫌だ助けてくれって。寝言にしては圧が凄かった』

 

『最近嫌な夢ばかりみるんだ。多分それのせいだ』

 

『どんな夢?』

 

『朝から朝まで奴隷のように働いてる。睡眠時間も3時間くらい。かと言って報酬も大してもらえない』

 

『悪い冗談みたいね』

 

『まさに』

 

『それにしても、まだ5時前よ。仕事の準備にしても早いわ。寝直したら?』

 

『そうするよ』

 

『それとも夢の通りに今から急いで出勤するかしら?』

 

『……勘弁してくれよ』

 

『冗談よ、先に起きて朝ご飯用意しておくわ。おやすみ』

 

『あぁ、助かるよ。おやすみ』

 

〜〜〜〜〜

 

「くそっ、今何時だ」

 

「6時30分かよ。これじゃギリギリだな」

 

「全力で走れば50分くらいにロッカーに着くか。名目の出勤時間には間に合うし、嫌味言われるくらいで終わるだろ……」

 

「畜生、なにが『悪い夢』だ。俺はその悪い夢を毎日生きてるんだよ。嫁さんとゆっくり寝て幸せそうにしやがって」

 

「朝から気分が悪い……本当に悪い夢を見てしまった」

吾輩は陰キャである

 

吾輩は陰キャである。コミュ力はまだない。

いつかこうだったかとんと見当がつかぬ。何でも小学校の時分に友達からハミられまいと怯えていた事だけは記憶している。

 

と言った風に、僕は生粋の、歴戦の、純粋培養の陰キャラである。陰さんなのだ。ヘケッ。

 

僕は陰キャであると同時に、アンチ陰キャでもある。陰キャは集団不適合な存在で、価値の低いものだ。自分の陰キャ加減をずっと負い目に思ってきた。とんだ原罪を背負ってしまった。

 

今までに何度か陰キャを脱出しようとした。陽キャの友達のノリに乗っかろうとしたり、大学デビューしようとしたり。しかし、一見上手くいった時も自分のなかの違和感は消えなかった。陽キャチックに振る舞っていると、どうしても無理をしている気がするのだ。どんな挑戦も結局は陰キャに収束してしまった。

 

ずっと陰キャな自分が嫌だった。みんなと一緒に盛り上がれるような人間になりたかった。会話に詰まったり、沈黙に怯えるのは卒業したかった。他人との比較などで自分が陰キャだと自覚するたびに凹む。余計にその場の陰キャ化が進行するハメになっていた。

 

しかし、どんなに嫌になっても、運動よりもインドアな趣味の方が好きだし、会話中気の利いた発言はそうそう出てこないし、大人数を巻き込めるようなスムーズな動きが出来る訳ではない。もはやこれは体質だ。後天的に獲得したものもあるが、今からどうこうできそうにもない。陰キャを脱出するには、自分の根本にメスを入れる必要がある。そんなことは時を巻き戻して別の精子に受精を譲らない限り不可能だ。

 

こうなると一つの結論が見えてくる。

 

陰キャは陰キャで別に構わないのである。陰キャそれ自体は誰に迷惑をかけているでもない。ただひっそりとしているだけであるし、その性質は本人の深いところから発生していて、そう変わらない。

 

逆に陰キャにできて、陽キャさんにはできないこともある(したくもないだけか)。

 

わたしが会話を始めても

ボソボソ喋るばかりだが

ベシャリが得意な陽キャさんは

(わたしのように)ブログをシコシコ書いたりしない

陽キャとパリピと それからわたし

みんなちがって みんないい

 

陽キャでない自分がダメな人間のように思えて自分をポコポコ叩いていた。しかし、陰キャなのは自分の特性でそう変えられるものではなく、陰キャだからこそ楽しめている趣味や特技がある。そう考え、自分を認めて楽になっていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

自重と自傷を履き違えるな

 

僕は今までこのブログで、「空気読めない発言をする前に一歩止まって考えろ」「言動で失敗したと思ったら反省して次に活かせ」と書いてきた。

 

余計なことを言って失敗してきた人間なので、なるべく失言を減らそうと思い、そう書いた。

 

 

watabera.hatenablog.com

 

 

しかし、これらの行為が思わぬ副反応を起こしてしまった。

 

「発言する前、失言するのではないかといつも不安になる」「注意していたはずなのに言動で失敗したときすごく不安定になる」

 

具体的には、自分が発言するときに今までの失敗が頭を過って、なにを言おうとしても「この発言は本当に大丈夫か」と考えてしまう。なにを言うにもビクビクしてしまう。

 

また、どんなに気をつけていても、自分の性質上ついつい余計なことを言ってしまうことがある。なのに、自分が失敗をしてしまったら、かなり長期間引きずってしまう。

 

失敗して傷つかないよう心がけていたはずなのに、いつのまにか自重行為が自傷行為になっていたのである。

 

全く本末転倒な状況になっている。

 

ここで(恐らく)重要なのは、「注意する」と「失敗に怯える」は全く別物だというポイントである。

 

慎重に言動を選択すればいいのであって、ビクビクしてキョロキョロする必要はない。それらは本来切り離して構わないものだ。

 

とはいえ、それが中々難しい。慎重に言動を選択する際には、どうしても過去の失敗を参考にしなければならないし、そうなると無意識にでも不安が蘇ってくる。

 

だから、まず最初の一歩として、注意と負の感情は本質的には別物だと自分に言い聞かせるところから始めると良いのかもしれない。

 

まとめると、「今まで言動で失敗してきた」からといって「怯えながら発言する」必要はなく、「落ち着いて」間違った選択肢を選ばないことが肝要。しかし、そう簡単ではないので、「注意」と「不安」は分けられるのだと自分で認識するところから始めるのがよいのではないか、ということだ。

 

以上、備忘録でした。