slowly

Watabera Miscellaneous Notes

人生やめてません

医学科と試験

  試験の話。

 

  先日、テストが終わった。

  特に気分が晴れ晴れという訳でもない。なぜならいつも通りに出来に不安があるからだ。

  落とせば落とすほど再試がぶち込まれる。

 

  うちの学科の試験(入試ではなく)はよく難しいと言われる。国試やCBTは難しいのだろう、多分。まだ受けてないけれど。

  では他の専門の試験はどうか。

  ……。

  いや、確かに難しい。低学年の頃から膨大な範囲の事項について暗記のみならず理論まで記憶しなくてはいけない(エッセンシャル)。

  ひたすらに骨の名前をラテン語で覚えたり、生化学なんかは難解な生体内回路について暗記。病理の実習試験では何処から何処までが腫瘍なのかプレパラートを見て答えなければならない。

  臨床の試験に関しても、過去問の選択肢「病気Aに対して薬Bは禁忌である」一つ覚えるにあたって病気Aの病態、薬Bの作用機序を理解する必要があるのだ。さらにそれぞれの病気の予後や治療法においても詳しい理解が必要だ。それが一日に何科目も試験がある。

  とにもかくにも暗記事項が多い。

 

  と、まぁこう書くと試験を乗り越えてきた五六年生が神に等しき存在に思えてくるが果たしてそうであろうか?

  勿論、年に数十人も留年する大学もある。僕の大学は最高ランク程には厳しくないから緩いのかもしれない。

  しかし、試験に通った学生のうち「本来求められていたレベルの知識」を持っているのは何割だろうか。正直、殆ど存在しないと思う。

  多くの学生が、「奨励される水準には至らなかったが六割は超えたので合格」と言った状況だろう。その六割という数字も怪しいものがある。

  医学科の試験は「求められる基準は非常に高度だが、別にそこをクリアしなくても合格出来る」型が多いと思う。中々歪んでいる。正直、他の大学のことは知らないから実は全然違うかもしれないが。

 

  当然のことながら、総合で六割を超えてしまえば何がどうなろうが合格である。誰に文句を言われる筋合いはない。しかし、六割を奪取することと本来必要な知識とは大きな隔たりがあるように思える。

  つまり、単位が取れたからと言ってその講義を履修したと胸を張って言える程の学習が出来ていない学生の方が多いのではないか。

  具体的には、過去問を見ておけば出来る問題がテストに出たりする訳である。そこから生まれた点数は本人の知識によるものではないだろう。努力にはよるかもしれないが。だから、知識が足りてなくても合格してしまえる。

  全く困ったものである。あはは。

 

  何の根拠もない推論だが、今のこの歪んだ成績評価の状態は以下のようにして生まれたのではないだろうか。

医学生に求められるのは全ての科目の範囲における高い知識であり、試験でもそれを要求する必要がある」→

「だが実際にその基準をクリアする人は殆どいなかった」→

「留年生が増え過ぎると学校の運営が立ちいかなくなるので、勉強の内容は高度だが進級の要項を緩める」→

「それが現在まで続く」

  話を聞くにどうも先生方が昔学生だった頃はもっと緩かったようだ。寧ろ最近は厳しくなっている。

 

  実際の所、医学科において全ての試験で求められるの基準を超えるのは相当に厳しいと個人的には思う。ていうか無理。

  科目それぞれに万全の準備をし、範囲の教科書を熟読し、レジュメの内容を暗記………夢物語もいいところだ。そんなことをしていたら試験期間どころか学生生活が終わってしまう。

  そう言うならバイトや部活などせずに勉強に打ち込めと思う人もいるだろう。

  だがバイトはともかく、部活に関してはOBOGなど縦の繋がりが将来役に立ったりする(らしい)ので、(無論その為に部に入る訳ではないが)試験に通っているならば別にわざわざやめる必要もないのだ。

  結局、医学生の多くはバイトや部活をしながら迫り来る試験を何とか超えていくスタイルに落ち着くていく。

  ある種仕方ないと言えば仕方ない。単位が来るのに、それ以上勉強する人があまりいないのは想像に易い。

 

  まとめると、

医学科の試験内容は非常に高度で、全ての科目で満足な理解を得るには恐ろしい努力が必要だが、それを完璧にこなさなくても何故か単位が来る為に多くの医学生はバイトや部活に励みつつ、ギリギリのラインを突破していくという学生生活を送ることが多い。

