slowly

Watabera Miscellaneous Notes

人生やめてません

ざっき

 けものフレンズで、サーバルちゃんが「フレンズによって得意なことは違うから!」って言ってたけど、得意なことがないフレンズはどうしたらいいんだろう。

 

 でも、得意なことなんて別になくてもいいんだよね。得意なことを他人から認めてもらいたい人は自信がないだけ。褒めてもらう行為を通して、我が身を認めてあげたいだけ。価値がある人間だって。そんな打算的な性格だから自分が受け入れられないのになぁ。

 

 すごーい!って互いに傷を舐めあってる場合ちゃうぞ、俺はすげぇ!と根拠もなく叫ぶんだ。そうしたらやっと本当に、すごーい!って言えるんだ。

 

 だからまずはこの低語彙な文章を愛するところからはじめなきゃ…… 

幽体離脱するまとめキッズ

 

貴方は最近まとめブログを読んでいるだろうか。

 

まとめブログは、2chやおーぷん2chのスレッドから面白いレスポンスだけを取り出し、文字色やサイズを編集して面白さを強調した一つの記事にしたものだ(NAVERなどのキュレーションサイトも、まとめサイトに入るらしいが割愛)。

掲示板の内容のコピペをするだけで、閲覧者が集まる。広告をつけると収入が入ってくる。今日、まとめブログは幾らでも存在している。

アニメや漫画、ソーシャルゲームの範囲の狭いタイプのまとめブログでさえ、一分野に何種類も存在する。

確かにまとめブログは面白い。没頭して途轍もない時間が経っていた経験は、多くの人にあるだろう。

しかし、気を付けなくてはならない。あまりにも浸り過ぎると、理性と肉体が幽体離脱してしまうのだ。

 

 誰だって自分が嫌になることはある。テストと分かっていて勉強しなかった。調子に乗って余計なことを言ってしまった。酔っぱらってとんでもない失敗をした。

 どうしてあんなことをしたのか……。理性で制御出来ない自分を恨めしく思う。自己嫌悪ともどかしさが一度に襲ってくる。

 その時の感情が二倍になって、しかもいつも自分にまとわりつく。それが、幽体離脱だ。

 

仰々しく言ったが、幽体離脱はある特性が備わってなければ起こらない。ちょっとネットの記事を読んだだけで、自己嫌悪に陥ってしまうなら大騒ぎだ。

問題は、まとめブログにのめり込むような人間にこそ、特性が備わりやすいことである。

 まとめブログを毎日のようにチェックする人間、と言われてどんな人物像が思い浮かぶだろうか。

少なくとも、あまり陽気な人物ではなさそうだ。パソコンやスマホに、まとめブログのリンクを入れ、更新の有無を度々確認する。ブログから更に他のブログに飛び、様々な記事を漁り続ける。こう書くと、どこか病的な雰囲気さえある。

 彼はあまり社会経験が多くなく、他人とかかわるよりも一人でのネット接続を優先するタイプの人間。幽体離脱はこういう人に起きる。貴方はどうだろうか。

 

 ではどのようにして、まとめブログは幽体離脱を引き起こすのか。

 大まかな順序はこうだ。まとめブログに汚染されて、ネット民の思考方法が日常になる。匿名ゆえの攻撃や価値判断が、愛読者の彼を他人の欠点に攻撃的にさせる。最終的には、矛先が自分に向くようになり、理性と身体の乖離が起こってしまう。

 2chなどの匿名掲示板では、コテハンでもない限り、個人に所属する情報はレスにしかない。匿名性ゆえに、誰もが立場や負い目を気にせずに発言出来る。レスには、情報の信憑性以外にも、一切の責任がない。ネットの壁を介せば、何でも言えてしまう。現実では人間関係を壊さないように抑えていることであっても。

例えば、遅刻常習犯の先輩に、不意のミスでこっぴどく叱られたとしよう。当然、貴方は「いつも遅刻してる癖に!」と思うだろう。でも先輩に対して文句は言えない。けれど、匿名のTwitterでなら、先輩の遅刻癖を詰ることが出来る。

 