  だから何って特に何の問題提起でもない。冷静に考えるとあんまりに分かってないのに六割取れるって変だよね、というだけだ。

  それに案外、医学科に限ったことではないかもしれない。

 

  今度のテスト全部受かってるといいなぁと思いながら、筆ならぬ右親指を置きたい。

 

 

 

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ハサミ男 感想

物語の核心は濁しましたが、中盤までのあらすじや話のおおまかな流れはネタバレしています注意してください。

 

 

 

ハサミ男

 

 そのタイトルで棚から手に取り、


「美少女を殺害し、研ぎあげたハサミを首に突き立てる猟奇的殺人犯」


 あらすじを読んで購入を決めた。

 誤解しないで欲しいが、勿論僕にそんなサイコパスな趣味はない。実習でカエルやネズミを殺すのでさえ躊躇うピュアな若者なのだ。ましてや美少女を殺してしまうなんてとんでもない。
 ただちょっとばかし義務教育が過ぎても中二病が治らなかっただけである。
 だからその血が滲みそうなタイトルに色めいた魅力を感じて、ついついレジに持って行ってしまった。

 さぁ今ハサミ男を読み終えた訳だが、全くもって完敗で感服させられてしまった。
 まるで隅々まで趣向が凝らされた美しい細工を鑑賞させてもらったような気分だ。

 物語は序盤から飛ばしてくる。
 少女を相手取る猟奇的殺人犯がなんと主人公、にも関わらず今回の事件の第一発見者となってしまう。その殺人はなんと自分の犯行の手口そっくりに行われていた!
 事件現場に残されたKのイニシャルのライター。
 さらには主人公の多重人格と思しき医者の存在。もしかして本当に彼は存在するのではないか、いや寧ろ彼の人格の方が殺人を行ったのではないか。色々と勘ぐってしまう。
 作者はこの大風呂敷を如何に畳むのかとページをめくり続けた。

 中盤は順調、ある意味(ミステリとして)平凡に少しずつ事件の解明が進んでいく。
 清楚だと思われた被害者女性は実は様々な男を関係を持っており、しかもその動機は他人の感情を試す為だった! などと分かりやすい"目眩し"を投げられてもふむふむと納得していた。
 そして警察側の主人公磯辺たちは遺体の発見者であるヒダカを追うことになる。マルサイ堀之内さんの推理も冴え渡り、本人も知らず知らずの間に距離を詰められる。
 そのまま捕まってしまうのか?いやでも主人公も賢いぞ、そう簡単には終わるまい。
 なんて思っていた訳である。

 それからクライマックスのあの一幕である。
 レールの最高点まで登っていたこの物語は、あのドアチャイムを皮切りに猛スピードノンストップで大暴露へと駆け抜けていくのである。
 矢継ぎ早に明かされる真相、披露される推理と答え合せ、来客に次ぐ来客、そして事態はまさかの収束を迎えようとする。
 医師の皮肉な一言で全てが終わるまで僕は頭の情報を処理しきれないでいた。

 ネタバラシ。事が収まり、この話がどういう結末になるのか見えてくる。
 そして読者が知らなかったものが、予想外のところに隠してあった裏がここでようやく作者から明かされる。しかもかなりご丁寧に。
 この時の僕の頭の中を文字化したら「そうなのか」「なるほどなぁ」ぐらいしか言っていなかったと思う。
 緻密に、それでいて万全な作者の計画がページの裏側に広がっていたのをその時にやっと気づいたのだ。洞察力のなさから僕はころころと作者の手の上で勝手に転がっていた。
 尤も観察眼が足りない方がこういったように読者として最大限物語を楽しめるので、それはそれでアリなのかもしれない。と思ったりもした。

 エンディング。
 クライマックスでこの小説は予想外の所に着陸した。予想を裏切るのがミステリ作家の仕事で、またそうなるのが当然のクオリティだとしても個人的には好きな結末だ。
 またホラーの手法のようなラストシーンが、ハサミ男というタイトルに惹かれた時の気持ちを思い出させてくれた。
 最後まで僕の視線を掴んで離さない作品だった。

 さて、この小説はまず真ハサミ男が偽ハサミ男の被害者を最初に発見してから第一章が始まる。冷静に考えてそれは途轍もない確率である。
 こういうミステリの為の偶然や過去、人間関係はあり得ないと言ってしまえばあり得ない。
 だからそれをフワフワした状態で提示されるとフィクションらしさが目に見えて興醒めしてしまう。リアリティの無さゆえに物語に入り込めないのだ。
 けれどこの作品のように、偶然の足回りや登場人物の人間関係を具体的で地に足の着いた作り方をされると、可能性さえあれば起こり得るのかと不思議に納得(錯覚?)出来てしまう。ちょうど作中で誰かが言っていたように。
 更には納得するだけでなく、もはやある種の名人芸だ、なんてこれは作り込まれているのだろうと感銘を受けるまである。

 こういう作品はもう一度本を手に取って、初見では気付けなかった作者の"細工"を確かめてそのさりげなさに驚くのもまた楽しい。二回目を読もうと思える作品は間違いなく良作だと思う。

 あと、螢という麻耶雄嵩さんの小説もミステリ作家の職人芸を堪能出来るのでオススメしたい。二度楽しめる、美味しくてお得な本だ。

 本の内容を理解するのに頭を使って知恵熱が出てきたのでここら辺で終わりにしたい。
 読んで下さった方、ありがとうございました。

ハサミ男 (講談社文庫)

ハサミ男 (講談社文庫)

 

 

螢 (幻冬舎文庫)

螢 (幻冬舎文庫)

 

 

 

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自己分析と精神の健康と大物youtuber

ごく最近思ったこと。

まず前提条件として、人間はきちんとした自己分析が出来るに越したことはない。と僕は思っている。

自分に出来ることと出来ないことが分かっていれば、自分が実力を出すべき所が分かったり逆に苦手な部分では手を引いて余計な失敗を回避できたりするからだ。

勿論、出来ないことでもやらなくてはならない状況はある。しかし、そのような場合でも正しい自己分析に基づけば「いつもよりも努力すべき」だとか「ミスをしがちだから慎重に行うべき」とかのそれを補填する判断に繋がっていくのだ。

自己分析は上手に生きていくには必要なスキルではないだろうか。

自己分析うんぬんの例として、syamu_gameで有名なあの人をあげたい。ニコ動やら2chやらで散々に晒されているあの人である。彼一人で大きなコンテンツになるぐらいには色々な所でネタにされている。知らなければググ……っても特に人生に得にはならないので好きにして。

彼をネットで馬鹿にすることの是非は置いといて、彼が自己分析を上手く出来ていなかったのは間違いないだろう。

そこまで彼の動画自体を詳しく観たことはないが、別にイケメンボイスでもなければやってる内容も面白くない。面白くしようという工夫も感じられない。それなのにオフ会に人が来るだろうとかファンにアプローチされているだとか思っていた訳である。そんなことでモテるなら最初からyoutubeなんて使わなくてもよかったろうに。

ともかく、彼は自分自身の能力やコンテンツを客観的に見つめるのに失敗して己を買いかぶっていた。他人から良い評価を受けるはずだと思って色々な動画をネットにアップしていたのだろう。その根拠のない自信からかリスクを省みなかった彼は、顔を出し家の中を配信したりしてしまった。あまつさえ自分の配信を有料にしたり、ファン(に化けたアンチ)に横柄な態度を取ったりしたのである。オフ会0人の時の「なんで来んかったんでしょうかね」という台詞にも自分がオフ会したらファンが来る位には人気があるはずという前提が見え隠れする。彼は自分がやっていることを正当に審査出来ず、やたらに過大評価していたのだ。

概してネット民(に限らないかもしれないが)というのは、技術や才能のない者がやり方を間違えて自己を発信しているのを晒すのが好きなのだ。属に言う「痛い」とか「くさい」とかいう奴である。いやそもそも評価されているモノは技術があるから許されているだけで、他人の自己表現なんて見せられるだけ不快なのかもしれないが。

また脱線したがsyamuさんはまさにその典型例だったのだ。よく分からない奴が別に上手でもない歌や踊りやゲーム実況をアップしていて見ていて痛々しい、しかもそれでいて何故か自信有り気な振る舞いをしている。馬鹿にして現実を見せてその天狗っ鼻を折ってやろう、と思われてしまった。そうして誰かの目に止まり拡散され、無事にネットのオモチャとしてニコニコ動画で店頭に並ぶまでになった。その後はまぁ散々な扱いである。