 画像は「正直バックレバックレできるやつが羨ましい」という記事にまとめられていたレスだ。基本的には正論だろう。だが、現実の〉〉90が同じことを発言するかは、全く分からない。バックレも何も関係ないニートかもしれない。更に言えば、現実ではバックレの常習犯かもしれない。このレスからでは、当然何も分からない。

 しかし、一見しただけでは、普通の若者や会社員が常識的な発言をしている様に見える。

 「正体の分からない人物がネットの匿名性の陰に隠れたうえで行った発言や価値判断」を「一般の人物が常識に照らし合わせて行った」と無意識に捉えてしまうことに恐ろしさがある。

 勘違いを続けていると、ネットでのみ許される正論や強気が、日常の思考回路まで浸食する。ネット世界が日常の一部なら、現実とネットを切り離せないのも訳はない。

 

通常、面と向かっての会話では、自分の体が会話の場にある。よって、どんな言葉にも、私が発言しましたという責任がついてまわる。お前がそれを言うのか、と相手が思うような発言、自分の不肖な部分を省みない意見は出せない。誰だって揚げ足を取られるのは嫌なのだ。

また、直接の対話でなくとも、ネットでも個人が特定されるなら同様に、自分を棚に上げた発言は出来ない。

 

しかし、匿名性の高いネットの掲示板では、話は別だ。現実の姿は、相手には見えない。弱点のない人として誰かを攻撃出来る。酷いニキビ面の青年がハゲを叩いても、でもお前ニキビじゃん、とは中々言われない(ハゲは除く、ネット社会でハゲは致命的な弱点である)。

 

まとめサイトを見ている彼に話を戻そう。

匿名性のバリアに守られたうえで、2chの住人は意見を交わしている。しかし、彼はそれに気づいていない。スマホやパソコンに表示されている言葉を、日常会話のような一定の責任をともなったものだと、思い込んでしまう。何処の誰ともしれない奴の非難や罵倒であることを忘れるのだ。

勿論、実際に2chでレスをしている人間にも同じ傾向はあるはずだ。しかし、実際に掲示板でやり取りをしているならば、相手の姿が見えないことは常識だ。弱点を突くには、レスを叩くか、相手の実態を想像して馬鹿にするしかない。

ラミネート加工されたまとめブログを見るだけでは、その前提は伝わってこない。

 

来る日も来る日も暇つぶしにまとめサイトを見ていると、どうなるか。

当然、思考がネットの色眼鏡に影響される。自分のことは棚に上げて、物事を「客観視」するようになる。

こうして、妙に他人に厳しい陰キャラが誕生する。

自分が他人に対して正論を述べている、と彼は認識している。しかし、本当に正論を言うべき場面であるのか、もしくは自分に言う資格があるのかまでは、考えが及ばない。

 

彼が批判的な思考に釣り合うほど実力のある人間なら、さほど問題はないかもしれない。

しかし、彼自身に抱えている問題がある場合、当然周りは彼をよく思わないだろう。直接か間接か、周りからの自分への厳しい意見に彼はぶつかる。何故怒られなければならないのか。彼は自分自身に向き合う必要に駆られるだろう。

そこで、彼はいつものように自分自身を客観視する。どうだろうか、自分には批難されるような欠点が大量にあるではないか。軽蔑してきた対象と自分は大して変わらなかったのだ。「常識」に照らし合わせると、なんと自分は未熟な存在だろうか。

彼は自分自身を批判の対象をも批判の対象にし始めた。

 

彼は自分の欠点を「客観視」して、他人にバレないよう注意して生きていく。しかし、現実は簡単ではない。社会経験が足りなければ、考え方を改めても常識はつかない。また、常識では分かっていても、気づかぬうちに彼の身体は勝手な立ち振る舞いをするかもしれない。自らの欠点を再発見するたびに、彼は自分自身の肉体におおいに失望し批判的になる。