彼は身分相応に振る舞うべきだったなどと言うと完全に行き過ぎているが、自分が他人にどう見えるかぐらいは考えておけばこんな事態にはならなかったはずである。勿論彼に対する侮辱的な行為はそれをする方が悪いが、もしそれを回避する手段があるならば彼が以前から自分の実力にあった行動をすることに他ならない(というかyoutuberなんてせずに普通に働くとか)。

そろそろ自分へのブーメランへとなってきたのでsyamuさんの話はここまでにしておきたい。自己評価能力がなければ、自宅に変な奴が訪ねてきたりネットで楽器にされてしまうかもしれないと分かってもらえれば幸いだ。よっぽど自分を客観的に見れなければの話に限るが。



最初にも書いたが、ここまでの話は前提だ。自己分析は大切だよ、という条件の上で今から書くことに繋げたい。

向上心は大事だがそればかりに意識を集中させると満たされなさから逃げられなくなるのではないだろうか?

要は、自分の足りない所ばかり見てるとしんどくね?ということである。

自分を分析して得意なことを確認するのはよい、けれど不出来なことを受け入れるのはやはり多少の痛みを伴うだろう。辛いし、嫌だ。これが改善出来たらどんなに良いかと思われる。

当然、そこで自分の欠点や不得手を克服しようとするのは間違っていない。他人に迷惑をかけるような欠点なら尚更だ。

しかしそう上手くいくだろうか。苦手なものには苦手になる理由があるし、幼少時の経験や身体の物理的な欠損が原因だと"人並みの対応や振る舞い"までにもっていくのは非常に難しいことだろう。

勿論、出来なかったことが出来るようになるのは素晴らしいことだ。その努力は称えられるべきである。だからと言って出来ないものを無理に出来るようにしたり、努力して進歩がなくてもそれを悪いことだと思ったりする必要がはないのではないか。

日常の隅から隅まで、「僕はこれが出来ないからなんとかしてそれを改善しなくちゃいけない」ばかり考えていては疲れ果ててしまう。自分の負の要素ばかりに目を向けていると心がしんどい。

また、仮に欠点を克服出来たとする。しかしどうせまた新たな欠点が見えてくるのである。苦手を改善することに喜びを見出している人はそれでよいだろう、新たな目標が現れただけだからだ。しかし、自分の不出来を見せつけられるのが嫌だから欠点を克服しようとしている人にとってはまた新たな地獄が始まってしまうのだ。自らの悪いところを見たくないから苦手をなくそうとするのはどうやったって終わらないだろう。

他には、足りない所ばかりを見つめて自分が既に持っているものを蔑ろにするのも良くないと思う。自分が他人より得意としていることや恵まれていることがあってもそれを「あって当たり前」と見なしている為、恵まれてないことばかりが目立つのだ。

例えば家族がまだ存命だったり、学校に行かせてもらえてたり、家庭内暴力がなかったり。勿論、幸福の尺度を他人と比べるのは非生産的だし、自分の苦しみは自分のものであって他人がどうであれ十二分に嫌なめにあっているという論も間違ってないと思う。ただそれにかまけて自分の手持ちのものを無視するのは恐らく間違っている。失っても大丈夫な物以外は大事にするべきなのだ。

さらに自分の出来ないことばかり見つめているとどんどん自信を失って、出来ないとか苦手とか決まった訳でもない事柄に対して自分は向いていないと決めつけてしまう傾向があると思う。自尊心の欠如は認知を歪めてしまうのだ。これは単純に損をしている、多少の傷つきは覚悟で飛び込んでみたら案外上手くいくかもしれないのだ。

もう一つ言えば、自分が苦手を克服出来ないことを悪いことだと捉えると他人が同じような課題を抱えていた時にその人に無闇にマイナス評価をつけてしまうなどのデメリットもある。

自分の欠点ばかり悩み詰めてもろくなことはないのだ。

結局、
苦手を克服しようとするのは良いことだが、日がな一日自分に足りないことばかり考えて無駄に気分を沈ませるのではなく、出来る範囲で努力したり苦手を受け入れたりしながら時には自分が既に持っているモノを再確認するなどで精神の健康を保つべきなのでは?
と思うのだ。

与えられた状況は変え辛いがその中で何処に目を向けるかは自分で選ぶことが出来る。

特にオチもないし後半は何のネタもないが最近思ったことを書いた。この文章が色んな所で晒されないことを祈って終わりにする。

それでは……またのぅ!

 

 

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オタク構文は言葉を殺す

初めてのブログは、です・ます調で書いたら非常に香ばしい文章が出来上がったので、
今回はだ・である調で書きたいと思いま…思う。



大学に入って幾年経った僕の語彙力は知らぬ間にガンガンに削れていた。

高校時代はこうやって文章を書こうとしたりしなかったけれどもあの頃の方がまだマシだったと思う。

今じゃ古文の「いみじ」に対応する現代語も「ヤバい」と「すごい」と「半端ない」しか知らないこの有様である。



何故こんなことになったかというのが「ネットスラング」とかいう奴(を使いまくった自分)のせいなのである。

確かに「お前が元からボキャ貧だったのをネットのせいにするな」と考える人も少なくないだろうが、

ここで槍玉にあげるからにはそれなりの考えがあるのである。

どうか授業中にTwitterで時間を潰している大学生はこのまま読み進めてほしい。



まずはその単語自体について述べよう。

ネットスラング、インターネットスラング

wikipedia大先生によるとその定義とは

『インターネットスラングは、文字通りインターネットで使用されるスラング

らしい。

そのまんまかよ。

要は「ネット上の一部あるいは全体で使われている、その集団でしか意味が通じない造語」なのだ。現実世界で使っちゃだめだぞ。



具体的に例をあげると、

古くは「orz」や「藁」や「乙」から始まり、

Twitterで使われていた(いる)「なう」「わかる」「それな」など、

英語圏だと「lol」なんてものを使ったりするらしい。

また、最近のものだと「ンゴ」などのなんJ語、

「たまげたなぁ」「ファッ!?」「オナシャス」「微レ存」の淫夢語録、

「〜って感じだ」「〜なんだよなぁ」「ぽきた」「セイク」などのオタク構文等々があり、

様々なコンテンツで様々なスラングが日夜使われているのである。

(オタク構文自体がTwitterスラングだし、淫夢語録はなんJ語に含めないのか色々あるだろうけど許して)



では何故ネットスラングなんてものが流行ったのか。

直接的な成因には誤字、誤変換、略語などがあるがそれは置いておく。

スラングのポテンシャルとしての成因、つまり何が、ミームとして成り立つほどの多くの人にスラング使用を促進させたのかについて考えたい。



僕が考える理由としては以下の物がある。

①打ちやすい(打鍵する手間

略語系、「w」「乙」などはこれが大きい。「笑い」や「お疲れ様」と打つより一文字で済ませられる方が圧倒的に楽なのだ。

だから、使用する人が途切れずに続きやすい。

何らかのネタ、コンテンツに基づいていないスラングはこの系統が多いように思える。

「〜〜ですけど、それは大丈夫なんですかね?」なんかの淫夢語録はこの理由は関係ない。どう考えても打ち込むのが手間である。


②ネタが思考不要という手軽さ

スラングの中には応用が利く物も多いが基本的にはそれ単体で使ったり語尾につけたりするだけでよい。

文やネタを考えなくても、知ってるスラングをはめ込みさえすれば誰でも簡単に相手とコミュニケーション出来るのだ。

自分の文章力や語彙力の高さに関係なく一定のクオリティの発信やレスポンスが可能になるのだ。アイデアを使わなくてよいという利便性がある。

最近だとちょうどBORUTOに出て来た、腕につけるだけで螺旋丸が撃てるあの機械みたいなものである。


③簡単に集団帰属欲求が満たすことが可能

スラングはある集団でしか使用されない、集団に固有なものが多い。

したがって集団内スラングを使ってグループの一員として振る舞うことで、あるカテゴリに属していたいという帰属欲求が満たされるのである。

誤字、略語系は範囲が広すぎてこれに当てはまる場合が少ないが、なんJ語や淫夢語録などはこの影響が大きい。

お決まりのスラングを利用すれば、すぐに自分はなんJ民だ、淫夢厨なんだと思えるのである (嬉しいのか?それ

スラングは固定のものなので見た目にはコンテンツの初心者かどうかが分かりにくいのもポイントだ。

多くのネットコンテンツで初心者、ニワカは迫害される傾向にある。しかし、誰が使っても同じ文になるスラングさえあればそれが周りにバレないので楽にグループに入り込める。