やがて彼は、常識的な判断に努める理性と、コントロールの効かない肉体の二つに分裂してしまう。

幽体離脱した理性は自分勝手な肉体を受け入れられず苦しみ、肉体は理性からの的確な批判に苦しむことになる。

制御出来ない肉体も自分の一部分である。それを受け入れたうえで、自分の問題として欠点に取り組めば成長もあるだろう。

しかし、いい子でない肉体を他人のように引き離しては当然言うことを聞いてくれるはずもない。

乖離した理性と肉体は互いに傷つけあう。彼の自己効力感はますます低下し、心的な疲労は溜まり続ける。社会経験をネットだけで済まそうとした若者の病理である。

 

ネット住民の一見正しい言葉も、現実の経験がなければ、社会ではおもちゃと同じだ。画面ごしの誰かの非常識を嘲笑う暇があるなら、その正論を現実でも言える自信を身につけた方がよい。

とはいえ、2chのまとめは暇つぶしとしては有能だ。時間を忘れて読んでしまう記事が、ネットにはたくさんある。役立つ記事もある。一概に全部を否定は出来ないのは当然だ。

 

しかし、まとめられた会話が無責任な代物だと忘れてはいけない。注意しなければ、貴方の脳内に間違った「常識」が移植されてしまう。やがてその「常識」は、貴方自身を社会不適合者として攻撃し始めるだろう。

 


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自傷ツイートには気を付けよう!(ゆうさくのテーマ

 TLを見ていると自傷ツイートしている人は多い。僕も結構している。

 自傷ツイートとは、自分の欠点を単純に非難したり、ネタにしたりするツイートのことだ。いわゆる病みツイートと被る部分も多い。自分を卑下するツイートのことである。

 

 だが、あまりに自傷ツイートを続けているとろくなことにならない。何故なら、そのうちに他人を見下すのが癖になってしまうからだ。


 自傷ツイートと他人を見下すことに何の関連があるのかと思うだろう。

 しかし、自傷ツイートばかりしていると、その内に自己評価が下がっていき、それが最終的に他人を見下すことに繋がる。
 自傷ツイートをし過ぎると、どんどん自己評価が下がっていくのは分かっていただけるだろう。それは、ある意味自分の欠点の再確認であり、同時にそれを自ら詰っていることに他ならないからだ。
 問題は、どうして自己評価が低い奴ほど他人を見下しがちなのか、という部分だ。

 一見、自分に自信がある人の方が他人に対して、上から目線でモノを言いそうに思える。見下す為には少なくとも、自分の方が上だと確信しなくてはならないからだ。
 しかし、自己評価が高い人間より低い人間の方が他人に対して厳しい態度を取る割合は多いと思う。何故か?

 そもそも、「自己評価の低い人」とはどんな人のことを指すのだろうか。「劣等感が強い」と言えば分かりやすいが、「自分に厳しい人」とも言えるだろう。
 ただ、ここでの「自分に厳しい」は、俗に言うストイックとは少々意味が異なる。ストイックとは、禁欲的に自らを律することを指すが、前述の「厳しさ」は、自分の欠点に対して強くあたることを指す。
 自分の中のマイナスポイントにこだわって、そればかりを批判しがちなのが「自分に厳しい人」なのである。

 そういう人たちは日々自らの欠点を見つけては、その弱点を鞭打っている。心の中で自傷行為を行っているのだ。
 そして、彼ら彼女らが、(自分にはない)欠点を持った人に遭遇する。そうすると、いつも自分にやっているように他人の欠点を思わず叩いてしまう。口には出さないとしても、痛烈に批判する。

 「〇〇が出来ない?なんてダメな人間なんだ(こんな自分すらも出来るのに)」

 普段自らを散々に痛めつけている矛先が思わず他人に向いて、その人物はアッという間に自分と同レベルかそれ以下の存在として記録される。
 普段自分の欠点を散々詰って、自分を卑下していると、他人の欠点に対しても寛容になれず、自分の欠点と同じように他人を叩く。

 これが、自己評価の低い人間が他人を見下すプロセスである。自分の欠点に対して厳しい人は他人の欠点にも厳しいのだ。

 

 逆に、自信がある人はわざわざ人を見下したりはしない。そもそもそんな必要がないのだ。
 人を見下すという行為は、ある人を自分に対して低い位置に置くことである。そうすることで、相対的にではあるが自分が高い位置にいると実感し、安心することが出来る。