仲間意識(一方的なものではあるけど)を育むのも容易だ。

また、スラングが集団の外やニワカに誤用されてたり過剰使用されたりすることに過剰反応するのもこの所属欲求が関係していると思われる。

集団の外の誰でもが使うようになってしまうと、スラングを使ってもアイデンティティが確立出来ないのだ。

微レ存がアイドルの曲名に入った時に反応した淫夢厨が思い出される。

まぁあんな汚い由来の語録がアイドルに使われたら笑うのも分からなくはないが。


④複雑な意味やニュアンスを短めに表すことが出来る

これは①とも被るが略語系ではなく、
ネットスラングには「本来は長い説明が必要なものを一連の言葉にまとめたもの」が存在する。

「大友(大きなお友だち)」というのは「プリキュアアイカツ等の女児アニメを対象年齢ではないのに見ている(世間から見れば)おかしな人たち」を表し、
黒歴史」は「後から振り返ると消してしまいたくなる恥ずかしい過去」という意味になる。

一々こんな説明を挟んでいたら面倒だし何より読みづらくてしょうがない。
スラングは一言端的にまとめることでそれを解消してくれる。

他にも「メンヘラ」なんかも上の二つに準ずるだろう。


⑤受け手が理解してくれやすい

これは②と被るが、集団内スラングはそのかたまりの中において共通言語の役割を果たしており、基本的に注釈をつけなくても伝わる。

また言葉の中で伝えたい本当の意味やニュアンスというのは自分が作った文よりも画一化されたスラングの方が相手に真意を誤解されにくい。

「あの人ってTwitterで格言をRTしたりスタバで本読んでる写真をあげてたりで向上心が凄いよね」と言うよりは
「あの人って"意識高い系"だよね」と
言った方が馬鹿にしてる行間が伝わりやすいだろう。

意思伝達の手段としての信頼性もネットスラングは高いのだ。




細かく言えばまだあると思うが大まかにはこの5つくらいだろう。

まとめればネットスラングとは、
『便利で』『面白く』、使うと『ちょっと心地いい』もの
なのである。

だから多くの人がスラングを使い始めそして使い続けて、やがて一つの形として定着する。



ここまでネットスラングがどのようなものか書いてきたが、
これだと特に害を起こすような存在ではなさそうに思われる。

便利だし、人を笑わせられるし、自分も楽しい。

しかし、やっぱりコイツに僕の国語力はたこ殴りにされたのである。

それは何故か、
形が決まっているからだ。

当たり前といえば当たり前だが、
先に述べたようにおおよそのスラングは固定形なので、
書き込む際に"文を作る"という頭の使い方をしない。

なのでスラングばかりを延々使っていると徐々に俗語たちが普通の語彙や文法に入れ替わり、その結果一般的な言葉の使い方を忘れてしまう。

そしていつの間にやら文章の書き方が分からなくなっているのだ。

例えるなら、コンビニのインスタント食品だ。チンするだけで美味しいハンバーグが食べられ、皿に出すだけでサラダを家族に提供出来る。

仕事や勉強で疲れた日本人に役立つ文明の発明の一つだ。勿論僕も利用している(ファミマのごぼうサラダが好き)。

しかしこうやって手間のかからない食事を繰り返している内に私たちは、
ハンバーグの美味しい焼き方を忘れ、
野菜を刻むコツを忘れる。

料理しなくたっていいのなら、必要ないものは僕らの身体は忘れてしまうのだ。

やがて、今日は自炊するぞ!と息巻いた時に気づくのである。

あれこんなに料理下手だったけ、と。



さらに具体例として"自分語り"をするならば(やはりスラングは端的に表現出来て便利)、

Twitterから入って色んなネットミームに馴染んだ僕は、手軽さや面白さから呟きやラインの一部にそれらを使い始める。

そして全くもって思考が篭っていない言葉をTLに量産した。その方がある集団に向けて「自分は仲間だ」とアピール出来るし、自分で考えるよりもウケのいいツイートが出来たからだ。

その内にその状態が当たり前になってきて自分の中でのカジュアルな文章表現のやり方の基盤に数多のスラングが根付いてしまった。

気づいた頃にはもうまともな文章が書けなくなり、語彙力の低下がすごくてヤバいくらい半端ないことになっていたのである。

なんだか某テレビ番組の某しくじり先生みたいになっているが、大体の流れはこのような感じである。



結局今まで書いたことの要旨をあり大抵に言うならば、

スラングはネット上で発信する時に非常に手軽で有用なものだが、

その手軽さにかまけて頼りすぎると自分の言葉で語れなくなり、現実で困ることなる。

だからネットスラングは上手に使って依存しないようにしよう。

という自分への戒めである。



分かりきったことをわざわざ捏ねくりましただけの文になってしまったが、

自分の中での考えを整理出来たのでこの辺で今回のしくじり先生は終わりたいと思う。

これからは俗語に頼りきらない文章を書いていきたい。

……

はぁ。

久しぶりにこんな長々と書いてきたので疲れた。

なんだか、

眠くなってきたな……

……

そ…

そり…

そりでわ、無限に練りをしまつ

ぽやしみ~

 

 

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Twitterに離れを貸して母屋をとられた

Twitterのしすぎで文章力語彙力が皆無になっているので

ブログでもして回復を図ろうとしましたが…

案の定ネタがないです。

 

書き込むネタがないのは僕が往々にして家に籠りがちで

部活とバイト以外であまり外に出ないからと分かってはいます。

ただ眠気とかめんどくささってそこらの魔王とは比べ物にならないほど強いんですよね。勝てないんです。

どうしても敗北ゲームオーバーの後に宿屋(自宅)のベッドで寝てしまう訳です。

まぁそんなことご存知の方も多いと思いますが。

 

で、ブログとか特にTwitterとかって

本来は「現実世界であったことを書き込む」ツールじゃないですか。

「今何してる?」みたいなのを例の青い鳥に言われたような気がしますし。

それがいつの間にか「Twitterであったことを書き込む」とか、

Twitterで書き込む為に現実世界で行動する」とか

本末転倒なことになってることに気づいたんですよね(僕が)。

 

例えばTwitterに今から飲まんとする缶ビールの画像をアップするとします。

それが「今から一人晩酌して優勝すっぞ!ついでTwitterに呟いたろ!」なら

まぁ利用の仕方として健全だと思うんですよ。オタク構文の是非は別として。

じゃなくてバイト帰りとかにコンビニに寄った時に、

「おっビールあるやん!これ買って写真撮って『オタク一人セイク部集合!』とか呟いたろ!」

となってしまうと完全にあの青い鳥に振り回されてないか?と思っちゃう訳です。

 

流石にここまで典型的な例はそんなにないですけど、

こうなんとなく思い当たる節がある人も多いと思うんですよ。

Twitterにあげる写真の為に飲み会する!」なんてことはなくても

飲み会の前から「飲んでる時の写真アップしよ」とか計画してたりとか。

 

リア垢とメイン垢のTLを比べてみても、

リア垢は「ニックカッコよかった!ズートピア最高!」「めっちゃ今日二日酔い…」とか

出来事や経験が先にあってからその感想が書かれてるんですが、

メイン垢は

「ぽきたw魔剤ンゴ?!(以下略」「#ふぁぼった人に思ったことを言う」など

呟くために呟かれたツイートが散見されます。

他にもそれわざわざツイートする意味ある?みたいなツイートとか。

ツイのオタクはTwitterに縛られがちですよね、今さらだけど。

 

僕らは現実の出来事のフィードバックの為にオラオラとSNSを使っていたはずなのに、

SNSが承認欲求を満たしてくれることに気づいてしまったが為にそれから逃れられなくなって

逆にSNSにドラドラといいようにされちゃっている、という状態なんです。

 

かわいい動物の写真をあげてる人も

「この子がかわいいからネットに写真をアップしよう!」から

「今日の分の写真アップするからかわいい写真とらなくちゃ」に

いつの間にか変化しているとかあるんじゃないでしょうか。

これは邪推でしかないですけれど。

 

ここまでをまとめるとおおよそ一言

「だから何なの?」に集約されてしまうんですが、

何か腹立ちませんか?これ

システムの利用者がシステム(運営?)の手中に落ちるとか、

当然SNSしてなかったら浪費されなかった時間もあったはずです。

なのでSNSを使う時は自分がSNSに使われてないか注意しようって話です。

 

ま、僕はTwitterやめれないんですけれどね。

 

 

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