 見下しは「自分が高い位置にあるか分からない」という不安から発生する行為なのだ。
 だから、自己評価が高く十分に自分の価値を感じている人には、わざわざ他人を使ってまで、自分の優位性を確認する必要などないのだ。

 (逆に言えば自己評価が低ければ、自分の優位性を確認する為に、他人を見下す必要がある)
 自信に満ち溢れてるように見えていても、他人の欠点を必要以上に責め立てる人は、何処かしらで自分に不満を感じているのだろう。

 以上が、自己評価の低い人間ほど必然的に他人の欠点を見下し、高い人間ほど他人を見下す行為からは遠ざかる理由である。そして、その自己評価の低下を自傷ツイートが引き起こすのだ。やめようね!

 次に、インターネット世代の我々に身近な例をあげたいと思う。
 DQNの犯罪自慢ツイートを嬉々として炎上させているオタクたち、などは分かりやすい。
 誰かが、犯罪ツイートのスクショとともに面白おかしくDQNを嘲った文章を呟く。そうすると一気に炎上し、彼らの関係者には電話が殺到する。
 勿論、犯罪やそれをわざわざツイートすることは擁護するつもりもないが、ここぞとばかりに劣等感を埋めようと、DQNを炎上させるオタクの姿はあまり見れたものではない。
 Twitterのオタクは自傷ツイートをしまくり、自己評価の低い人が多く見られる(かく言う僕も勿論)。そういう普段自己を非難するツイートをする人こそ、他人のミスや欠点があればすかさずdisっている。

 犯罪自慢ツイートに限らず、オタクたちは自分に正当性が分かるや否や、相手に対して即散々な言い回しをぶつけているように思える。
 他の例として、ネットで偶に見る「ぼっち」と「キョロ充」のdisりあいも挙げられる。

 ぼっちには「友達がいない」という負い目が、キョロ充には「周りに本当の友達として見られているのか分からない」という負い目がほれぞれある。

 その負い目を自ら責める故に、互いの欠点を強く非難し、相手に対してせめてもの優位性を保とうと必死になっている。

 あまりに自傷ツイートばかりしていると自己評価が下がり、自分の欠点に強くあたることに慣れてしまった結果、他人の欠点を見下してなんとか自分の優位性を確認することが癖になってしまう。

 そんな人間になりたくないし、そんなオタクはツラくて見てられない。


 自傷ツイートには気を付けよう!

 (ゆうさく)(ゆうさく)(ゆうさく)


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部屋とYシャツとサブカルクソ女

 

  「サブカルクソ女」という単語がある。具体的にどんな人を指すのかは文脈によって変わるとは思うが、ままの意味を取ればサブカルチャー好きの女性を揶揄するような言葉である。つまりこの言葉はサブカルに対してメタ、マウントを取るような言葉ということになる。

 

  しかし、冷静に考えてこの言葉はサブカル文化圏内でしか使われていない。サブカルに興味がない人の脳内に「サブカルクソ女」は存在しない。馬鹿にする割にはこの言葉自体がサブカルに取り込まれている。自ら同類を攻撃している。ある種の矛盾を内包した言葉なのだ。

 

  「アンチサブカルはそれ自体がサブカルから逃れ得ない」

 

  そもそも「メインカルチャー」に対する「サブカルチャー」であるが、それは単に「メジャー」と「マイナー」という関係に留まらない意味がある。それはワザと「マイナー」を選択することによる特殊性やアイデンティティの確立であり、メジャーに対するマウンティングだ。メインカルチャーへの否定と支配欲求が含まれている。サブカルとはそういうものでもあるはずなのだ。

 

  だからアンチサブカル、具体的にはサブカルを叩くことによってそこに面白さや価値を見出して自ら売りにすることそのものが「サブカル的行為」になってしまうのだ。アンチサブカルはサブカルをネタにすることによって、サブカルよりもメタ的な位置につこうする。しかし、その過程こそが「サブカルチャー」の形成過程に準じている。結局アンチサブカルはサブカルへと同化していくのだ。

 

  「ポプテピピックはサブカルクソ女を馬鹿にしてるのにサブカルシンボルとして使われてるの皮肉だ」といった内容のツイートをこの前見た。youtuberやサブカルクソ女を散々に叩いているポプテピピックこそがサブカルコンテンツなのはファンなら誰でも知っていることだろう。まさにアンチサブカルがサブカルであることの典型例だ。また、同様にポプテピアンチもまたサブカルと言えるだろう。

 

  別の考え方をすれば「アンチサブカル」は「サブカルチャー」のさらに「サブ」、「メイン」から見た「外の外」に位置づけされる。しかしどちらも「外」であり、「内」から見ればそこに大差はない。そういう意味でもアンチサブカルはサブカルに内包されるのだ。

 

  ここで留意したいのが「アンチサブカル(外から内への攻撃)」と「メインカルチャーからのサブカルへの拒絶(内から外への攻撃)」の違いだ。後者は別にサブカル的行為には含まれない。アンチサブカルはサブカルをネタにすることによって存在し得る。その為にある意味サブカルに依存している。HIKAKINがいなくてはその動画をxvideosにホモビとして投稿出来ない。一方、メインカルチャー的な人種はサブカルには大方無関心であろうし、サブカルに向けられるマイナス感情は単に「気持ち悪い」などの拒絶である。メインカルチャーは別にサブカルの有る無しに依存せずに存在を保っていられる。その点において前述の二つは大きく違う。語弊はあるだろうが、漫画しか読まない人は村上春樹の文章やファンをわざわざネタにしない。

 

  サブカルクソ女を嬉々として罵る男こそそういうタイプが好きだったりすると考えれば、案外すんなりくるのではないだろうか。いや全然違うか。


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希死念慮の地層の上を歩いている

 希死念慮という言葉を大学に入ってから知った。要は死にたいと思うことらしい。初めて見かけたのはTwitterだったし、それ以降もTLでしか見たことがない。SNSで語られる大したことない「死にたい」も、希死念慮というと何だかとても高尚な響きがする。

 

 個人的に希死念慮に陥る時には段階がある。まず「何か失敗をして」、「それが自分の能力不足のせいだ」と判断する。そして「その能力は思春期を越える過程で身に着けるもので今更手遅れだ」と思う。そして「この人生もう修正効かないしダメじゃん。どうせ上手く行かないならもうやめようぜ」と諦めたくなる。パワプロくんでケガが重なったらサクセスをやり直すと一緒の感覚だ。これらはちょうど地層のようになっていて、精神が安定している時の僕は地表を歩いている。しかし、一度何か事件が起きるとその地面に穴が開いてしまう。それは思考のドツボだ。小さな穴なら飛び越えられるが、穴に足がハマってしまうと大変だ。地表の下の層は柔らかくて一度足を踏み入れるとずぶずぶと沈んでいく。悩み始めると思考は負の方向に加速していく。そうしてやがて希死念慮の層にたどり着く。希死念慮の層は思考の一番下にあって、僕はいつも最終的にそこに降り立つのだ。とは言っても現実問題僕は生きているし、人生放り投げたいと考える暇もない時がある。そうやって何も考えてないと上からまた徐々に土が積もっていってしばらくすると僕はまた地表に出ることが出来る。そしてまた何かあると地層を下っていく。それの繰り返しだ。

 

 考えなければしんどくないなら悩まなければよいのでは、と思い至ったことはある。しかし「悩む」ことで自分の欠点を知り次なるミスを防いでいる面もありそう簡単に捨てられない。じゃあ、「失敗の対策法を考えてもいいが悩んではダメ」というルールにすれば良いと考えた。妙案で、実際それがある種の正解のように思えた。しかしそう簡単に物事は運ばなかった。負の感情というものは勝手に湧き上がるのだ。反省するだけのつもりがいつの間にか僕は一番深い地層に足をつけて人生をリセットしたがっている。

 

 日本人の「死にたい」は「何もかも放ってハワイに行きたい」程度のニュアンスしかないという文を見かけたことがある。確かにハワイで一生何もせず暮らせるなら死ななくてもいいかもしれない。でも結局現実から逃げ出したという事実に耐えられなくなるような気もする。今中途半端なこと全て投げ出してもいきたいかと言われるとあんまりそう思わない。拗らせたって何もいいことはない、何もかも忘れてハワイで豪遊出来る人間の方が得に決まっている。

 

 でも、ハワイには行ってみたい。ハワイは火山帯だから地層は固いのだろうか。


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暴投する奴とキャッチボールはしたくない

  乾燥のボタンを押したら機械がゴロゴロと音を立てたので、とりあえず火急の家事は終わった。

 

 

  僕は人に物事を伝えるのが下手だ。例えば最近あった面白い話を誰かに伝えたり、例えばオススメの小説の面白さをプロデュースしたり、例えば部活の練習中に部員に要望を伝えたり、他にはこうやってブログを書いてみたりすることが中々上手く出来ない。

 

  人に何かを伝えることはまさにコミュニケーションの片側であり、生活の至るところで必要とされる。出来なければそれはそのまま毎日を送る支障になる。

 

  だからと言って「私はお話をするのが下手」なんて看板掲げて歩く訳にもいないし、「最低限の意思疎通は可能」なつもりになって僕は毎朝家を出る。

 

  つもりになったところで能力がつく訳ではない。僕は会話の最中に(愚かだと思うけれど)正解の台詞を探そうと頭を必死に回転するし、周りの人は何となくそれを察するはめになる。

 

  それでも24時間経てば日は変わるし、学校に行って帰ってくれば授業に出たことになる。会話のキャッチボールは暴投しても何とか相手が拾いにいってからまた投げ返してくれる。なぁなぁの状態を続けた結果、僕は足りない言語能力を抱えて現在を迎えてしまった。

 

  これで誰が困るかといってやはり自分が困る、そして勿論他人にも迷惑をかける。この能力の有無が大多数の人と僕の生活との間にひと目では分かりにくい、だけれども致命的な違いを生んでいるような気までするのだ。

 

  では具体的に何が足りないのだろうか。

 

  語彙力?あり得る。しょうもないSNSにのめり込んでる間に本でも読めばよかったのだ。語彙が少なければ少ないほど、全く違う感情や意味合いをたった一つの言葉で表現する羽目になる。逆に言えば一つの言葉の示す意味が広がりすぎて、示したいことの輪郭が見えなくなってしまうのだ。それではあの小説の何処がどういった風に何故面白かったかなんて伝えられるはずはない。

 

  会話や他人との交流の経験が少ないこと、他人の目を見るのが怖いこと、過度に自分の言動による他人の反応に不安を持つこと。先の展開を考えずに言葉を始めてしまうこと。挙げようと思えばいくらでも適当に並べれるような気がする。

 

  しかし、あまり確信はないけれど一つ大きな原因があるような気がする。「想像力の欠如」と言えるような何かだ。最近読んだ朝井リョウの何者に出てきたワードで、作中と大体同じ意味な気がする。

 

  想像力だけで言えば僕は空想するのが好きなタイプの少年だったので足りてないことはなさそうだが、先ほどの言葉を正確に言い換えると「他人に対する想像力の欠如」となりこの定義だと僕は途端に赤点になって単位を落としてしまう。

  

  自分の言動が他人にどう受け止められるか、どういう印象をもたらすかを考えない立ち振る舞いはまさにキャッチボールでひたすら暴投し取りに行かせるような所業である。

 

  想像力、言い換えて思いやりの欠如が具体的にどういう機序で僕のトーク下手や説明下手を引き起こしているのかまさに今僕は上手に説明出来ないが、これの解決は僕の何かを変えてくれるような気がする。解決すれば。

 

  困っているからには治したい。誰にでもとはいかなくても日常に支障がないくらいにはマトモに話せるようになりたい。だから多少は努力しようと思う。

 

 

  取り敢えず、明日は早く起きてゴミ出しをして朝食を食べてから一日を始めよう。

  

  


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オタクはなぜ頭をぽんぽんしてしまうのか

 そう。
 何故なのか。
 何故オタクは他人しかも異性のパーソナルスペースに入ってもいいと思ってしまうのか。

 勿論オタクとて悪気がある訳ではない(下心はある)。こうしたら女の子が喜んでくれる(そして自分の評価が上がる)と思ってぽんぽんしてしまうのだ。

 しかしされた方は堪ったものではない。心を許してない、しかもどちらかと言うと遠ざけたい存在に自分の身体を触られる。しかも親しみを込めて。すぐに拒否反応が身体中を駆け巡り、何たら神経が興奮し、毛という毛が逆立ちしてしまうに違いない。元々地に落ちていたオタクの評価はとうとうマントルにまで突入するのである。こうなっては地上に戻ることすら叶うまい。

 はぁ……
 なんと哀しいすれ違いか。
 同じような悲劇を繰り返さぬ為にも、どうしてこんなことが起こるのか明確にしようではないか(言っておくが僕は頭ぽんしたことない)。


理由①
ネットや何かの記事を鵜呑みしてしまった。

 当たり前である。そりゃあ何処の誰とも知らない人が書いた文章を盲信した結果がそれなのだ。
 いや当たり前なのだが、何処か違和感を感じないだろうか?

 オタクと言えばネットリテラシーに自信ニキではなかったか?
 安易に個人情報をTwitterに載せる奴らを情弱と嘲笑い、迷惑行為をネットにアップしたとなれば直ぐ拡散の後に不特定多数の力を持って、その不埒な輩に正義の鉄槌を下すのがオタクの生業ではなかったのか?
 ネットで真実を見つけた気になっているネトウヨを叩くのがお仕事ではなかったのか?

 インターネットの情報の取捨選択には熟れて尚且つそれ相応の自負があるはずなのに、どうして記事の文章を疑いもしなかったのだろうか。

 結論、自負があった"だけ"なのだ。
 情強だと無駄に自己評価しているから、自分が詳しくもない分野の情報を確かめもせず信用してしまった。ネットの運用には詳しくても現実世界の運用にはてんで疎いことを留意していなかった。まさかこの情報強者の僕がガセの可能性がある記事を信用するようなことなどあるまいと心の何処かで思っていたのかもしれない。
 さらに情報を仕入れることとそれを実際に活用することは違うのだという簡単なことにも理解が及んでいなかったのだ。
 ハセカラキッズが行き過ぎた行為で逆に晒されたりするのもこの類いの話だろう(違う?

理由②
他人との距離感が測れない(物理的にも心理的にも)。

 はい!
 はいはいはい!!!
 これ!
 これに尽きる!!
  今回はこれが言いたい。

  人と人の間にはそれぞれの組み合わせによる距離感、親密度がある。だから基本的にはそれに沿った行動が想定されているし求められる。
  例えば初めての人には挨拶から入ったりあまり馴れ馴れしくは接しない。親友と呼べるような仲なら多少からかうのも許されるなど、人との触れ合いはその個人との関係性が重要だ。
 逆に初対面の人にズケズケとプライベートを探られたり、親友だと思っている人にヨソヨソしい態度を取られたりすると違和感を覚える。
 勿論いつまでも他人のように振る舞うと友好を深められないし、親しき中にも礼儀ありとかいう文言もあるのだが、通常は親密度に寄る態度が取られることが多く、そう振る舞うのが常識だと考えられている。

 しかしこの距離感をオタクは測り違えてしまうのだ。
 他人との距離というのは自分一人で決まるものではない、相手があってそれによって間が生まれる。なので自分がいくら近付こうとしても向こうがそっぽを向いて逃げてしまえばその距離は永遠に縮まらない。
 それなのに、自分の妄想や肩書きのみに沿った関係性に自分と相手を無理矢理押し込め、勝手に親しくなったつもりで頭をぽんぽんしてしまう。相手は突然距離を寄せられてビックリすることになる。

 それどころか頭ぽんは親しい相手にされないと嬉しくない(ていうか親しくても嫌か)ことも分かってなかったりする。これは厳密には距離感が掴めないとは違うかもしれないが、相手との親密さの扱いが下手なのは間違いない。



 というように以上の①と②の理由からオタクは頭をぽんぽんしてしまうのだが、ここからは②の距離感取れない問題を追究していきたい。これは我々オタクにとって憂慮すべき問題であることに疑いはない。
 とりあえず頭ぽんされた女子は彼らは哀れな奴なのだと一瞬思ったうえで、LINEやTwitterで晒して散々に貶そう。

 そもそも、オタク距離感取れない問題は頭ぽん事変のみに限らない話だ。その人間関係の不器用さ故に様々なトラブルを引き起こしてしまう。地下アイドルのストーカーだとか、絵描きさんに無料で仕事を突然依頼だとか、水商売の嬢にガチ恋LINEだとかその辺である。端から見ればその二人より 位置関係が分かるから明らかにおかしい言動でも、本人は相手しか見ずに行動している為自らに疑問を抱かなかったりする。

 某アニメで有名な「ヤマアラシのジレンマ」というお話があるが、世のオタクはまさにこれを地で行くのである。ヤマアラシのジレンマとは、ヤマアラシがお互いの温もりを求めて身体を寄せ合おうとするのだが、近付き過ぎるとトゲだらけの毛皮が刺さり、逆に遠すぎると温め合うことは出来ないという板挟み状態のことを言う。

 まずオタクたちは今までの失敗などにより他人から傷つけられるのを過度に怖がることが多い。なので最初は他人から距離を取る。三次元の女に興味はないだとか、孤高を気取ってぼっち飯だとか、キョロ充はダサいと主張したりするのはちょうどヤマアラシが他人の針によって傷つくのを恐れるようだ。

 しかしそれだと他人から温もりは貰えずヤマアラシは寒い思いをする。オタクもカップルを見たりだとか色々で他人と関わっている人たちを羨ましく思い、寂しさを味わう。そうしてヤマアラシで言う身体を寄せる行為、人間では他人との心の距離を詰める行為をしようとする。

 ここで互いにトゲが刺さらないように相手との距離を測り上手な位置に自分を置けばいいのだが、恐れ多くもオタクたちは親密になるやり方を知らない為に全力で近寄ってしまうのだ。頭ぽん、唐突な告白、その他諸々のキモい行為、勿論それは対異性だけに限らない。結果、オタクたちには他人からの拒絶というトゲが突き刺さり、すごすごとまたトゲが絶対に刺さらない位置へと逃げ帰るのだ。

 そうして他人との接し方を学ばないまま失敗体験だけが積み重なり、世間や異性、友達になれるかもしれない人に背を向けることになっていく。幼い頃や成長期での人間関係友達関係での失敗がその後の人生に大きな歪みをもたらすこともあるのだ。

 オタクは他人と自分の仲を履き違えて行動してしまう。確かにそれ自体は周りからしたら迷惑以外の何ものでもない。ただやはり悪気はない、出来ることなら他人と上手に仲良くやっていきたいのだ。しかし彼らは持たざる者故に失敗する。オタクの行動に相手に対する配慮が欠けていることは多い。それはわざとではなく相手の気持ちが想像出来ない、もしくは相手のことを考慮するということを知らないからなのだ。オタクの問題行動に悪意は存在しない。それでもやはり他人からすれば迷惑は迷惑なのでオタクは疎まれる。

 どうだろう、ここまで読んだ奇特な方はこう思わなかっただろうか?
 「オタクって可哀想な生き物なのね」と。
 そう思われた方は明日から少しオタクに優しくしてもらえないだろうか。オタクは成功体験に飢えているのだ、失敗の連続に自信を失ってしまっているのだ。このままじゃ殻に籠ったままか偶に誰かに近付こうとしてまた大火傷するかしかない。それではあまりに報われない。
 貴方の少しの優しさがオタクたちに他人との触れ合い方を学ぼうかなと思わせるガソリンになる。また、貴方自身も日を過ごしやすくなるかもしれない(それで調子乗ったことしたらシバいていいと思う)。
 どうか哀れなオタクに魂の救済を……

 

watabera.hatenablog.com

 

 


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